[11]
この日の夜、リュトヴィッツは公用車でミハイル・フェデュニンスキーの家を訪れた。ミハイル伯父の家はサンクトペテルブルクから東に67キロのところにある。自家用車の青いジグリは2か月前、爆弾でエレーナと一緒に吹き飛ばされ、廃車になってしまった。
名もない湿地の岸辺に車を停めた。廃物の木板とこけら板で作られたロッジ風の家が、メタンガスの泡を吹く沼の上に二十数本の杭で支えられている。壊れかけの階段を登り、玄関のドアを二度ノックした。
「こりゃ、驚いた。いつ帰ってきた?」
フェデュニンスキーが風雨に傷んだヒラヤマ杉材のドアを開けた時、驚いたのはリュトヴィッツの方だった。夜中にも関わらず、伯父は黒のフランネルのスーツに白いシャツ、芥子の花の色をしたネクタイという格好だった。
「夜中にすみません。仕事中でしたか?」リュトヴィッツが言った。
「いや、酒を飲んでただけだ。入りたまえ」
リュトヴィッツが伯父の後に従って、この家にひとつしかない広い部屋に入った。三方にロフトがあり、奥の壁にロフトへ上がる急な階段があった。玄関の脇に酒瓶が高層ビル群のミニチュアのように林立している。
「ウォッカだ」フェデュニンスキーは酒瓶のひとつを手に取る。「そうだろう?」
「コーヒーをください」
伯父が眉を吊り上げた。
「車を運転してきたんです」
「そうか」
伯父がコーヒーを入れている間、リュトヴィッツは部屋の中を観察した。隅のベッドの脇に小卓があり、チェス盤が置いてあった。白のナイトのひとつは左耳が欠けている。長いあいだ放置されているらしく、駒の配置が乱れていた。駒の代わりなのか、風邪薬の錠剤が入ったビンが敵のキングを脅かしていた。
「新しい戦略ですね、風邪薬で攻めるというのは」リュトヴィッツは盤を持ち上げた。「通信チェスですか?」
伯父がそばに来た。口からウォッカと燻製ニシンが匂った。あまりに油っこい匂いで、口の中に小骨があるような感触がするほどだった。リュトヴィッツは伯父に押されて盤が傾けてしまい、駒を全部床に落としてしまった。
「お前はいつもこういう妙手を見せてくれる」
「すみません、伯父さん」リュトヴィッツはしゃがんで駒を拾い集めた。
フェデュニンスキーはコーヒーをテーブルに置き、風邪薬は戸棚の抽斗に入れた。
「気にするな。別にいいんだ。ゲームをやってたわけじゃない。適当に遊んでただけだ。もう通信チェスもやらないんだよ。私は突拍子もない、そして美しいコンビネーションで相手の度肝を抜きたいんだが、ハガキのやりとりでそれをやるのは難しい。ときに、このチェス盤に見覚えはないかな?」
リュトヴィッツは駒を箱にしまった。箱は楓材。緑色のベッチンを内張りしてある。
「ないですね」
言葉とは裏腹に、チェス盤がミハイル伯父が父にプレゼントした物だと分かっていた。ずっと昔、リュトヴィッツが癇癪を起こして盤をひっくり返してしまい、白のナイトの耳を欠いてしまった。
「やはり親子だな」フェデュニンスキーは笑った。「私もお前の父さんには時々、手を焼いたものだが、私を置き去りにして先に逝った後は、少しさみしくてね」
伯父は軽い感じを心掛けていたが、部屋の雰囲気は重苦しくなっていた。リュトヴィッツは父親が死んだ後の日々のことを思い出した。伯父はネフスキー通りの家のキッチンの隅でうなだれていた。シャツのボタンはかけ違え、食卓に置いたウォッカの減っていく様子が、伯父の落ち込み方の激しさを表していた。
フェデュニンスキーはソファに腰かける。リュトヴィッツは大きな革張りの安楽椅子に陣取り、コーヒーをひと口含んでから切り出した。
「実は謎を抱え込んでいましてね」
「謎か。私は謎が嫌いなんだが」
フェデュニンスキーはウォッカをグラスに注いだ。
「俺が住んでるホテルで麻薬中毒者が殺されまして」
「ははあ」
「事件のことは知ってるんですか?」
「ラジオで何かを言ってたようだ。新聞記事も少し読んだのかもしれない」
夕刊には『市内のホテルで遺体発見』という見出しが掲げられていた。記事はセンナヤ広場にあるホテル・プーシキンで発生した殺人事件について、いい加減な記述が連ねてあった。検視したコルサコフに代わり、法医学検査所が出した暫定的な検視結果として、死因は『薬物関連の事故』とされていた。以降は『詳細は不明』とされ、拳銃で頭部を撃たれたことは伏せられていた。
「犯人はホテルや現場に一切、痕跡を残してません。プロの仕業を思わせる手口です」
リュトヴィッツはカスパロフの鑑識報告書を思い返した。頭部の創傷から考えられる凶器は38口径のリボルバー。麻薬中毒者なら、被害者の指紋に前科者と一致するものがあると思われたが、今のところ一致する指紋は見つかっていない。
「そのヤク中はチェスが趣味だったようです。ホテルではカスパロフと名乗り、現場にはチェス盤が置かれていました。そういえば、最近はユスポフのチェスクラブに行ってるんですか?」
伯父が首を振る。
「ここ数年は行ってない」
「そのヤク中はユスポフでは、ニコライと名乗ってたようです。知ってますか?」
「いや」
「そのカスパロフことニコライが、現場にこんな棋譜を残していたんです」
リュトヴィッツは206号室に残されたチェス盤の写真を伯父に手渡した。フェデュニンスキーはテーブルに対して体をやや斜めに構え、まるで長考に入るかのように棋譜の写真を見ていた。グラスを傾ける。1分ほど経った頃、伯父は低い声を出した。
「1927年の公式世界チャンピオン戦。アレクサンドル・アレヒン対カパブランカ。2戦目の途中まで、再現されている」
伯父の記憶力に驚きながら、リュトヴィッツは震えた声を出した。
「何を意味してると思います?」
「ただの棋譜にしか見えんが・・・ダイニングメッセージとは思えんな。そんなものは私が生まれてこのかた、とんと見たことが無い」
「俺もです」
フェデュニンスキーはまたグラスにウォッカを注ぎ、ユーモラスな悪党面でグラスを掲げる。
「おかしな時代に乾杯」
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