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 206号室のドアやドア枠にむりやり押し入った形跡はなかった。リュトヴィッツはハンカチを被せてドアノブを回し、革靴のつま先でドアを押し開けた。

「なんだか妙な感じはしていたんですよ」

 フィリポフが後から入ってきながら言った。

「あの客を最初に見た時のことなんですが。そのぉ、壊れた人間っていうか」

 リュトヴィッツはなんとなく身につまされる言い方だと思った。フィリポフは続けた。

「そう言われる人間は大抵、その表現に値しないんですが。私の意見では、ほとんどの人間はもともと壊れるものを持っていませんからね。でも、このカスパロフときたら。とにかく、妙な感じがしたんです」

「近頃は誰でも妙な感じを味わっているよ」

 リュトヴィッツはそう言いながら、室内の様子を黒い手帳に書きとめた。本当はメモを取る必要はなかった。人や物の外形は細部に至るまで、たとえどんなに酔っていてもまず忘れたことはなかった。

「モスクワじゃ、そういう連中のために専用の電話回線を1本、設けたぐらいだ」

 フィリポフがリュトヴィッツに同調して言った。

「今じゃロシア人にとっておかしな時代だ。それは間違いないですね」

 ベニヤ合板のタンスの上には、ペーパーバックの本が何冊か積んであった。ベッドの枕元の小卓に、チェス盤。安物のセットで、盤は2つ折りにできるボール紙だった。

「チェスをやると知ってたら、手合わせを願うんだった」

 リュトヴィッツはハンカチで包んで、駒を1つ手に取った。プラスチック製で中が空洞。表面にはバリが付いたままだった。

「刑事さんがチェスをやるとは知りませんでした」

「弱いけどな」

 どうやらゲームの途中らしい。盤の中央で黒のキングが攻められている混戦ぎみの中盤戦。駒は白のほうが2つ多かった。リュトヴィッツは駒をチェス盤に戻した。

「中盤に入ると、勘をなくすんだ」

「刑事さん、私の経験から言わせると、ゲームは中盤が全てですけどね」

「知ってるよ」

 テレビのそばの笠が3つあるフロアランプは1つだけ灯っていた。バスルームの蛍光灯をのぞいて、室内の電球の半分は緩められているか、切られていた。窓の敷居によく知られた商品名の下剤がひと箱。クランクで開閉する窓は限度いっぱいに開いていた。フィンランド湾から吹き込む強い風が金属製のブラインドを数秒おきに揺らしている。

 リュトヴィッツは遺体を見下ろした。

 まるで小鳥のような男だった。明るいハシバミ色の瞳。小さな嘴のような鼻。頬と喉に軽く赤味が差し、赤褐色のそばかすが浮いていた。この客をどこかで見かけたことがある。不意にそう思った。

 カスパロフはベッドにうつ伏せに寝ていた。顔を壁に向けている。着衣はごく普通の白いパンツのみ。頬には3日分くらいの金色の無精髭。赤黒い血に縁取られた眼窩から、膨れ上がった眼球が飛び出していた。赤褐色の髪をかきわける。後頭部に焦げ跡のついた小さな穴が開いていた。そこから血が一筋たれている。

 リュトヴィッツはベッドに枕がないことに気付いた。

「部屋の中のものには手を触れてないだろうな」

「現金と宝石以外はね」

 リュトヴィッツはクローゼットの傍で、黄緑色をした毛足の長いカーペットの上に、小さな白い羽根を1つ見つけた。クローゼットの扉を開けると、その床に枕があった。この枕ごしに銃を撃ったようだった。弾薬がガスを膨張させる音を抑えるためだ。

 リュトヴィッツは部屋に備え付けの電話を取った。相棒の刑事、パーヴェル・スヴェトラーノフを起こした。

「スヴェン中尉」

 リュトヴィッツは北欧風のあだ名で相棒を呼び出した。

「懐かしい声がしたと思ったら、サーシャ。あんた、帰って来たのか」

「もしかしたら、まだ起きていると思ってな」

「起きてたよ」

 受話器の中から、もぞもぞと布が擦れる音がした。

「あんたの頭上に呪いが降りかかるといい。このくそったれめ」

 モスクワへの傷心旅行に出る何週間か前、リュトヴィッツは真夜中に相棒に電話をかけたことが何度もある。その時はたいがい酔っ払っていた。騒々しい口調で同じ話をくどくどと何回も繰り返していた。

「俺が泊まってるホテルで殺しがあった。被害者もホテルに泊まってて、後頭部に鉛を1発ぶちこまれている。枕で音を消してる。えらくきれいな手口だ」

「プロか?」

「だから、お前を煩わす気になったんだ。普通の殺しじゃないようだから」

 スヴェトラーノフは重い息をひとつ吐いた。

「あんたは休暇中。おれはいま非番なんだ。大屋敷に連絡しろよ、サーシャ。他の連中にまかせておけばいいさ」

 大屋敷とは、独立国家共同体(CIS)のすべての都市にある民警とKGBの地区本部のことだ。

「そうしてもいいんだが、ここはおれが泊まっている場所なんでね」

「被害者とは知り合いだったのか?」スヴェトラーノフの口調が和らいだ。

「いや、そうじゃないが」

 リュトヴィッツはベッドに横たわる遺体から眼を逸らした。時には、事件の被害者が哀れでならなくなることがある。だが、そうした感情はなるべく持ち合わせないようにしていた。

「じゃあ、もうベッドに戻ってくれ」リュトヴィッツは言った。「このことは明日話そう。じゃまして悪かったな。奥さんに謝っておいてくれ」

「なんだが声が変だぞ、サーシャ。大丈夫か」

「被害者はチェスをやる男だったんだ、スヴェン。おれはそれを知らなかった。それだけのことだ」

「なぁお願いだ、サーシャ。頼むから泣き出さないでくれよな」

「大丈夫だ。おやすみ」

 リュトヴィッツは大屋敷の指令室に電話で事件を報告した。そして、自分を担当にしてくれるよう頼んだ。

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