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 翌朝6時に電話のベルで眼が覚めた時、リュトヴィッツは白いパンツをはいた姿で袖椅子に座り、マカロフの銃把をやさしく握っていた。

 フィリポフは勤務からあがるところだった。「じゃ、かけましたからね」と声がかけられた次の瞬間、電話が切れた。

 モーニングコールを頼んだ記憶はなかった。袖椅子のわきのテーブルに、ウォッカの空き瓶が立っていた。1本空けた覚えもなかった。床に色つきガラスの破片が散乱している。1980年に開催されたモスクワ・オリンピック記念ショットグラスをラジエーターに投げつけたのだろうと容易に想像はついた。誰かのために乾杯して、ラジエーターを暖炉に見立ててグラスを投げつけたのだろうか。記憶は何もない。

 袖椅子の周囲とベッドの下にまで、書類や紙くずが散らばっていた。書類は懲役施設管理委員会から送られてきた照会結果だった。

 ヴィシネフスキーが書いた記事のせいで刑に服することになったチェチェン人のドゥダロフについて、懲役施設管理委員会に照会したところ、同委員会にいるリュトヴィッツの古い友人から回答があった。

 マナガロフという名の友人の話では、ドゥダロフは西シベリアのカザフ国境に近いベレゴイ16/2に収容されていたが、4週間前に釈放されたのだという。服役態度良好という理由だった。電話と同時にファックスで送られてきた書類を見ながら、リュトヴィッツは言った。

「しかし、まだ刑期の半分も務めてないじゃないか」

「ぼくも事情がよくのみ込めないんだ」マナガロフは言った。「その収容所の刑務主任に電話で聞いたら、確かにうちの委員会から正規の釈放命令が届いたということだった」

「ドゥダロフがどこに行ったか、収容所の方では掴んでいるのか?」

「何日間かを所内の診療所で過ごしていったらしい。塀の外での医療費の高騰ぶりを考えると、病気になるときは囚人の方が得だということだな。その後、75ルーブルの給付とオムスクからサンクトペテルブルクまでの鉄道乗車証を与えられている」

「何か分かったら、すぐに知らせてくれ」

 電話を切ると、リュトヴィッツはギレリスに報告した。ギレリスは顔をしかめ、忌々しげに呟いた。

「服役態度良好だと?ヤツが容疑者として逮捕されたときに、話のタネにできそうだな」

「居所を捜し出すべきでしょうか?」ラザレフが言った。

「刑事の本分を忘れてなければ、そうするところだな」

 紙くずを1枚、手に取って見る。カスパロフの棋譜を手書きで再現したものだった。コマの動きをはじめから確かめようと、鉛筆でぐちゃぐちゃに線が書き込まれている。謎解きが進まないことに苛立ったことが窺われた。

 リュトヴィッツは安全装置がかかっていることを確認してからマカロフをホルスターに戻し、椅子の背にかけた。パンツと靴下だけの格好でじっとする。殺されたヴィシネフスキーに送られた数々のファンレターの中から、特に印象に残った文面が脳裏に浮かんだ。


ドミトリ・ヴィシネフスキーへ

 あなたはサンクトペテルブルクの《コーザ・ノストラ》のことを国営テレビでしゃべっていたけど、あんな馬鹿げた話、聞いたことがありません。それは誤解です。ロシアにマフィアは存在しません。マフィアというのは、そもそも女子どもたちに怖い話を聞かせて金を稼ぐあなたみたいな人たちが、勝手にこしらえた幻です。この街にいるのは、人々が欲しがるものを人々に提供するまっとうなビジネスマンです。扱っているのは、国営商店では買えないもの、それもたいていは必需品。ビジネスのやり方が多少荒っぽくなる理由はただひとつ。この国に、需要とか供給とか、自由企業とかいう考えが全く根付いていないからです。例えば、契約が守られないときに、それを強制的に履行させたり、損失を償わせたりする法的な仕組みはありません。だから、われわれは相手の脚を折ったり、その子どもを脅したりするのです。そうすると、次回から相手は約束を守ります。利益をきちんとパートナーに配分しない輩がいれば、われわれはその輩の家を焼きます。これはビジネスなのです。あなたは知識人ですから、理解できないはずはありません。それなのに、マフィアなどという幻をテレビや雑誌で売り続けている。仕事仲間の何人かはとても腹を立てています。そういうデタラメが広まることで、われわれが被る損害はかなりの額にのぼるでしょう。だから、警告を発します。すぐにやめてください。われわれの商社、コーペラチブを今度、マフィアという名で呼んだら、そのことを後悔する前に、あなたに死が訪れるでしょう。


同志ヴィシネフスキー

 モスクワのマヤコフスキー広場の近くにあるスーパーをご存知でしょうか。今朝、そこの肉売場に行くと、ソーセージをキロ160ルーブルで売っていました。私の主人は学校の教師で、月給は500ルーブルほどです。私は結局、卵10個を18ルーブルで買いました。ほんの2、3か月前までは、2ルーブルでおつりがきました。あなたは世の中がだんだん良くなってきたとお書きになっておりますが、あなたのような空理偽善の徒こそが国民の生活環境をいたずらに劣化せしめているのです。常々題材とされている娼婦たち(ご自身の豊かな経験をもとに執筆されているのでしょう)の1人が、あなたをエイズに感染させてくれることを願ってやみません。さらに、あなたがそれをご内儀へ、もしくは現在交際中のご愛人へと、速やかに感染させていかれますことを。篤志家より。


 この手紙をヴィシネフスキーのアパートで最初に読んだ時、リュトヴィッツは「現在交際中の愛人」の件で、ワードロープにあった写真を思い出した。アパートの書斎に戻ってもう一度、見たいという誘惑に駆られた。

 その写真はサッチャーと笑顔で握手するヴィシネフスキーの写真に隠れるようにして貼りつけてあった。どこか別の場所で撮られたらしいヌード写真で、そのポーズは芸術的というより扇情的だった。カテリーナはストッキングだけを身に着けていた。カメラに向かって立ち、両手を後ろで握り合わせて顔はうつむいていた。

 その写真をひと目見た時、リュトヴィッツの脳裏に過ぎるものがあった。過去の彼方から懐かしい声が響いた。

《あなたはミリツィアになるの?それとも、ポリツィアになるの?》

 リュトヴィッツはフロントにバルチカを持ってきてもらおうかと考えたが、かわりに熱いシャワーを浴びることにした。頭から熱い水をかぶり、眼を閉じる。命じられもしないのに、脳裏でチェスの駒が盤上に並んだ。黒のキングが盤の中央にある。まだ王手はかからないものの、追い詰められていた。白のポーンがもっと強い駒に成ろうとしている。もう本物のチェス盤は必要ない。いまいましいことにカスパロフが最期に遺した棋譜を覚えこんでしまっていた。

 リュトヴィッツはシャワーから出る。清潔なスーツをビニール袋から取り出した。髭を剃り、専用のブラシで上着の埃を払った。

 やるべきことはたくさんあった。大屋敷に出て、ヴィシネフスキー事件についてどんな鑑識結果が出ているか確かめる。ギレリスと一緒にテレビ局に行き、ヴィシネフスキーの同僚から話を聞く。レストラン・トルストイの支配人モロゾフに再度の聴取。持ち前の向こう意気がよみがえってきたらしいぞ。リュトヴィッツは淋しく微笑んだ。

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