[10]

「サーシャ」

 スヴェトラーノフが顎で隣のテーブルを示した。聞き耳を立てている男たちがいた。

 リュトヴィッツもそちらを見た。2人の男が対座している。盤面はまだ序盤だった。1人は浅黒い肌をしており、口ひげを生やしていた。眼の下には隈ができている。対戦相手は跳ねるような硬い髪に、色白の肌。背広の胸ポケットにサングラスを差していた。

 刑事の眼を持たない者ならば、2人は他のメンバーと同じように、チェス盤に引き込まれているように見えるだろう。だが、リュトヴィッツは2人とも次が誰の番か分からないほど気もそぞろだと踏んだ。さっきの会話を一言も漏らさないように聞き耳を立てている。今も耳は立ちっぱなしだ。

 スヴェトラーノフは空いているテーブルから籐編みの座面が破れた曲げ木の椅子をひょいと持ち上げ、《骸骨》とロージャのテーブルをはさんだ反対側の席に運んだ。どさりと音を立てて座り、股を開いた。

「やぁ!」

 スヴェトラーノフは男たちに声をかけた。両手をこすり合わせてから、指を広げて膝に置いた。《さあお前らをみんな喰ってやるぞ》という姿勢だ。曲げ木の椅子がスヴェトラーノフの尻の重さに呻きを漏らした。

「調子はどうだ?」

 大根役者も顔負けの演技だった。2人は驚いて顔を上げた。

「面倒は嫌ですよ」色白の肌をした男が言った。

「面倒か。そいつは俺が一番好きな言葉だ」スヴェトラーノフはまじめな調子で答えた。「さぁ、今こっちでやってる話に参加しようじゃないか。ニコライのことを話してくれ」

「そんな人、知らないな」白い肌の男が言った。「ニコライなんて」

 口ひげを生やした男は黙っている。

「そこのスターリン風の御仁」リュトヴィッツは声をかけた。「あんたの名前は?」

「ラムザン・チャンジバッゼ」男は低い声で答えた。「何にも知りませんよ」

 スヴェトラーノフが白い肌の男に眼を向けた。

「あんたは?」

「カジミール・ババジャニヤンです」

「ニコライと手合わせしたことはないのか。知り合いじゃなかったのか?」リュトヴィッツが言った。

「ええ、たしかにここで会ったことがありますよ」

 チャンジバッゼが対戦相手を睨みつけた。怖がらなくてもいいという風に手を上げてからババジャニヤンは続けた。

「そのニコライという男にね。2回か3回、対戦したこともあったかと思います。僕の意見では、ものすごく才能のあるプレーヤーでしたよ」

 背後から誰かが嘲るような言葉を吐いた。

「お前に比べれば、猿だってスパスキー級の天才だろうよ」

 リュトヴィッツは振り向いた。トラックスーツを着た男が脚を組んで座っていた。身体つきがアスリートのようだが、少し肉がつき始めた感じに見える。

「あんたも」リュトヴィッツは言った。「ニコライというヤク中を知ってたんだな。どういう知り合いだったんだ?」

「刑事さん」男は半ば咎めるような口調で言った。「俺のことは覚えてないんですか?」

 男の顔立ちになんとなく見覚えがあった。脳裏にしまった膨大な顔写真を照合してようやく思い出した。

「ヴァシリー・セルギエンコか」

 リュトヴィッツが刑事部に入りたての頃、この名前の若いウクライナ人を何度かすりや窃盗の常習で捕まえたことがあった。最後に逮捕した時はヘロイン密売の共犯だった。ホテル・プーシキンの夜勤支配人フィリポフは、セルギエンコから薬を買っていた。

「よく俺だと分かったな」

「あんたは男前だ。忘れはしないさ」セルギエンコは言った。「それに、医者をやってたあんたの奥さんも美人だったしな」

「この男はヤクの売人で、モスクワで長いお勤めをしたんだ」リュトヴィッツはスヴェトラーノフに説明した。「色男がまたずいぶんと痩せたもんだな」

「ニコライにヘロインを売ってたのか?」スヴェトラーノフがセルギエンコに聞いた。

「いや、もう引退したんだ」セルギエンコはかぶりを振った。「この国の刑務所はほんとにひどいことでね。ドストエフスキーの時代から大して変わってない。もう二度、入りたくないね。だからもう、ヤクからは足を洗ったんだ」

「人はそんなに簡単に変われるもんなのか?」リュトヴィッツはセルギエンコを睨んだ。

「信じてくれよ、刑事さん。それにもし仮にまだ売人をやってたとしても、ニコライには売らなかったよ。俺はイカれているが、頭はおかしくないからね」

「どうしてニコライにヤクを売ると、頭のおかしい犯罪者になるんだ?」スヴェトラーノフが聞いた。

 カチリという小さな音が、はっきりと聞こえた。入れ歯が噛み合わさるような、少しこもった音。ロージャが自分のキングを横に倒していた。セルギエンコが腹をナイフで刺されたような表情を浮かべた。

「悪運がついてたんだよ」

 リュトヴィッツは失望をあらわにした。

「悪運ね」

「コートを着ているみたいに身についてた。頭に悪運っていう帽子を被ってたと言ってもいい。そいつはものすごい悪運で、あの男には触りたくないし、近くの空気を吸うのも嫌だった」

「一度、ニコライが同時に5つの対戦をやるのを見たよ」ロージャが打ち明けた。「それぞれ100ルーブルずつ賭けて。それに全部勝ったんだ」

「刑事さん、もう勘弁してくださいよ」ババジャニヤンが弱音を吐いた。「僕ら無関係なんだから。あの男のことは何も知らないですよ」

「うんざりだね」チャンジバッゼが付け加えた。

「お気の毒だとは思います」ババジャニヤンが結論づけるように言った。「でも、お話することは何にもない。だから、もう行っていいでしょ」

「もちろんだ」スヴェトラーノフが答えた。「ただし、その前に名前と連絡先を書いていってくれ」

 スヴェトラーノフは本人が手帳と呼ぶものを出した。小さな紙片を厚く重ねて特大のクリップで留めたものだ。紙束から白紙を1枚見つけ、それをババジャニヤンに渡した。次いで鉛筆も差し出したが、ババジャニヤンは辞退した。ババジャニヤンが書き終わって紙をチャンジバッゼに渡す。チャンジバッゼもそれにならった。

「でも、電話は困りますよ」ババジャニヤンが言った。「うちにも来ないでくださいね。お願いします。話すことは何もないですから。あの男のことで僕らが話せることは何ひとつないんです」

 スヴェトラーノフは相棒をちらりと見る。リュトヴィッツはごく小さく首を振った。

「行けよ」スヴェトラーノフは言った。

 ババジャニヤンは立ち上がり、チャンジバッゼが対局を中止させられた駒を蝶番つきの木箱に納める。その後、2人は左右に並んでテーブルの間を歩き去った。入口にたどり着く少し前、リュトヴィッツはあることに気づいた。チャンジバッゼが左脚を少し引きずるように歩いていた。

 その後、2人は手分けしてチェス・クラブにいた数十名の会員から聴取を行った。だが、ニコライが何日の何時にいたか正確に供述できる者はいなかった。「あの日、いたんじゃない?」と言う者がいれば、「いなかった」と言う者もいる。

 2人はマリアお手製のサリャンカにありつけなかった。

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