第4章:物言わぬ女
[26]
「なぜ、わざわざテレビカメラの前で、市会議員たちを愚弄するような妄言を吐かなくてはならなかったのかね?」
刑事部長の広い部屋で、コンドラシンの険しい視線を浴びたギレリスは居ずまいを正した。コンドラシンはかつて、KGBのレニングラード支部長を見下す地位にあったといわれている。大いにうなづける話だった。
「あの男はわたしを挑発しようとしていたんです」ギレリスは言った。
「その挑発に、まんまと乗せられてしまったわけか」
コンドラシンがタバコに火をつける。肺の中はどうなっているか。ギレリスはそう思った。しかし、それを言うならギレリス自身の肺の中も似たり寄ったりだろう。
「今朝、イヴァノフが市長室から電話してきて、15分ほどしゃべった。君のふるまいに関する感想を市長はきわめて明確に述べていたよ、同志ギレリス」
ギレリスは身をすくませた。コンドラシンに同志つきの苗字で呼ばれるとは思ったよりも事態は深刻だった。
「明確に、というと・・・?」
「ヴィシネフスキー事件を可及的すみやかに解決して、マフィアとの戦いが勝利に近づいていることを市民に示す必要がある、というのが市からの要望だ。さもなければ・・・」
「能無しのイヴァノフめ」ギレリスは鼻を鳴らした。「つい2、3年前まではヴィシネフスキーの指摘に対しても、ロシアにマフィアは存在しないと言い張ってたくせに」
「さもなれけば」コンドラシンが声を大きくしてくり返した。「次年度の予算編成の際に、われわれはほぞを噛む思いを味わうことになる。すでに多くの面で緊縮を強いられていることは君にもわかっているだろう。ガソリン、紙、手錠、コピー機・・・職員の保養所は言うに及ばすだ」
「わかってます」
刑事部屋では、アルヴィド・ヤンソンスが全ての質問に答え終わった時、ラザレフは出向いてくれたことに礼を言った。相手を少し持ち上げておこうという心遣いから、上着にいくつも縫い付けてある勲章の由来を尋ねた。
『レニングラードの防衛戦の時、わしはプルコヴォの丘にいてな。ドイツ軍の第18軍団と4年間、向き合ってた。ほとんど従軍記章だが、一番上に縫い付けてあるものは、ドイツ軍将校8人の処刑を指揮した功績で授かったもんじゃ。街のどまんなかに絞首台をこしらえてな。略式裁判の後、やつらをトラックに乗せ、台の真下に停めて、次々と吊るしてやったのさ。市民の半分が見物に来ていたな』
アルヴィドはニヤッと笑い、次のメモを見せる。
『なにせ、3年ぶりの楽しいお祭り騒ぎじゃろ』
ラザレフは愛想よくうなづいたが、ショックを受けていることは傍目にもわかった。
「でも、まぁ・・・ドイツはそれだけのことをしたわけですからね」
『そうさ』アルヴィドのメモは続いた。『やつらは戦犯なんだ。たった1つの心残りはもっとたくさんのナチどもを処刑できんかったことだな』
コンドラシンから叱責を受けてきたギレリスが刑事部屋に姿を現した。机で電話での聞き込みを続けていたラザレフの同僚、クリコフに紅潮した顔を向けて怒鳴り声をあげた。
「まだ聞き込みが終わってないのか?一体、どんな仕事のしかたをしてるんだ?服の袖が長すぎるのか?」
ラザレフは思わず口元をゆるめた。腕より長い袖の服を着るというのは、帝政時代の特権階級が働かなくてもいい身分であることを示すために好んだ習慣だった。
クリコフが受話器を取る。
「そんなことはありません」
「じゃあ、さっさと片付けろ。スヴェトラーノフとリュトヴィッツはどこにいる?」
その時、スヴェトラーノフとペトロフが刑事部屋に現れた。2人は昨夜からホテル・プリバルチスカヤでグルジア・マフィアの監視に当たっていたが、ギレリスはすっかりそのことを失念していたようだった。
「一体、どこへ行ってた?」
ギレリスはがなった。2人から答えが返ってくる前に、ラザレフに向き直った。
「そこにいらっしゃるソヴィエト連邦の英雄殿はどなただ?」
「アルヴィド・ヤンソンス氏です。殺人のあった晩、ヴィシネフスキーを見かけたとか」
「なんで、この部署で起こっていることを、誰もわたしに報告しないんだ?」
ギレリスはアルヴィドの前へつかつかと進み出て、ぎこちない笑みを浮かべる。
「はじめまして、ギレリス大佐です」
アルヴィドは椅子から半分腰を浮かして軍隊式の敬礼をし、メモを書き出した。ギレリスがいぶかしげな表情を浮かべる。ラザレフがそばから説明した。
「喉が悪く、筆談なんです」
『はい、存じております。夕べ、テレビに出ておられた。見ましたよ。だから、来たんだがね』
ギレリスが顔をしかめる。ラザレフとスヴェトラーノフがこっそり笑みを交わす。
「ヴィシネフスキー氏が殺された晩に、彼を見かけたということですが」
アルヴィドは机の上に散らばっているメモから一枚、ギレリスに差し出した。
『わしはペトロパブロフスカ要塞のレストラン・ポルタヴァで、軍隊時代の友人たちと食事をしとりました。防衛戦を一緒に戦った仲間で、毎年この時期に集まるんです。ヴィシネフスキーさんは別のテーブルに座って、誰かを待っとるようだった』
「何時ごろのことですかな?」
『わしらは8時ごろ、店に入った。ヴィシネフスキーさんが現れたのは、そんなに後のことじゃない。2時間近く、誰かを待ってたんですよ。10時ごろまで』
「時間はたしかですかな?」
アルヴィドは上着の袖をまくり上げ、骨張った腕に巻かれた新品と思われる軍用腕時計を見せてくれた。闇屋の屋台で売っていそうな代物だった。
『せがれがわしの誕生日にこれを買ってくれたんで、一晩中ちらちらと見とった。どっちにしろ、ヴィシネフスキーさんの待ち合わせ相手は現れなかった。あの人もしょっちゅう腕時計を見とったな』
「ヴィシネフスキー氏であったことは確かですね?」
電話が鳴る。クリコフが受話器を取る。
『そりゃ、もう。間違いなくあの人でしたな。テレビによく出とるでしょうが。わしはテレビで一度見た顔は絶対に忘れんのだ』
「ありがとう、ヤンソンスさん」ギレリスは言った。「たいへん助かりました」
クリコフが受話器の送話口を片手で抑えてギレリスを呼んだ。
「市民からの通報です。アブヴォードヌィ運河のそばにある鉄道の操車場で銃声が聞こえたそうです」
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