[27]

 リュトヴィッツは担架から起き上がった。後頭部の皮膚がちくりとする。次いで痛みがやって来た。傷のあたりにそっと手をやる。ガーゼが指に触れた。長方形の縮れた布が絆創膏で留めてある。その周囲は奇妙なことに毛が無かった。剃られたのだ。

 犯行現場の写真をぴしゃりぴしゃりと1枚ずつ重ねていくように、記憶の映像が次々に切り替わった。地面を覆う、ねばついた泥。耳元を通り過ぎる銃弾。チャンジバッゼの額から吹き出す赤い霧。リュトヴィッツは操車場の倉庫で起きたことをすさまじい速さで思い返して時を遡り、妻のエレーナを失った苦悶にぶちあたった。

「ああ、悲しいかな」リュトヴィッツはつぶやいた。

 眼をこする。タバコを1本くれるなら、そいつに両腕を差し出してやってもいい気分だった。

 スヴェトラーノフが顔を覗かせた。ほぼ1杯に入ったナルザンの箱を持っている。

「おれがお前を愛してること、前に言ったことあるかな?」リュトヴィッツは聞いた。

「ありがたいことに一度もないね」スヴェトラーノフは答えた。「こいつはヤンソンスさんから貰ったものだ」

「気が違いそうなくらいありがたいよ」

「味な修飾語をつけたな」

 リュトヴィッツは身体を上から下に両手で叩いてみた。腕時計。財布。車の鍵。拳銃。身分証がなくなっていた。車を止めたあたりとその向こうの倉庫を見た。何台もの警察車両に、大勢の技官や制服警官が現場検証を行っていた。公用車が影も形もなかった。リュトヴィッツはまだ生きていることを実感した。そんな辛い眺めは現世しかありえないからだ。

「おれは撃たれた」リュトヴィッツは呆然と言った。

「かすっただけだ。どっちかっていうと火傷だと救急隊員は言ってた。縫う必要はなかったとさ」

「相手は3人いた。ババジャニヤンとチャンジバッゼ、それから・・・」

「やっと、眼が覚めたか?」ギレリスがリュトヴィッツの言葉を遮った。「だったら、いつまでも伸びてないでこっちへ来い」

 リュトヴィッツはスヴェトラーノフの肩を借りる。半ば歩き、半ばよろめきながらギレリスのそばに歩み寄った。ギレリスの足元は辺り一面血だらけだった。2つの死体が転がっている。検視官のコルサコフと助手のポポフが慎重に死体を調べていた。

 ギレリスはポポフから2人の身分証を手渡された。身分証を一瞥してやれやれといった感じで言った。

「屍肉の名前はババジャニヤンにチャンジバッゼか。2人ともチェチェン風の名前だな。だが、チュルキどもに関しては確かなことは言えんが」

 北部ロシアに住む人間の例に漏れず、ギレリスはマフィアの構成員に多いグルジア人やチェチェン人などの南部出身者をチュルキ、すなわち「沼の民」と呼んでいた。

 屍肉とはよく言ったものだ。リュトヴィッツはそう思った。2つの死体に人間らしさを認めることはかなり難しかった。むしろ、肉屋の冷蔵庫に鉤で吊るされた方がふさわしいように見えた。

 もとババジャニヤンと思われる遺体は喉を深々と切り裂かれていた。創傷はほとんど頸椎に達する程だった。ギレリスが血に染まった上着の内ポケットに手を入れてコルトのリボルバーを取り出し、小声で呟いた。

「いくら用心しても、しすぎることはないってか」

「右の膝がきれいに撃ち抜かれてるが、致命傷は首だな」コルサコフが言った。「犯人は楽しみながら、切ったって感じだな」

「膝を撃ち抜いたのは、君だな?」

 ギレリスから険しい視線を投げられる。リュトヴィッツはうなづくしかなかった。コルサコフが今度はチャンジバッゼの遺体に近づき、額に穿たれたコペイカ硬貨ほどの穴の縁をなぞってニヤりと笑った。

「このスターリンのそっくりさんは、頭だ。解剖がやりやすいと思うよ」

 ポポフが遺体から次々と遺留品を取り出す。琥珀色の数珠。汚れた札束。飛び出しナイフ。蓋に裸の女の絵が浮き彫りにされた小さなタバコ入れ。タバコ入れを開けて鼻を近づける。箱に入っていた手巻きタバコの臭いを嗅いだ。

「コジャックのようです」

「イスラム教の連中が好んで吸いたがる葉っぱだな」ギレリスはリュトヴィッツの方を向いた。「君が担架の上で伸びてる間に、刑事部長が現場を見て、君に長期休暇を与えるよう言っておられた。君の銃で、人がひとり死んだ。目撃者はいない」

「現場に、もう1人いました。そいつがババジャニヤンの首を切ったんです。たぶん、ナイフかなんかで。そして、おれの銃を拾って、おれを殺そうとしたんです」

「君の銃は、近くの側溝から発見された。いずれにしろ、処分は自動的に決定。君の身分証と銃は今、私が預かってる」

「間違いなく職務執行上の発砲でした」

 リュトヴィッツは言った。自分でも泣き言のように聞こえた。

「ある殺人事件について、信用できる情報をつかんだんです。それで話を聞こうとしたら、向こうが発砲してきたんです」

 ギレリスはそれには答えず、近くにいた制服警官に言った。

「目撃者は?」

「近くに住むご婦人が。と言っても、90歳でしたが・・・りっぱな身なりをした30歳前後の男が、倉庫から出てきたそうです。ブロンドの髪にきれいな顔立ちで、映画に出てる俳優みたいだったとか」

「凶器はどうだ?犯人は持ち帰ったのか?」

 制服警官は肩をすくめただけだった。

「そこの運河をさらえ」ギレリスは命じた。「投げ捨ててあるかもしれん。逃げる途中で、塀越しに放り投げた可能性もあるから、周辺の道路も調べるんだぞ」

「これはどう見ればいいんでしょうかね?」制服警官が言った。「また縄張り戦争が始まったんでしょうか?」

「戦争については何とも言えんが、この街が人間の血を吸うのに慣れてることは間違いないだろうな」

 ギレリスはリュトヴィッツの方に向き直り、背広の内ポケットからマカロフと中央内務局の身分証を取り出した。身分証はビニールのフォルダーに入っていたが、その安っぽい赤さだけでも目立つ代物だった。

「たった今から、君は私の相棒だ。私のそばを離れるんじゃないぞ。今度、勝手にこんなマネしたら、容赦なくクビにするぞ。分かったか?」

 リュトヴィッツは夢の中にいるような、ふわふわとした気分で身分証とマカロフを受け取った。

「よかったじゃないか」スヴェトラーノフがぽんと肩を叩いた。

 刑事たちは操車場の外に出る。ラザレフがギレリスのジグリに搭載された自動車電話で話していた。ギレリスの姿を見るなり、受話器を振った。

「民警59分署のペトロヴァ少尉からです。ヴィシネフスキーが盗難届を出してたそうです。殺される2日前に」

「民警の連中は今まで何をやっていたんだ?夏休みか?」

「直接お話になりますか?」

 ギレリスは受話器に手を伸ばしかけて止めた。途中で考えを変えたようだった。

「いや、30分後にヴィシネフスキーのアパートで会おうと伝えろ」

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