[4]
リュトヴィッツは気分転換に、通りに出た。ドアを開けた途端、雨まじりの風が吹きつけた。リュトヴィッツはすぐにホテルの玄関口に引っこんだ。しばしウォッカとオリンピック記念グラスが待っている505室に戻りたい欲求と戦っていたが、その場でタバコに火を付けた。
1人の老人が左右にふらつきながら、ホテルの玄関に向かって歩いてきた。背が150センチもない。大きなスーツケースを引きずっている。スーツケースが重いのか、身体が右に5度ほど傾いていた。
リュトヴィッツは老人に眼を向けた。丈の長いコートは前が開き、背広とベストが見えている。つばの広い帽子を深くかぶっている。白い顎ひげともみあげは密生しているのにしょぼしょぼして見えた。
老人は足を止め、リュトヴィッツに質問しようとするように人差し指を立てた。猫背で痩せこけているが、顔は目尻を別にすれば若々しくつるりとしていた。風が老人の髭と帽子のつばを揺らしていた。
リュトヴィッツはフィリポフを時どき軽い窃盗や麻薬所持で逮捕していた頃、この頭のおかしげな老人をよく街で見かけたことを思い出した。皆がこの老人を《預言者》と呼んでいた。綽名の訳は意外な場所にしょちゅう現れること、いつも喜捨箱を持ち歩いていること、何か重大なことを話したそうな様子をしていることだった。
「ちょっとお尋ねするが」老人はリュトヴィッツに話しかけた「ここはホテル・プーシキンだね?」
老人のロシア語には聞き慣れない響きを含んでいた。
「そうだよ」
リュトヴィッツがタバコの箱を差し出した。老人は2本抜き取り、1本をシャツの胸ポケットに入れた。風に乗って、老人の服や身体から浮浪者特有のむっとする匂いが鼻をついた。
「洗面所はお湯が出るし、おまわりだって泊まっている」
「あんたは支配人かね、親切なお兄さん」
リュトヴィッツは思わず苦笑した。一歩わきへ寄り、玄関のドアを顎で示した。
「支配人は中だ」
老人は、通りの薄暗い灯りで灰色に浮かびあがっているホテル・プーシキンの飾り気のない正面壁を見あげた。その青い眼に炎のような生気が浮かんでいる。リュトヴィッツには不思議だった。このホテルに一晩泊めてもらえると期待しても、普通はこんなに眼を輝かせたりはしないだろう。
ようやく民警の制服警官がやってきた。ペトロフという新人だった。制帽を片手で押さえながら駆けてきた。
「同志大尉」
ペトロフは息を切らしながら言い、老人を横目で見て軽く会釈をした。
「こんばんは、じいさん。大尉、すいません。いま連絡を受けたところです。ちょっと休憩してたもので」ペトロフの息は代用コーヒーの匂いがした。「被害者はどこですか?」
「206号室だ」リュトヴィッツは玄関のドアを開けてペトロフを入れ、老人に振り返った。「じいさんも入るかい?」
「いや」
老人の口調には、ある種の感情が軽く込められていた。その眼に浮かんでいた生気は消え、薄く涙の膜ができていた。
「何かなと思って見にきただけなんだ。ありがとう、リュトヴィッツ巡査」
「今はもう刑事だよ」リュトヴィッツは老人が自分の名前を知っていることに驚いた。「俺を知っているのか、じいさん」
「わしはなんでも知っている」
老人はコートのポケットから喜捨箱を取り出した。蓋には硬貨や折りたたんだ紙幣を入れられるように細長い穴が開いていた。
「少しでいいんだが、ご喜捨を願えないかな?」
リュトヴィッツは財布を出し、折りたたんだ10ルーブル札を喜捨箱に入れた。
「まぁ頑張って」
老人は重そうなスーツケースを持ち上げ、引きずるような足取りで歩き出した。リュトヴィッツは老人の袖をつかんで引きとめた。ひとつ聞いてみたいことがあった。
「そのスーツケースには何が入っているんだ、じいさん」
「本が1冊。とても長い大きな本でな」
「どういう話?」
「救世主の話だ。さぁ、手を離してもらえんかな」
リュトヴィッツは手を離した。老人は背筋を伸ばして頭をあげた。
「救世主はもうすぐやってくる」
帽子のへなへなした広いつばを引きおろして、老人は雨の中を歩き出した。
リュトヴィッツはタバコを靴で踏みにじり、ホテルのロビーに戻った。
「あのイカれたじいさんは何者ですか?」ペトロフが言った。
「《預言者》と名乗っていますが、別に害はないですよ」
フロントの受付窓の金網の向こうから、フィリポフが答えた。
「以前はときどきこの辺でもよく見かけました。いつも救世主のポン引きをやってます」
リュトヴィッツは静かな口調で言った。
「亡霊だよ。ペテルは亡霊であふれている」
検視官のコルサコフと助手のポポフが雨音とともにロビーに飛びこんできた。2人ともしずくが垂れている傘を片手に、ポポフは青い文字で「科学技術部」と書かれたアタッシェケースを持っていた。黒いビニール製のカメラケースと、プラスチック製の容器がゴムのロープでアタッシェケースに留めてあった。
「君はここを出ていくのか?」
コルサコフが聞いてきた。これは最近、珍しくない挨拶の言葉だ。この2年か3年間に多くの市民がロシアを出た。自分はどこへも行くつもりはない。かねてからリュトヴィッツは周囲にそう話していた。
「娘がどうしてもアメリカに移住する気らしい。ボルティモアだとか」
「ボストンあたりかな?」リュトヴィッツは当て推量を言った。
「なんでどいつもこいつもアメリカに住みたがるんだ?わしにはさっぱり分からん」コルサコフはリュトヴィッツに目配せした。「少なくとも、この国にいれば何かがうまくいかなかったとき、いつでも誰かのせいにできるじゃないか」
リュトヴィッツはペトロフに玄関の張り番を命じた。
「やじ馬には何も話すな。それと邪険に扱うなよ。挑発されてもな」
コルサコフは薄ら笑みを浮かべた。
「それで、死人のお部屋にはどう行くのかな?」
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