[8]
サンクトペテルブルクの大屋敷はリテイヌイ大通りのほぼ突き当たりに位置する。ヴィオノヴァ通りとカラエヴァ通りにはさまれた一区画の全部を占める6階建ての大きな建物に入っている。
ジグリを駐車場に入れた後、リュトヴィッツとスヴェトラーノフは砂利の敷地を横切った。路面電車ほどの大きさと重さを誇る正面扉の内側に立つ民警に身分証を提示し、2人は公営プールの玄関ホールを思わせるロビーを突っ切った。
階段をのぼった最初の踊り場に「鉄のフェリクス」と呼ばれたフェリクス・ジェルジンスキーの頭像を乗せた四角い台座がある。リュトヴィッツはその隣にもう1つ、新しい彫像が置かれていることに気付いた。スヴェトラーノフがリュトヴィッツを小突いた。
「こうなることを分かってなかったというんじゃないだろうな」
「同志ペトロフの勤勉さに、乾杯」
新しく刑事部長に就任したイワン・コンドラシンは冷たい化石のような眼とブロンズ像を思わせる無表情な顔付きをしていた。リュトヴィッツには、どう見てもエジョフやベリヤと同じ鋳型から出てきたとしか思えなかった。
「おはよう、同志リュトヴィッツに同志スヴェトラーノフ。今朝方、君たちが飲酒運転をしていたという素晴らしい報告があったのだが・・・さっそく私の部屋に来てもらおうか?」
コンドラシンは激昂している時でも、それを態度や声に表わす人物ではなかった。しかし、コンドラシンが人の名前を苗字でしかも同志を付けて呼ぶ時はかなり険悪な事態の前ぶれを告げていた。2人の刑事は大人しくコンドラシンの後を従った。
内務省サンクトペテルブルク支部の実質的な責任者となったコンドラシンの執務室は2階の広く薄暗い廊下の突き当たりにあった。刑事部の少将だけあって、とてつもなく広い空間を与えられていた。
コンドラシンが大きな革張りの机に座り、デスクランプを付けた。墓場の中を人魂がさまよっているような雰囲気になる。陰気さが否応なしに増した。その机とT字の形にもう1つの机が置かれ、リュトヴィッツとスヴェトラーノフはそこに座った。
「私は今ここで君たちの飲酒運転についてとやかく言うつもりは無い。この支部はそれよりも重要な案件をいくつも抱えている。同志スヴェトラーノフ、現在捜査中の事件はいくつある?」
「13件ぐらいでしょうか」
「どれから手を引けというつもりは毛頭ない。できるかぎり速やかに解決できれば、われわれの面目も立つというわけだ」
リュトヴィッツが言った。
「お言葉を返すようで恐縮ですが、14件なんです。13件じゃなくて。スヴェトラーノフ=リュトヴィッツ組の未解決事件は14件」
「まったく・・・血が血を呼ぶというわけだな」
コンドラシンはタバコに火を付けた。リュトヴィッツが吸い慣れている物とは色も香りも違う煙がその指先にまとわりついた。その爪は燻製された魚を思わせるほど黒ずんでいた。コンドラシンは自分の指をいぶしているのか。リュトヴィッツはそう思った。
「モスクワでパヴロフのことは聞かなかったかね、同志リュトヴィッツ」
「いえ」
「彼が公金横領に関わってたと噂になっとるようだが、それは事実だ」
「はあ」
「モスクワの本部はこの支部の検挙件数の少なさをありがたくも問題視しとってな。われわれは早急に結果を出さなくてはならん」
スヴェトラーノフが口を開こうとする。コンドラシンは片手を挙げてさえぎった。
「3日間だ。3日かかってもまとまらない事件は見切りをつけて後ろのキャビネットに放り込む」
コンドラシンの背後にある人の背丈ほどのキャビネットは迷宮入り事件の記録を保管する場所だ。ここに記録をしまいこんでも、事件がなくなるわけではない。実質的には火をつけて燃やし、その灰をネヴァ河に投げ捨てることと一緒だった。
「結果がほしいのだ、同志リュトヴィッツ。君の不幸にはたしかに同情するが、今はもうその時期ではない。反論があるか?」
「いいえ、ありません」
コンドラシンはタバコを灰皿に押し付ける。万年筆を手に取り、黄ばんだ手が動き始める。顔を上げずに「以上だ」と言った。
数十分後、リュトヴィッツとスヴェトラーノフはもっとも簡単と思われる案件から取り組むことにした。フォンタンカ運河沿いに建つ、
経営者兼支配人のモロゾフはあたかも事故の被害が無かったようにふるまった。
「なにも、内務局の方々に来てもらうほどのことではございません。ちょっとした事故ですよ。たぶん、子どもたちのイタズラです。忘れてしまうわけにはまいりませんか?」
「いいか、民警に通報したのは、怪我をしたあんたの従業員なんだ」
頑迷な調子で、スヴェトラーノフは言葉を返した。
「それに、やった連中はどうする?向こうも、都合よく忘れてくれると思うか?」
「申し上げましたように、子どものイタズラと考えるのが一番妥当でしょうから」
「ガキどもを見たのか?」
「そういうことではなくて・・・そう、聞こえたんですよ。笑い声が」
「なるほど、近頃じゃ大人が笑うようなこともめっきり少なくなってきたからな。だがな、モロゾフ、笑い声だけで子どもと分かったというのはどうにも解せんなぁ」
リュトヴィッツはスヴェトラーノフに聴取をまかせた。プーシキン市にあるエカテリーナ宮の「緑の間」を模したらしい内装をめでるように店内を歩き回る。
淡い緑色の壁にギリシャ神話から題を取ったいくつかの場面が白の浅い浮き彫りで描かれている。ヒスイの壷を乗せた大理石の台座が2つ、白い石膏の暖炉の両側に置かれていた。炉棚に大きな金の時計。アーチ形の窓には全て緑のつややかなサテンのカーテンが掛けられていた。
火炎瓶が投げ込まれた窓枠や焦げ跡の残ったテーブルに鼻を近づける。
「やりかたを心得た連中のようだ」リュトヴィッツは言った。「灯油を使ってる。素人はガソリンしか入れない。こいつは上出来だ。火が長持ちする」
「たしかに、犯罪者の年齢層はどんどん低くなってきてる。まぁこっちがだんだん老けてきてるだけなのかもしれんが」スヴェトラーノフが言った。「いずれにしろ、やつらは凶悪だ。人を傷つけることなんざ屁にも思っちゃない。あんたはどう思う、モロゾフ?」
モロゾフは近くにあった椅子にどっかりと腰を沈めた。両手に顔を埋める。薄くなった茶色の髪を汗ばんだ額からかきあげ、無精ひげの生えた顎をごしごしとこする。
「私の口からは何も言えません」
「俺たちは何度でも来るし、お前を何度でも呼びつけるからな。覚悟しとけ、モロゾフ」
リュトヴィッツはそう言い残して、スヴェトラーノフと店を出て行った。
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