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 コルサコフはまず、カスパロフが緩めておいた206号室の電球を全てねじこみ直した。額にかけていた老眼鏡を下ろし、遺体の検視に取りかかった。ペンライトで照らした口の中を覗き、指を子細に調べる。

「ふむ、爪と肉の間はきれいだな」

 ポポフが部屋中を歩き回った。粉と刷毛で壁やドア、調度品などに付着した指紋を浮かび上がらせ、写真を撮る。チェス盤の写真も1枚撮った。リュトヴィッツは自分用にもう1枚撮るよう言った。

「そいつは貴重な手がかりだ」

 その後、ポポフはカスパロフが試そうとしていた棋譜を解体した。駒を1つずつ取り、ファスナーつきのビニール袋に収めた。

「君はなぜそんなに汚れているんだ?」

 コルサコフはリュトヴィッツに眼を向けずに聞いた。リュトヴィッツは自分の靴やシャツの袖、ズボンの膝についた薄茶色の埃に気がついた。

「地下室を見てきたんだ。太い管がたくさんある。よく分からないが、水道やガスの配管だろう。一応、調べてみたんだ」

「ワルシャワのトンネルみたいのがあるんだよ。ペテルの地下に張り巡らされてるんだ」

「まさか」

「900日のことだ。ついに市街地をドイツ軍に占領されるんじゃないかとびびったスターリンが、徹底抗戦のためにNKVDに造らせたのさ。パルチザンが街じゅうでゲリラできるように」

 リュトヴィッツのような年代のロシア人にとって、100万人以上の市民が死んだというレニングラードの900日包囲戦はロシアの悲惨な歴史の中のぞっとするような数字の1つでしかなかった。

「ただの噂だろ。都市伝説だよ。あれはガスか水道の配管さ」

 コルサコフはそれには答えず、バスタオルやすり減った石けんを個別のビニール袋に入れた。トイレの便座に貼りついた赤褐色の陰毛を1本つまんで、やはり袋に収めた。

「噂と言えば」コルサコフが言った。「パヴロフから何か連絡はあったかね?」

 パヴロフというのは、内務省サンクトペテルブルク支部の刑事部長のことだ。

「噂って、あの親父に何かしたのか?」

「公金横領に関わった廉で、モスクワに呼び出されて事情聴取を受けているらしい」

「へえ」

 リュトヴィッツは、パヴロフの顔を思い出そうとしていた。いかにも生真面目そうな小役人といった感じで、話し声は小さく存在感がまったくと言っていい程なかった。

「それじゃ、後任は?」

「副部長が昇格したよ」

 コルサコフはゴム手袋をはめた手で、カスパロフのそばかすの散った左腕をなでていた。腕には注射の痕と、血管を浮き立たせるために縛った痕があった。

「どうだ、何か分かるか?」リュトヴィッツは言った。

 コルサコフは眉をひそめた。カスパロフの肘の上に圧迫した痕が幾重にも重なっていた。

「何か、紐のようなものを使ったみたいだ。ベルトだと幅が広すぎて痕跡が合わない」

 この時はじめて、ポポフが口を開いた。

「検視官、注射道具のようです」

 ベッド脇の小卓の抽斗からポポフは黒いポーチを取り出した。ファスナーを開け、幅1センチくらいの黒い革紐を2本指でつまんで引っぱり出した。

「それに間違いないな」コルサコフは言った。

 廊下で人の声がした。金属やベルトがこすれあう音がして、法医学検査所から来た2人の作業員が折りたたみ式の車輪つき担架を押して入って来た。ポポフが作業員に証拠物の容器や衣類を詰めた紙袋やらビニール袋を持っていくように指示した。それからアタッシェケースに鑑識用具をしまい、部屋を出て行った。

 リュトヴィッツはハンカチで包んだ手でカスパロフの顎をつまんだ。膨れあがって血まみれの顔を左右に傾ける。

「見た感じが・・・どう言うんだろう、ひげを剃り落としたあとみたいな顔をしてる」

「ひげを生やしていたとしてもかなり前のことだな。肌の色は均質だ」

「銃弾は?」

「ベッドや枕元の周辺にはなかった。おそらくリボルバーだろう。口径は解剖で開いてみないと、分からん」

 リュトヴィッツは遺体から離れた。カスパロフの顔立ちに奇異な思いを抱いた。安いホテルに泊まり、靴下も履いていないようなヤク中には見えない。上の階層に属していたんではないか。そんなことを思わせる顔貌だった。

「まったく、クソッタレだ」

 被害者のことではなく、事件のことだった。リュトヴィッツの判定が誰かに何かしらの驚きを与えた様子はなかった。作業員がカスパロフの遺体をベッドから担架に移してベルトで固定する。リュトヴィッツは担架を運ぶ作業員とコルサコフをホテルの出入口まで見送った。

 リュトヴィッツは505号室に戻り、ウォッカと思い出深いオリンピック記念グラスと再会した。汚れ物のシャツをクッションの代わりにして、ベニヤ合板の机のそばの椅子に座った。カスパロフの棋譜を思い出そうとするが、開いた脳の抽斗から次々と想念が吹き出してきて、そのうちうとうとしかけた。だが、眠るわけにいかない。眠れば、また死んだ妻と再会しなくてはならなくなる。

 リュトヴィッツは服を脱ぎ、シャワーの湯に打たれた。そのあと30分だけベッドに横たわる。眼を開けたまま、チェス盤に向かう父親と1986年夏に結婚したときのエレーナの面影を思い出した。30分後、無駄なことをしたなという自嘲とともに、リュトヴィッツはホテル・プーシキンを出た。

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