第53話 邂逅

 翡翠の母親は、翡翠の言葉からちょど30分後に校門前にやってきた。

 彼女は、僕の隣にいる明石さんを見ると、一瞬驚いたが、すぐににやにやとして質問してきた。


「彼女?」


「ち、違います! 同じ部活の仲間として付き添いです」


 明石さんはその言葉に真っ赤になって反論する。


「なるほどねー」


 信じないぞという目をしている翡翠の母親に僕は小さくため息をつきながら、彼女の車に乗った。


「お願いします」


「はいはーい」


 翡翠の母親が車を出してくれる。

 ちなみに、僕がこれから行く病院は近所の総合病院だ。この病院には最新鋭の設備が整っていて、様々な難病の研究・治療が行われているらしい。

 もっとも僕がこの病院に通っているのは、翡翠の家から近いから、というそれだけの理由だったが。


「え、この病院……」


 翡翠の母親が病院の駐車場に車を止めると、明石さんがつぶやく。

 なにかあったのだろうか、僕が尋ねようとしたところで、翡翠の母親に急かされる。


「いくわよー」


 僕は言おうとしていた言葉を飲み込んで、病院の中へと向かう。

 予約をしていたおかげもあってか、診察の順番はすぐにやってきた。

 明石さんと翡翠の母親を待合室に待たせて、診察室に向かう。


「おめでとうございます、完治していますよ。ただ、病み上がりなので無理はしないようにね」


 担当医はそう言って僕の包帯を外してくれた。

 僕は、ほっと胸をなでおろす。

 これで、明石さんにとやかく言われることも、朱里に迷惑をかけることもなくなる。


 僕が診察室から出ると、僕の足の包帯が取れたことに気付いたのか、明石さんが満面の笑みを浮かべる。


「よかった、取れたんだね」


「うん、だから心配することなかったのに」


「心配に決まってるでしょ!」


 明石さんと僕がそんなやりとりをしていたら、翡翠の母親が青春ねー、などと言いながら見つめてきた。


「いや、そう言うのじゃないですから」


 僕が慌てて突っ込むと、翡翠の母親はまたもや含みのある笑いをする。

 否定してもその表情で言外にからかってくるのを見ると、翡翠はやっぱりこのお母さんから生まれたんだな、などと実感してしまう。


「それじゃあ、どうしましょうか。れもんちゃん、家まで送ろうか?」


「あ、いえ……」


 翡翠の母親の提案に、言いにくそうに口ごもる明石さん。

 そういえば、先ほど駐車場でもなにか考えるような表情をしていたな、と僕は思い出し、彼女に尋ねる。


「この病院になにかあるの?」


 僕の言葉に、一瞬迷ったような表情を浮かべた明石さんだったが、翡翠の母親に聞こえないように、小さな声で耳打ちしてくる。


「ここ、如月先輩の妹さんの病院なの。せっかく来たし、お見舞い行こうかなと思って」


 僕はその言葉を聞いて、自分のミスにやっと気づく。

 僕はなんてまずいことをしてしまったのだ。

 明石さんだけは、この病院に近づけてはいけなかったのに。彼女が如月先輩の妹の容態の悪化を知ったら、きっと演劇どころではなくなってしまう。

 僕は自分の過ちを挽回すべく、明石さんを説得にかかる。


「急に行ったら、迷惑だと思うよ?」


「でも、妹さんもいつでもきてねって言ってたし」


 僕は彼女のその言葉に歯噛みする。どうして、こうもこの人は僕のいうことを聞いてくれないのか。


「時間も遅いし……」


「まだ面会時間には間に合うから、ちょっと行ってくるね!」


 明石さんはそう言って歩き出してしまう。

 僕は彼女と翡翠の母親の間で一瞬逡巡したが、決心して翡翠の母親に告げる。


「ここに知り合いの兄妹が入院しているので、ちょっと挨拶してきます。遅くなるかもなので、先に帰っててください。送ってくださってありがとうでした!」


 僕は翡翠の母親の返答を聞かずに、明石さんの後を追う。

 そしてなんとか、エレベーターの所で明石さんに追いついた。


「待ってよ」


 僕は、閉まりかけているエレベーターに体をねじ込ませる。目の前の明石さんは驚いた表情をしている。


「なんでついてくるの?」


 明石さんは不審げな様子で僕に尋ねる。


「ついでだよ、ついで」


 とりあえず、その場しのぎの言葉で僕は誤魔化す。

 頭の中では、どうやって彼女を真実から遠ざけようか必死に考えていた。


 ただ、その思考は僕の脳みそのキャパシティを超えていて、名案を思い付く前に、如月先輩の妹さんが入院しているという病室の前についてしまう。


「失礼します」


 明石さんは、遠慮がちに小さくノックした後、病室をのぞいた。

 僕も慌てて彼女と同じように病室をのぞく。

 そこには、僕が恐れていたような悲惨な光景はなかった。

 容態が悪化して苦しむ妹さんも、彼女につなぐための機械もない。

 そこには、まっさらなベッドがあるだけだった。


「あれ?」


 明石さんがつぶやく。

 僕はこれは好機とばかりに、彼女を帰らそうと言葉を紡ぐ。


「きっと、診察か何かだよ。邪魔になるから帰ろう」


「あの、すみません」


 僕の言葉を無視した明石さんは、廊下を歩くナースさんを呼び止める。


「ここの病室の如月さんってどこにいるかわかりますか?」


 ナースさんは、一瞬不審げな顔をしたが、明石さんの顔に見覚えがあったようで、親切にもいらないことを教えてくれる。


「201号室の如月さんなら、今集中治療室よ」


「え」


 隣で明石さんがつぶやく。

 僕は心の中で舌打ちをした。

 僕はなんて無能なんだ。

 これでは、明日の公演が。

 必死に如月先輩が隠していたというのに。


「案内しましょうか?」


 親切なナースさんが僕らに尋ねてくれる。

 ナースさんの言葉に、明石さんはぼーっとしながら答える。


「……大丈夫です。あ、ありがとうございます」


「そう、じゃあ、私行くわね」


 ナースさんが歩き去って行く。


 しばらくの沈黙。

 そしてそのあと、明石さんがきっと顔をゆがめて、僕の方をにらんでくる。


「知ってたから、止めたのね。知ってて、黙ってたのね……」


 明石さんは、そう言うと、僕の近くから足早にいなくなる。

 おそらく、妹さんの集中治療室にむかうのだろう。


 僕は今度は追いかけることが出来なかった。

 明石さんが走っていくのを僕は何もできずに、ただただ見守っていた。

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