[28]
オルガ・ペトロヴァ少尉はヴィシネフスキーのアパートがあるグリボイェードフ運河沿いの道路で待っていた。30代前半の魅力的な女性で、こげ茶の髪を頭の後ろで束髪にまとめていた。
私服を着たペトロヴァの姿に、捜査で頭がいっぱいらしいギレリスは素っ気なく挨拶した。大して関心を払わなかったギレリスとは対照的に、リュトヴィッツは女性警官の面立ちにどこか見覚えがあった。ヴィシネフスキーのフラットまで5人で階段を登っている間にしばし見とれていると、ペトロヴァがリュトヴィッツに話しかけてきた。
「リュトヴィッツ大尉ですね。弟がいつもお世話になってます」
「君の弟が?」
「60分署にいる新人のセルゲイ・ペトロフはあたしの弟です」
「民警はもう長いのか、少尉?」
「4年です。その前は、弟と一緒にオリンピックの体操チームにいました」
全身から漂うはつらつとした雰囲気に納得する。
「ギレリス大佐。この事件に関して、もう1つ発見したことがあります」
「うっかり忘れてたことがもう1つじゃないか?それとも、獲物を小出しにすることで君の能力を印象づけようというのか?」
「違います」声にむっとしたような響きはなかった。「実は59分署へ転任してきたばかりなので、まだ勝手がわからないのです。もう1つの発見は大屋敷に電話したすぐ後に判明しました」
フラットの外の踊り場までたどり着いた。
「で、何を発見したんだ?」
「3か月ほど前、わたしがまだ59分署に着任する前ですが・・・」
「よろしい。報告の遅れが君の責任でないことはよくわかった」
「ありがとうございます。ドミトリ・ヴィシネフスキーが分署を訪ねて警護を願い出ているんです。マフィアに狙われているという理由で。ところが、わたしの前任者であるチュイコフ中尉はこれを却下しました。却下しろという命令が出たからです」
「命令?誰から?」
「保安省の誰かです。理由はハッキリしませんが、国民の誰ひとりとして特権を与えられるべきではないというのが、表向きの理由でした」
「そのチュイコフ中尉に話を聞いてみたいものだ」
「残念ながら、それはできません。中尉は2週間前、肺ガンで亡くなりました。それで、わたしが転任してきたのです。わたしにわかっているのは、その決定をヴィシネフスキー氏に伝える際、中尉が彼にボディガードを雇うよう助言したとのことです」
「で、ヴィシネフスキーは?ボディガードを雇ったのか?」
ペトロヴァが肉感的な唇をすぼめる。
「雇ったようすはありませんね」
ギレリスはけたたましい音を立てる呼び鈴を鳴らした。ドアを細目に開けたカテリーナ・ヴィシネフスカヤは刑事たちを見て、あまりうれしそうな顔をしなかった。
「またおじゃまして申し訳ない」ギレリスが言った。「少し質問したいことがあるのです。大して時間は取らせません」
「入っていただいた方がよさそうね」
カテリーナは後ろに下がり、狭い廊下を開けた。5人は玄関ホールに入り、カテリーナがドアにかんぬきを掛けるのをおとなしく待った。
「お茶でもいかが?」
カテリーナが共同の台所に刑事たちを案内する。
この誘いに、リュトヴィッツはがっかりした。ワードロープを改造したあの書斎に再び入って、ピンボードに貼られたあの写真をもう一度拝みたい。密かにそう思っていた。
台所の設備は標準的なものだった。冷蔵庫が2台。コンロが2台。流しが2つと壁にかかった浴槽が2つ。天井から大きな木のラックがぶら下がり、洗濯物がこの古い建物の湿っぽい空気にさらされている。かなり使い込まれた木のテーブルに、傷とでこぼこだらけの大きな真鍮の湯沸かしが置かれている。隅に黒猫が寝そべっていた。
カテリーナが人数分のカップにお茶を注いで全員に手渡した。
「お砂糖もミルクもなくて、申し訳ありません」
どちらも要らないというしるしに、刑事たちは首を振った。
「亡くなる2日前、ドミトリ・ミハイロヴィチから民警に盗難届が出されています。何か物を盗られた覚えはありませんか?」ギレリスが切り出す。
「盗難?」カテリーナは首をすくめるようにして、口元に笑みを浮かべた。「盗難なんて、覚えがありません。玄関のドアをご覧になったでしょう?」
ペトロヴァが首を振る。
「届け出によると、ヴィシネフスキーさんは窃盗犯が紛失した鍵を使って中に入ったと推理しておられます」
「ええ、確かに。よく鍵を失くす人でしたけど」
「《金の子牛》文学賞のトロフィーと、現金50ルーブルが盗まれたようです」
「そんな話、はじめて聞きました。でも、そう言われてみると、トロフィーのことは気になってたんです。しばらく見かけませんでしたから。けれど、あれを欲しがる人がいるなんて、ちょっと考えられません。本物の金出来てるわけじゃないんですよ」
今度は悲しげな笑みが浮かんだ。
「あれが本物なら、わたしたちはとっくに売ってたでしょう」
「盗んだ奴は本物の金だと思ったのかもしれません」ギレリスが言った。「他に何か、なくなったものはないですかな?」
お茶をひと口含んでから、カテリーナは無言で首を振った。
「書類とか、テープとか・・・」
「わたしにどうやってわかります?ドミトリの持ち物はほとんど、あなた方が持って行ったじゃありませんか?」
「ええ、お預かりしました。でも、それ以前は?」
「ありません」
「おいしいお茶ですな」
ギレリスにならってお茶をひと口飲んだリュトヴィッツも思わず、同意のうめきを漏らした。
「先日、サンクトペテルブルク・テレビジョンのユーリ・パルホメンコと話しました」
「あの番組、見ましたよ。ベルマンに、ずいぶんきついことを言われてましたね」
カテリーナは微笑んでいる。ギレリスがいじられるのを楽しんでいるのではないかと疑いたくなるような表情だった。
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