[3]
この地区の警邏を担当する民警の巡査たちが来るのを待つ間、リュトヴィッツはホテル中のドアをノックして回った。大半の宿泊客は、夜の街に遊びに出ていた。部屋にいながら精神をどこかに置いてきてしまった者もいた。それ以外の場合でも、深夜の小学校の教室をノックして回ったほうがましだった。
ホテル・プーシキンの宿泊客は皆そわそわし、いやな匂いを漂わせていた。いかにも変人としか思えないスラヴ人ばかりだったが、人の後頭部に拳銃を押し付けて引き金をひきそうな者は1人もいなかった。
「こんなとぼけた連中を相手にするのは、時間の無駄だ」
リュトヴィッツはフィリポフに言った。
「お前、ほんとに見覚えのない人間や普段と違うことを見ていないんだろうな」
「ええ、申し訳ないですけど」
「だとしたら、お前もおとぼけ野郎だ」
「それは否定しませんけどね」
「通用口はどうだ?」
「前によくヤクの売人どもが使ってましたから、警報機を付けてます。誰か入ってきたら、警報が聞こえたはずですよ」
リュトヴィッツはフィリポフに、昼間と週末担当の支配人に電話をかけさせた。自宅のベッドに居心地よく収まっていた2人の支配人によると、カスパロフがホテルに泊まりに来たのは2か月前。その間に自分の知る限りカスパロフを訪ねてきたり、カスパロフのことを尋ねたりした者はいないと証言した。
「ちょっと屋上を見てくる」リュトヴィッツは言った。「誰もホテルから出すなよ。巡査たちが来たら、呼びにきてくれ」
リュトヴィッツはエレベーターで6階まで上がり、そこから階段を駆けのぼって屋上に出た。へりに沿って歩き、欄干によりかかって「世界中で最も抽象的かつ人工的な街」の全景を眺め渡した。
ピョートル大帝が首都に選んだネヴァ河の河口はただの沼沢地だった。冬は長く、寒さは厳しい。都市を築くために全国から徴用された大勢の農民が泥濘の中の土木工事に酷使され、命を落とした。
6月とはいえ、フィンランド湾から吹きこむ風は少し肌寒かった。リュトヴィッツはタバコに火をつけた。タバコは10年近くやめていた。また吸うようになったきっかけは、エレーナの死だった。
「涙と屍の上に建てられた」と言われたこのサンクトペテルブルクには人間の心を憂うつにさせる何かがある。後頭部に鉛をぶち込まれたカスパロフには、殺されたなりに何か理由があるのではないかという考えは、この都市の刑事には特に似つかわしくない。
いまリュトヴィッツの脳裏にある光景が浮かんだ。このホテルの薄汚れたロビーに置かれたソファに座り、本名は分からないがカスパロフと自称する若者とチェスをする自分の姿だった。その実、リュトヴィッツはチェスが大嫌いだった。それでもその想像の情景になぜか感動でき、しばし打ちのめされた。
「屋上は気持ちいいな」
リュトヴィッツはロビーに戻ってそう言った。バーのボックス席のような一角があり、黄ばんだソファ、傷んだ椅子とテーブルが置かれていた。もしカスパロフを見かけたとしたら、こんな空間か部屋だったかもしれない。リュトヴィッツはそう思った。その時のカスパロフは背広を着て、ちゃんとネクタイも締めていたようにも思える。
「もっとちょくちょく上がることにしよう」
「地下室は?」フィリポフが言った。「あそこも見てきますか?」
「地下室ね」リュトヴィッツは胸の内で、心臓がびくりと震えたのを感じた。「見てきたほうがいいだろうな」
両親のほかは誰も知らないことだが、リュトヴィッツは闇を恐れる男だった。
「一緒に行きますか?」フィリポフが言った。
「いいから、懐中電灯を持って来い」
地下室につづく階段の上に立つと、ひんやりとした埃と黴の匂いがした。リュトヴィッツは紐を引いて裸電球を付け、息を止めてから階段を下りた。
最初にあったのは、忘れ物を保管するスペースだった。木製の棚やキャビネットに千点ぐらいの品物が置いてあった。
片方だけの靴、毛皮の帽子、ゼンマイ仕掛けのおもちゃ、斧、二台の自転車、部分入れ歯、カツラ、ステッキ、ガラスの義眼。木箱の一つには鍵がいっぱいに詰まり、別の箱にはありとあらゆる理容用具が入っていた。
リュトヴィッツは鍵の箱を鉛筆でかきまわした。帽子を1つずつ手にとり、棚に並んだペーパーバックの本を手で探った。自分の心臓が打つ音と、息が発するウォッカの匂いを意識する。沈黙が何分か続いた頃から、耳の中で心拍音が人の話し声のように聞こえ始めた。
隣は洗濯室だったが、このホテルはずいぶん前にランドリー・サービスを止めていた。電灯は付かず部屋は真っ暗だったが、見るものはあまりなかった。リュトヴィッツは床に開いた排水孔を覗いた。腹の中でミミズがうごめくような感覚が襲った。手の指を曲げ伸ばしし、首を回してコキコキと鳴らした。
部屋の奥の壁に丈の低い木製のドアがあった。ドアノブに輪にしたロープで札が垂れ下がっていた。「這ってしか入れない空間」。その言葉だけで、リュトヴィッツはぞっとした。
こんな狭苦しい場所に、殺人者が潜んでいる可能性はどのくらいあるのか考えてみた。ありえなくはない。リュトヴィッツはそこを探さずに済む理由を考えてみた。結局は思いつかず、懐中電灯を点灯して口にくわえた。ホルスターからマカロフを抜き、あいたほうの手でドアをぱっと開けた。
「出て来い」
リュトヴィッツは怯えた老人のようなかすれた声を出し、上体を狭い空間に突き入れた。空気は冷たい。下水を流れるドブの匂いがした。小ぶりな懐中電灯の光はしたたり落ちるという感じで、ものを露わにすると同時に影も作る。
壁はブロック材。床はコンクリート。天井は配線や断熱材で覆いつくされていた。床に丸い金属の枠があり、そこにベニヤ板がはめてあった。
リュトヴィッツは息をとめ、押し寄せるパニックの波をかきわけながら、ベニヤ板のほうにゆっくりと歩み寄った。懐中電灯をさっと床の上で回した。枠とベニヤ板には埃が薄く均等に積もり、何かが触れたり擦れたりした痕跡はないように思えた。指を隙間にこじ入れ、ベニヤ板を枠から外した。
懐中電灯で照らすと、アルミ製の管がコンクリートに埋め込んであった。管の内側には突起が上下に並び、それを足がかりに下へ降りられるようになっている。ベニヤ板を囲んでいた金属の枠は、この管の上縁だった。管の直径はちょうど大人が1人入れる程度。もちろんロシア人の刑事も、暗闇恐怖症でなければ、入ることが出来る。
リュトヴィッツはマカロフを握り締めながら、その暗い穴の中に銃弾を撃ち込みたくなる衝動とたたかった。それから、ベニヤ板を穴の上へ乱暴に戻した。誰が降りるものか。
闇は階段を上がってロビーに引き返す途中もしつこくつきまとい、背広の後ろ襟や袖を引っ張りそうだった。
「何も無い」
リュトヴィッツは気持ちを立て直しながら、フィリポフにそう言った。
「異常は何も無かったよ」
「でもほら、ボロディンが言ってるでしょ。このホテルには幽霊が出るって」
フィリポフが言った。ボロディンとは、昼間担当の支配人のことだ。
「声を出したり、歩き回ったり。プーシキンの幽霊だってボロディンは言ってますけどね」
「こんなホテルに名前を使われたら、俺だって化けて出る」
「何が起きても不思議じゃないですよ。特に最近はね」
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