第1章:ホテル・プーシキン

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 アレクサンドル・リュトヴィッツは刑事だ。警察学校を出て以来、ずっと故郷のレニングラード―現在はサンクトペテルブルクで、警察官として働いてきた。内務省サンクトペテルブルク支部で、表彰された回数が最も多い警察官だった。

 リュトヴィッツは35歳だった。ウシャコフスカヤ河岸通りの小さな実家で、妻のエレーナと2人で暮らしていたが、2か月前にエレーナをある事件で亡くした。周囲から向こう見ず、ろくでなし、イカれた野郎などと悪し様に言われてもどこ吹く風というリュトヴィッツだったが、妻を亡くしたショックはさすがに堪えられなかった。心労がたたり、酒量が増えた。ついにはアルコール中毒になり、身体を壊した。

 見かねた刑事部の上司から休暇を言い渡されたリュトヴィッツは妻との思い出が色濃く残る故郷をしばらく離れようと思い立ち、モスクワに旅に出た。1993年3月のことである。そして6月1日、モスクワからリュトヴィッツはサンクトペテルブルクに帰って来た。物語はその日の夜から始まる。

 リュトヴィッツは実家に帰らず、センナヤ広場の近くにたつホテル・プーシキンに宿泊した。夜勤支配人のフィリポフから渡された部屋の鍵は、505号室。窓から、通りをはさんだ向かいにその昔、金貸しの老婆を斧で殴り殺したラスコーリニコフが住んでいた下宿が見えた。

 ラジオから流れてくるジャズを肴にウォッカを呑みながら、リュトヴィッツは下着姿で椅子に座ったまま、うとうとしていた。部屋に入ってから1時間もしない内に、フィリポフがリュトヴィッツを起こしに来た。

「電話には出ないし、ドアも開かない」フィリポフが言った。「しょうがないから、中に入ってみたんです」

 206号室の宿泊客が撃ち殺されているという。被害者は若いロシア人の男でカスパロフと名乗っていた。リュトヴィッツが覚えている限り、これまで一度もこの安ホテルで宿泊客が殺されたことはなかった。

 リュトヴィッツはズボンと皮靴を履き直した。ラジオを止める。部屋の入口に立つフィリポフを見た。ドアノブにかけたネクタイを手に取り、手早く結ぶ。ジャケットを羽織り、内ポケットに手を入れて身分証があることを確かめる。制式拳銃のマカロフPMを収めた腋の下のホルスターを軽く叩いた。

「起こすのは悪いと思っていたんですが、刑事さん」フィリポフは言った。「眠ってなかったようなので」

 フィリポフはアフガニスタンからの帰還兵で、ヘロインの乱用癖があった。リュトヴィッツが麻薬対策課にいた頃、この夜間支配人を5回逮捕したことがあった。

「眠っていたよ」

 リュトヴィッツは眠気覚ましに、ショットグラスにウォッカを注いだ。1980年に開かれたモスクワ・オリンピックの記念グラス。はじめて妻のエレーナに出会った季節に乾杯した。

「俺は下着とシャツを着たまま、寝るんだ。椅子に座って、銃を身に付けたままな」

「あんたのお仕事を増やしたくはないんですけどね、刑事さん」

「これは仕事じゃないんだ、フィリポフ。好きでやってる」

 リュトヴィッツはグラスを置いた。主治医から、自分の飲酒は動きの鈍い中古車のエンジンをハンマーでがんがんと叩いて調節しているようだと言われていた。

「私も同じですよ。こんなホテルの夜勤支配人をやってるのはね」

 リュトヴィッツはフィリポフの肩を軽く叩いた。それから2人は殺された若者の部屋を調べるべく、ホテルで唯一の窮屈なエレベーターに乗り込んだ。

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