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 リュトヴィッツがチェス嫌いになったのは、父とミハイル伯父のせいだった。父とミハイル伯父はウクライナの首都キエフに住んでいた頃からの幼なじみで、あの都市にあった「レーニン青少年チェス・クラブ」の会員だった。リュトヴィッツは2人がはじめて対戦した1938年夏のことをよく話していたのを覚えていた。

「全然たのしいゲームじゃなかったよ」

 父の思い出話の中では、ゲームに勝ったはずのミハイル伯父が椅子から腰を上げながらそうぼやいたことになっていた。人の弱り目に目ざといミハイル伯父ことミハイル・フェデュニンスキーはキャスリングをする父の手が震えていたと言い返した。

 それから2年後、ミハイル伯父は自分の母親と妹のガリーナと一緒にレニングラード、当時のペテルに引越しした。大学で法律を修めた後は弁護士となり、大学の先輩と一緒に法律事務所を開いた。

 スターリンが死んでから間もない9月のある日の暖かい午後。

 ミハイル伯父はレストラン・チェーホフで昼食をとった後にネフスキー大通りをぶらぶらと歩いていた時、キエフ時代の旧友グレゴリー・リュトヴィッツとばったり再会した。

 父は当時、25歳。その年齢ですでに頭は禿げ、歯のほとんどを失っていた。強制収容所の苛酷な環境は身体だけではなく、精神も壊していたのである。街の活気や若い娘の姿に心が浮き立つわけもなく、背中を丸めてとぼとぼ歩いていた。まるで暗いトンネルの中をいつまでも歩いているような風情だった。

 髪を油でてからせ、身なりのいい背広に身を包んだキザっぽい男が話しかけてきた時、グレゴリーはうなだれていた頭を上げた。相手が「レーニン青少年チェス・クラブ」の仲間だった幼なじみのミハイル伯父だと気付き、慢性の肩こりが消えたように感じた。口をぽかんと開ける。ショックと喜びと驚きで言葉が咄嗟に出なかった。口を閉じてしまった後、わっと泣き出した。

 ミハイル伯父はグレゴリーを連れてレストラン・チェーホフに引き返した。父に昼食を食べさせた後、イズマイロフスキー通りに新しくできたホテル・ユスポフに案内した。ホテル・ユスポフのカフェはチェスを愛好するスラヴ人のたまり場で、情け容赦ない戦いが毎日繰り広げられていた。

 この日のグレゴリーは久しぶりにとったまともな食事と、チフスの長引く後遺症のせいで精神状態が尋常ではなかった。ホテル・ユスポフにいた強者どもを全員負かしてしまったのである。挑まれれば拒まず、片っ端から完膚なきまでやっつけた。

 その頃からすでにグレゴリーは後に実の息子をチェス嫌いにしてしまう陰々滅々とした指し方をしていた。ミハイル伯父は「君の親父さんのは、歯痛と腹痛と痔を我慢しながらやってるようなチェスだった」と評したが、正にその通りだった。

 ため息をつく。うなる。残り少ない茶色い髪の毛を発作のようにつかんで引っぱる。頭皮をこする。対戦相手がまずい手を指す度に、腹に激痛が走ったかのような反応を示す。それに対してグレゴリーの自身の指し手は、どれほど大胆で独創的であっても、口に手を当てたまま眼をみはって眺めるばかりだった。

 ミハイル伯父の指し方は、父とは全く違った。淡々と興味なさそうに指す。もうすぐ食事が出るかという風情で、盤に対して体をやや斜めに構えた。だが、伯父は盤面の全てを常に見ていた。形勢を逆転されても慌てず、チャンスが到来してもかすかに面白がるような表情を覗かせるだけだった。タバコをぎりぎりまで吸いながら、幼なじみがホテル・ユスポフのカフェに集う腕自慢たちを相手に呻吟し、身悶えるのを見つめていた。カフェの楽しい雰囲気がぶち壊れる頃、ミハイルはグレゴリーを自宅へ招待したのである。

 当時、フェデュニンスキー一家で狭いアパートに二部屋の住居を借りていた。母親は寝室のベッド、妹はソファ、ミハイルは床に寝床を作って寝ていた。落ち着いた性格の兄とは異なり、喧嘩っぱやいガリーナは戸口で部屋に入るのをためらっているグレゴリーをひと目見るなり、身体に電流が走るのを感じた。一目惚れだった。後にリュトヴィッツは父に母―ガリーナ・フェデュニンスカヤと会った時に何かを感じたのかと聞いたことがあったが、大した答えは聞き出せなかった。

 ガリーナはグレゴリーの境遇に深く同情したという。グレゴリーは戦後にアメリカに移住した友人とハガキで通信チェスを興じていたが、KGBはチェスの譜面を使った暗号でひそかに資本主義者と通じているという容疑をでっちあげ、グレゴリーとその両親を逮捕した。シベリアの強制収容所に送られたグレゴリーは両親を失い、スターリンの死亡により特赦で解放され、独りでレニングラードまでたどり着いたのだった。

 最初の夜、グレゴリーはミハイルと一緒に床の上に寝た。翌日、ガリーナが服を買いに連れて行き、同じアパートで最近未亡人になった人から部屋を間借りできるよう交渉した。髪がまた生えるようにと頭皮をタマネギでマッサージしたり、チフスに効用があるからという医師の勧めに従って牛のレバーを食べさせた。

 そうして5年間、ガリーナがこまめに世話を焼いたおかげで、グレゴリーは復活した。背筋を伸ばし、話をする時は相手の眼を見て、部分入れ歯を使うようになった。母は22歳で父と結婚した。その後は新聞社に就職して、リュトヴィッツが大学生の時に癌で亡くなるまで、事務員として働いた。

 ミハイル・フェデュニンスキーは法律事務所で才能を開花させた。その才能に裁判で相手の検事も感嘆とした程だった。この検事の働きかけでミハイルはモスクワでさらなる研鑽を積んだ後、国家検事局の検事となった。

 グレゴリー・リュトヴィッツはチェスに明け暮れていた。

 晴れの日も雨の日も、父は毎朝歩いてホテル・ユスポフのカフェに出かけた。奥のテーブルに入口の方を向いて座り、義兄からの贈り物であるチェス盤を置いた。夜はウシャコフスカヤ河岸通りにある、リュトヴィッツが育った小さな家の裏庭でベンチに座り、チェスの専門誌に投稿する小文や回想録を書いたりしていた。そして義兄の助けを借りながら、息子に自分が愛してやまないゲームを憎むことを教えたのである。

「それはやめたほうがいい」

 リュトヴィッツは大抵、父の言葉を無視した。

 自分の直観に従ってポーンやナイトをあるマスに置く。すると、そこに待ち受けている運命にリュトヴィッツはいつも驚くことになる。どれほど前もって熟考しても、どれほど独りで練習したとしても父の技法に常に驚かされた。

「その駒を取るのか」

「取るよ」

「やめたほうがいい」

 だが、リュトヴィッツには父よりも頑固なところがあった。そして予想できなかった運命が眼の前で現実となる様を羞恥心に身悶えながらも見守った。父は容赦なく息子を叩きのめした。

 そんなことを何年も続いた後で、リュトヴィッツは母のタイプライターで父に手紙を書いた。自分はチェスが嫌でたまらないからもうこれ以上やらせないでほしいと懇願する内容だった。それから3回ほど無残な敗北に耐えた後、1週間ほどして市の中心部にある郵便局からその手紙を送った。

 その2日後、グレゴリー・リュトヴィッツはホテル・プーシキンの505号室で自殺した。睡眠薬の過剰摂取が死因だった。父の死から23年経った時、リュトヴィッツは自分の手紙を再発見した。手紙はホテル・ユスポフの忘れ物を保管する箱に入れられていた。

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