第2章:事件

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 翌日、スヴェトラーノフの青いジグリはサンクトペテルブルクから北西に約40キロの場所にあるゼレノゴルスキーを目指していた。刑事部長のコンドラシンから今朝、ある殺人事件の捜査に組織犯罪課と協力して当たるようにと命じられたからであった。

 M10号線の周囲に見るべきものはあまりなく、村があると気づいた時には、もう通り過ぎていた。スヴェトラーノフの小ぶりでたくましい両手がせわしなくハンドルやレバーを操作するそばで、リュトヴィッツはホテル・プーシキンの206号室に残されたニコライのチェス盤を撮影した写真を眺めていた。

 自称カスパロフが残した配置。あるいは殺人者が残した配置。黒はポーンが3つ、ナイトが2つ、ビショップが1つ、ルークが1つ。白はポーン以外のすべての駒とポーンが2つ残っており、ポーンの1つはあと一手で好きな駒に昇格プロモーションできる位置にある。何か奇妙な印象を与えさせる盤面で、ここに至ったゲームのプロセスはかなり混沌としたものに思えた。

「これがほかのゲームだったら」リュトヴィッツは言った。「ポーカーとか、パズルとか、ビンゴだったら、別にどうってことはないんだが」

「わかるよ」

「これは途中で止めたチェスの対戦だ」

 スヴェトラーノフは幹線道路から左折する。森の入口のような場所に車を入れた。「それであんたは、その駒の並びから何かを感じたんだ。カスパロフが死ぬ間際に、犯人の名前をチェスで示したってわけだ」

「でも、どうかな。チェスは意味がないかもしれない。とりあえず、俺はこの盤面から何も読み取れない。棋譜ってやつはどうも見るだけで頭痛がする。これは呪いだな」

 森の中のでこぼこした道をだいぶ通って、ようやく何台かの警察車両が見えてきた。スヴェトラーノフが路面を蹴立てるようにジグリを停め、リュトヴィッツにどこか嗜虐的な笑みを向けてきた。

「さぁ、この事件はあんたの鋭い刑事眼が必要なるんだ。しっかりしてくれ」

 リュトヴィッツとスヴェトラーノフはジグリを降りた。なだらかな斜面を下り、森の中にぽっかりと開いた小さな空き地に入る。警察車両の輪の真ん中に、黒いヴォルガの車体とそれを調べる十人ぐらいの技官や警官の姿が見える。

 その手前に2人に背を向けて、均整のとれた身体つきをした初老の男が立っていた。灰色の長い前髪に櫛を入れている最中で、ネズミ色のジャケットの袖口から防虫剤の匂いがした。男が振り向いた。

「援軍というのは、君たちのことか?」

 レオニード・ギレリス。ペテルで名前を知らない者はいない刑事だ。殺人課の勤務が長かったが、内務省の中で比較的新しく創設された部署である組織犯罪課を率いている。

「どうやらそのようですね」リュトヴィッツが言った。

 ギレリスはやれやれといった調子でかぶりを振った。

「今の世の中じゃ、平和も友愛もへったくれもない。二人とも、ドミトリ・ヴィシネフスキーの名前は聞いたことがあるだろうな?」

 2人は「ある」と答えた。ヴィシネフスキーは旧ソ連最初のジャーナリストとして、2大人気雑誌の「アガニョーク」と「クロコディル」に常にセンセーショナルな記事を発表し、国民的英雄に近い存在になっていた。

「そのヴィシネフスキーが殺された。そして、私のところに白羽の矢が立てられた」

「殺しの現場は普通、俺たちに回されるはずなんですが」スヴェトラーノフが言った。

「どうやらマフィア絡みの事件であることを、状況がはっきりと示しているらしい」

「どんな状況です?」リュトヴィッツは言った。

「さぁインディアン諸君、それを確かめてみようじゃないか」

 ギレリスの後に続いて、リュトヴィッツとスヴェトラーノフはヴォルガの助手席側のドアに回った。ギレリスが部下を呼ぶ。ブロンドの髪をした若い男が2人に歩み寄り、自己紹介する。ヴィクトル・ラザレフ。ラザレフがドアを開けて被害者を刑事たちに見やすくした。

 車内には男が前のめりになって座り、血まみれのダッシュボードに額をあずけていた。後頭部にコペイカ硬貨ほどの穴が開き、ロウソクのように青白くなった顔から灰緑色の眼がこちらを睨んでいた。

 ギレリスが手で十字を切る。それからため息をついた。

「ドミトリ・ミハイロヴィチ、なんとも痛ましい」

「知り合いだったのですか?」ラザレフが意外そうに言った。

 ギレリスはうなずいた。一瞬、泣き出しそうな表情を浮かべる。情動を抑えようとして上唇が震えていた。何度か咳ばらいした後、ようやく口を開いた。

情報公開グラスノスチの時、ドミトリが最初にマフィアについて記事を書いて以来の付き合いだった。その頃はまだ、クレムリンはマフィアの存在を否定してた。うちの課が今あるのは、ドミトリのおかげと言っていい」

 音を立てて鼻をすする。ギレリスは震える手でタバコに火をつけた。

「いくつかの事件で、彼の手を借りた。彼が捜査のきっかけを作ってくれたことも何度かある」

「わたくしにとっては長年、厄介の種というべき人物でした」

 この切り返すような言葉に刑事たちは全員、後ろを振り返った。大佐の制服ときっちりと着こなした赤毛の女が立っていた。ソーニャ・タルタコヴァ。科学技術部の主任を務めるタルタコヴァは持ち前のきつい性格から、《鉄のソーニャ》と呼ばれていた。

「まぁそれはそれとして、トランクの中で待ってるかわいそうな友だちのことを忘れないようにしましょうね」

 リュトヴィッツの横をかすめるようにして、タルタコヴァは車の後部に回った。懐かしい香りが鼻腔を通り過ぎ、リュトヴィッツは意外に思った。ソーニャがエレーナと同じ香水をつけているとは。タルタコヴァは写真係を肘で押しのけ、ゴム手袋をはめた手を無造作に振ってトランクの中身を指し示した。

 トランクの乗客は古代の墓から発見されたミイラみたいに身体を二つ折りにされていた。手足は縛られ、口をふさいだガムテープの上から何発か鉛をぶち込まれていた。ギレリスがタバコを強く吸い、遺体に顔を近づける。それから納得したような呻き声をもらした。

「マフィアのサインです」タルタコヴァが言った。

「そのようだな」ギレリスが同意する。「文字通り、口をふさいだってわけか」

 タルタコヴァは犯人が発砲の際にとったと思われる姿勢をとり、両腕を前に伸ばした。

「ことは単純。午前0時から2時の間に、犯人はここに立って撃ったのでしょう。この位置から弾を外せるのは、被害者の母親ぐらいのものです」

 次にしゃがみこんで、地面に転がっている数個の薬莢を指した。1個ずつそばに小さな旗が立てられている。

「凶器はオートマチック。それもかなり大きめ。十ミリか、四五口径でしょう。さらにこの薬莢の数からして、弾倉の容量もかなり大きいでしょう」

 ギレリスは上体を屈める。平らな小石を拾い、それでタバコを揉み消した。犯行現場に灰を落とさないように、吸殻を背広のポケットにしまう。小石を元の場所に置いた。

「音がすごかっただろうな」

 ギレリスはゆっくりと周囲を見渡した。小石だらけの浜に打ち寄せる波の音や樅の木立を吹きぬける風の音の中で、誰かが銃声を聞きつける可能性を探っているように見えた。

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