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 リュトヴィッツとスヴェトラーノフは寒さで背中を丸めながら通りを急いだ。今日は北からやってきた低気圧のおかげで、サンクトペテルブルクは6月に入ったにも関わらず、朝から肌寒い日だった。大男と小男の身体が軽くぶつかり合う。スヴェトラーノフの背丈は、リュトヴィッツの肩ぐらいしかなかった。

「いいのか、サーシャ。モロゾフの野郎を放っておいて」スヴェトラーノフが言った。

「お前だって、この街にあるコーペラチヴのレストランのほとんどがマフィアに上納金を払ってることを知ってるだろ」

 リュトヴィッツは続けた。

「連中が信じてるのは、自分たちと自分たちの能力だけ。他人に痛みと苦難と施す能力さ」

「近頃ほど、金が雄弁にものを言う時代はそうざらにないからな」

「だから抜き打ちで、大屋敷に出頭させるか、店に押しかけた方が利口だ。せいぜいじっくりと悩んでもらって、自らの罪を告白するかどうか」

 リュトヴィッツは不意に立ち止まった。10階まであるレンガ造りの建物が見えていた。その建物は去年までホテルだったが、経営に行き詰まって廃業した。スヴェトラーノフが言った。

「ユスポフ・チェスクラブか」

 1980年にこの街で開催された世界チェス選手権で、エミール・リヒテルがドイツのヤン・ティルマンを破って優勝した。リヒテルは根暗な性格の持ち主で人に好かれるような人物ではなかったが、ホテル・ユスポフのカフェの常連客ということもあって、ホテルの経営者から舞踏室の無償使用がカフェの常連客、すなわちユスポフ・チェスクラブに与えられた。

「チェス好きのヤク中もいたかもしれない」リュトヴィッツは呟くように言った。

「お前の推理が当たってたら、マリアお手製のサリャンカをおごってやるよ」

 舞踏室の正面入口は封鎖されていた。裏通りに面した出入口から、2人の刑事は入って行った。床の上質な寄せ木は剥がされ、かわりに市松模様のリノリウムが敷かれた。モダンなシャンデリアは、高いコンクリートの天井にボルトで留められた蛍光灯に変わられた。優勝から2か月後、リヒテルはかつてリュトヴィッツの父親も通ったカフェにふらりと立ち寄った。奥のボックス席に座ったリヒテルは、コルトの38口径を口に突っ込んで引き金をひいた。ポケットには遺書が入っていた。遺書にはただ、「昔のほうがよかった」とだけ書かれていた。

「カスパロフね」

 骸骨のように痩せた男がチェス盤から顔を上げて、2人の刑事にそう言った。

「彼がここに来ることを願うね。そしたら、こてんぱんに負かしてやる」

「カスパロフの対戦を見たことがあんの?」

《骸骨》の対戦相手が聞いた。頬のふっくらした若い男。リュトヴィッツに眼を向けた時、縁なし眼鏡のレンズが白く光った。

「ねぇ対戦は見たことがあんの、刑事さん」

「念のために言っておくと」リュトヴィッツは言った。「いま聞いてるのは、あのカスパロフのことじゃないんだ」

「問題の男はカスパロフって名前を偽名に使ってた」スヴェトラーノフが言い添える。

「カスパロフの指し方を雑誌かなんかで見たけど」若い男が続ける。「なんか、こう・・・複雑すぎるんだよね」

「お前にとって複雑に見えるだけさ、ロージャ」《骸骨》が言った。「お前が単純なせいで」

 2人の刑事が中断させたゲームは中盤戦だった。ゲームに熱中していた《骸骨》とロージャは当然の反応として、対戦を脇から見てあれこれ言う人間に対する態度と同じく、冷ややかな軽蔑を持って2人の刑事を遇した。

 対戦が終わるのを待ってから事情聴取をやり直したほうがいいだろうか。リュトヴィッツはそう考えた。だが、他にも対戦中のプレーヤーは何組もいる。彼らにも話を聞かなくてはならない。

 古い舞踏室のあちこちで、靴で床をこする音が黒板に爪で引っかくような響きを立てる。駒が置かれるカチリ、カチリという音は自殺したリヒテルが使ったコルトのシリンダーが回転する音のようだ。男たちは呟き、冷笑、口笛、わざとらしい咳払いなどで、たえず相手の思考を邪魔しようとする。

 リュトヴィッツはチェス盤が置かれたテーブルに手をついて身を乗りだした。

「はっきり言っておくが、俺たちがカスパロフと呼んでる男は、世界チャンプになったガルリ・ヴァインシュテインのことじゃない。ある男が殺されて、俺たちが捜査してる。俺たちは殺人課の刑事だ。そのことはさっき言ったはずだが、あんたらには印象が薄かったようだな」

「そのカスパロフは赤褐色の髪をしてる」《骸骨》が言った。

「そばかすがある」ロージャが付け加える。

「ほら、俺たちはちゃんと話を聞いてるだろ」

《骸骨》はルークを前方にすっと運んで、相手のビショップを追い詰める。悪態をついたロージャが椅子の背にもたれた。腕組みをして、手を腋の下にはさむ。禁煙の場所でタバコを我慢するときの姿勢だ。

 ホテル・ユスポフのカフェが禁煙になっていたら父親はどうしただろう。リュトヴィッツはそう思った。父親は1回の対戦でタバコをひと箱吸っていたものだ。

「赤褐色の髪に、そばかす」《骸骨》が言った。「ほかに特徴は?」

 リュトヴィッツは頭の中で、貧弱な手札をざっと調べた。

「チェスの研究をやってたんだろうと思う」

 206号室に3冊ある本のうち1冊はペーパーバックのチェスの教本だった。裏表紙の内側にマニラ紙のポケットが貼りつけてあり、オストロフスコヴォ広場にある市立図書館の貸出カードが入っていた。残りの2冊は下らないスリラー小説だった。

「ああいう偽名を使ってたし・・・それに、ヤク中だった」

 ロージャが腋の下から手を出した。背を起こして椅子に浅く座りなおす。眼鏡の奥で氷結していた眼が一気に溶けたように見えた。

「ヤク中だったのか」

 リュトヴィッツに否定しなかった。ロージャは続けた。

「ニコライか」

「ニコライだな」《骸骨》も同意する。

「あの男は」ロージャは急に肩を落とし、両手を腋に垂らした。「刑事さん、ひとつ言っていいかな。その、こういう言い訳をするのはほんとに嫌なんだが」

「ニコライのことを話せよ」スヴェトラーノフが言った。「お前、ニコライが好きだったんだろ」

 ロージャは肩を怒らした。また眼に氷を張る。

「そうじゃない。ただ、ニコライは面白い男だった。顔はよくないが、渋い声をしてたな。ラジオのナレーションができるような、立派な声だった。いつもこう・・・誰かをバカにするようなことを言うんだ。髪形がどうだとか、ズボンが野暮ったいとか、こいつは自分の女房のことを言われるといつもびくっとするとか」

「たしかに」《骸骨》は言った。「それはほんとだな」

「いつも人をからかうんだ。でも、なぜかは知らないが、腹は立たないんだよ」

「なんか、こう・・・自分にはもっと厳しいみたいな感じがあったな」

「あの男と対戦すると、いつも負かされるんだが・・・それでもこいつとやるときより、自分がいいゲームをしたような気がするんだ」ロージャが言った。「ニコライは間抜けじゃなかった」

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