第56話 トラブル
「俺は大丈夫ですけど……」
翡翠は遠慮がちに朱里先輩にそう申告する。
ただ、彼にそう言われても朱里の表情は晴れない。
「公演に、トラブルつきもの。翡翠君も最後まで警戒して」
「あ、はい……」
翡翠は少し不審な様子だったが、そう言って言葉を収める。
さて、今度こそ、これで公演は……。
「あ、かり……」
会議が閉じられることを想定していた僕の耳に届いたのは、か弱く、今にも死んでしまいそうなほど弱った、仲田さんの声だった。
全員が彼女の方を向く。
そして、会議開始当初よりも顔色が明らかに悪い彼女に全員が驚く。
「紫乃、大丈夫?」
朱里が心配そうに彼女の肩に手を置く。
彼女は、ぶんぶんと縦に頭を振る。
「大丈夫ではないけど、大丈夫。頑張れる」
とても大丈夫ではないその様子に僕の隣で翡翠が思わず言った。
「仲田先輩、無理しちゃ駄目です」
その心配の言葉に、仲田さんはにへらーと笑う。顔が赤い。熱もあるのかもしれない。
「大丈夫、大丈夫」
「紫乃」
朱里が彼女の頭に強制的に手をやる。
そして、すぐに手を離して、空中で何度か手を振る。
「熱い……」
朱里は、そうつぶやいた。やはりひどい熱らしい。
僕らは大丈夫と言って聞かない仲田さんを、全員で必死になって保健室へと運んだ。彼女は運ばれている間も、断固として劇に出ると唱え続けた。だが、誰一人それを相手にはしない。
それほどまでに、彼女の状態はよくないものだった。
「こんなんで、よく学校まで来られたわね……」
保健室に連れていき、ベッドに仲田さんを寝かせると、彼女の状態を見た養護教諭がつぶやく。
「大丈夫なんですか?」
翡翠が彼女に尋ねると、彼女は小さくうなずいた。
「おそらく、この感じだと過労でしょう。彼女、生徒会長なんでしょ? とても忙しかったんじゃないのかしら」
翡翠はその言葉にうなずく。
確かに、演劇の練習をしながら、生徒会の活動も明石さんは怠らなかった。その上、AKの活動もたくさんあったのだろう。最近のこの忙しさでは、体を壊すのも仕方ないように思える。
ただ、なぜ、今日、と思わずにはいられなかった。
「よろしく、お願いします。ありがとうございました」
しばらくみんなで横たわる仲田さんを見守っていたが、朱里の言葉とともに、みんなでぞろぞろと保健室を後にした。
部員の間には無言が広がっていた。
黙ったまま、ついに部室へとたどり着く。
重苦しいその沈黙を破ったのは、明石さんだった。
おそらく、演劇への彼女の愛がそうさせたんだろう。
「公演までに治るんでしょうか」
養護教諭の先生は休めば治るとは言っていた。だが、今日中に公演までに治るかと問われたら、首をかしげるしかなかった。
「わからない。対策、はしておいた方がいいかもしれない」
その言葉で、僕らは彼女の次の行動を察する。
ああ、そうか。
仲田さんが舞台に立てなかったら、彼女が代役をやるのか。
僕がけがをした時と同じだ。
それは、安心感を僕らに与えてくれるものだったが、同時に僕らの中での僕らの価値を引き落とすものだった。
たとえ、僕らの中で誰か一人がかけても、それこそ完璧に彼女は演じて、穴を埋めてしまうのだろう。
少し、さみしい気分になった。
その後の部室では、仲田さんの役を、朱里に切り替えた場合での劇の練習が行われた。
「それじゃ、また、放課後ね」
朱里の掛け声で、みんなは解散し、自分の教室へと向かっていく。
授業開始までは、あと10分ほど。
僕は翡翠に先に行くように促し、朱里の傍に近づいた。
彼女が何を考えているか知りたくなった。
彼女の周りで今までどんなトラブルが起こってきたのか知りたくなった。
でも、そんな思いは、彼女の悲し気な顔を見て吹っ飛んでしまう。
ああ、そうか。
彼女は、責任を感じているんだ。
彼女はそう……。
「悲しいんだね?」
その言葉に、朱里が驚いたように目を見開く。
彼女の目からつーっと涙が一筋落ちる。
僕は彼女に手を伸ばし、彼女を優しく包み込むように抱きしめた。
「朱里は悪くないよ」
無責任だけど、心の底からのその僕の言葉に朱里の泣き声が大きくなった。
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