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 相棒を迎えに行くためにサンクトペテルブルク東部のオクチンスキー通りを歩いている間、リュトヴィッツはホテル・ユスポフのカフェでかつて背中を丸めてチェスに没頭していた父を思い返していた。通りには人影がなく、真っ暗な空にぽつりぽつりと街灯がまたたいていた。腕時計によれば、時刻は午前6時15分。

 無造作にばらまかれたようなコンクリートの建造物の一群が前方に見えていた。1つの棟が12階に仕切られ、500ほどの世帯を収容していた。スヴェトラーノフ一家はスレイドニイ・オクチンスキー7号棟の8階に住んでいた。

 6時半まで何分かある。運転音のうるさいエレベーターを使わず、階段で上がることにした。7号棟の階段の吹き抜けは、小便と冷たいセメントの匂いが充満していた。8階に着くと、ご褒美にタバコを1本くわえて火をつけた。

 戸口のマットの上に、マリアが立っていた。そのエプロンの下の方を掴んで、ホッキョクグマの柄のパジャマを着たドミトリが立っていた。部屋のドアの中からは、狭いゲージの中で象かゴリラが大暴れしているような音が響いていた。

「おでぶさんはまだパジャマ姿かい?」リュトヴィッツは言った。

 マリアは首を横に振った。

「スヴェンは何に対して怒ってるんだ?」

「私、妊娠したの」

 マリアがもつれた髪の隙間から言った。その言葉の響きに、どこか気後れしたものが含まれていた。エレーナが死んだ時に妊娠していたことを知っているのだ。マリアの腕には幼いイワンが抱かれている。つやのいい黒髪を立たせて、はにかんだ微笑を来訪者に向けていた。

「めでたいことじゃないか」

 リュトヴィッツはしゃがんでドミトリと同じ視線になった。

「今でも大きくなったら警官になりたいかい、ミーチャ」リュトヴィッツは聞いた。「お父さんやサーシャおじさんみたいに」

「うん」ドミトリは気の無い声で返事をした。「思ってるよ」

「よし偉いぞ」

 リュトヴィッツはその頭をなでると立ち上がり、ドアを開けた。狭い廊下を通り、飛行機の調理室のような狭いキッチンに入る。レンジ台と流しの隣に冷蔵庫があった。リュトヴィッツはなに食わぬ顔で冷蔵庫を開ける。バルチカの瓶を1つ取り出し、栓を抜いた。

「おい、サーシャ!何やってる?」

 リュトヴィッツは振り向いた。

 狭い居間に《熊》が立っていた。その実、スヴェトラーノフは生まれも育ちもペテルだったが、ぎょろりとした大きな眼と高い鼻で少数民族のタジク人と勘違いされるような顔立ちをしていた。ネクタイは締めておらず、白いシャツは袖をまくり、だぶだぶのズボンはしわくちゃで、濃紺のサスペンダーが太鼓腹の重荷を持ち上げていた。

「それはこっちの台詞だ、スヴェン」

 怒りに任せて物を投げるのは、スヴェトラーノフの常套手段だった。普段は大人しい男だが、やるとなったらやる。今回の被害は皿が4、5枚にコップが10個ほど。テレビはひっくり返され、うんざりするほど画一的な眺めしか見渡せない窓にひびが入っていたのは、居間にあった椅子を投げつけたからであろう。

 スヴェトラーノフは大声で怒鳴り出した。

「なぁ教えてくれよ、サーシャ。このくそアパートには、まだ赤ん坊が入る場所があるんだとよ!すごいよ、まったくすごいことだ!」

 自分たちが暮している狭いアパートをぶち壊すつもりなのか。リュトヴィッツはそう思った。バルチカを不眠の頭の上にかかげ、ぐびぐびと飲みはじめた。

「人の家のビールを勝手に飲むやつがあるか、このクソッタレめ!」

 スヴェトラーノフは瓶を取り上げて、残りを一気に飲み干した。そして盛大なげっぷを吐いた後、息を切らしながらその場に座り込んだ。

「なにやってるんだろな、おれは・・・」

「片付け、手伝おうか?」

 スヴェトラーノフは呆然とした様子で、首を横に振った。

「いや、いい。さきに行っててくれ」

 リュトヴィッツは部屋を出る。マリアの頬に唇をぐっと押し付けて言った。イワンがマリアの腕の中で寝息を立てていた。

「サーシャおじさんがバイバイと言ってたと、ワーニャに伝えてくれ」

 ドミトリと握手してエレベーター・ホールに向かった。駐車場で大型ゴミ収容器の脇に立ち、降りはじめた弱い雨の中でタバコに火をつけた。十数分後、スヴェトラーノフが建物から出てきた。案の定、息からビールの匂いがただよっていた。

「とんでもないやつだと思ったろう」スヴェトラーノフは言った。

「たいしたことじゃないさ」

「もっと広い家を見つけないと」

「そうだな」

「これは神の祝福だ」

「そのとおり。おめでとう、スヴェン」

 スヴェトラーノフは深いため息をついた。

「マリアは今すごく疲れてて、ちょうど計算の合う時期にセックスしたかどうか思い出せないと言ってる」

「相手が俺じゃないのはたしかだな」

 スヴェトラーノフがじろりと睨みつけた。

「冗談だよ」リュトヴィッツは慌てて言った。「もしかしたら、してなかったりして」

「だとしたら、奇跡ってことだな」

「今のロシアじゃ、何が起きたっておかしくはないさ」

 2人はスヴェトラーノフの青いジグリに乗った。バルチカの摂取量の違いから当然、ハンドルはリュトヴィッツが握ることになった。だが、朝方に真面目に飲酒運転を取り締まる民警がいる確率はゴルバチョフが再び大統領になる確率よりも低いと思われた。

 相棒のジグリは2つあるヘッドライトのうち1つが切れていた。リュトヴィッツは手探り状態で、ネヴァ河の南岸近くにある大屋敷まで暗い道路を走るはめになった。

「そんな眼で見るのはやめてくれ」リュトヴィッツは相棒に言った。見られているというのはただの勘だった。「なんだが嫌な感じだ」

 スヴェトラーノフは事実、リュトヴィッツの手を見つめていた。

「手が震えているぞ」

「あまり寝てないんだ」

「ホテルで殺された男について、何か分かったのか?」

「趣味はチェスぐらいしか分からん」

 リュトヴィッツは事件の概要を説明した。ボリジョイ・オフチンスキー橋でネヴァ河を越え、リュトヴィッツは車をスヴォロフスキー大通りに入れた。

「カスパロフか、どっかで聞いたことのある名前だ」スヴェトラーノフは言った。

「今のチェス世界チャンプとは似ても似つかない顔をしてた」

「偽名か」

「間違いないだろうな・・・って、ヤバイ」

 新人警官のペトロフはモイセンコ通りとの交差点でこちらに向かってよたよたと走ってくる車を見つけた。車を止めるよう指示を出す。

 車は青いジグリ。ヘッドライトが1つ壊れていた。運転席の窓ガラスをノックする。運転手が窓を下げて顔を見せた。そのとき初めて、相手が数時間前にホテル・プーシキンで顔を合わせた刑事だと気付いた。

 誰も何も言わなかった。ペトロフの懐中電灯はリュトヴィッツとスヴェトラーノフの赤い顔と血走った眼を照らし出した。

「なにか異状はないか?」リュトヴィッツが言った。

 ペトロフの声は震えていた。

「はい、異状ありません。同志大尉」

「それはよかった」

 リュトヴィッツが窓を上げ始めようとした時、ペトロフは一歩踏み出した。

「2人とも車から降りてください。今すぐに!」

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