第47話 抱擁

 一人静かに泣き続ける彼女に、僕がかけられる言葉はない。

 でも、出来る行動が、一つもないわけじゃない。


 僕はゆっくりと彼女に近づき、彼女の体を抱きしめた。

 彼女が腕の中でびくりと震える。


「どうして?」


 彼女がつぶやく声がする。


「どうして、この話を聞いても、近くにいてくれるの?」


「朱里のことが好きだからだよ」


 言葉が勝手に口から出てくる。

 心からの僕の言葉。


「どうして、そんなに好きでいてくれるの?」


 彼女は好き、の理由を知りたがった。

 でも、残念ながら、好き、の理由なんて言葉にできない。

 好きだから、好き。

 そうとしか、言えない。

 だから、代わりに僕は朱里の好きな部分を彼女の耳元でささやく。


「朱里のたまに見せる無邪気な表情が好き。朱里が舞台に立っている雰囲気が好き。朱里の人を思いやる優しいところが好き。朱里の舞台への真剣さが好き。朱里の美しい青い瞳が好き。朱里の髪が好き。全部全部好き。……愛してる」


 その言葉は、自分でも驚くほどすんなりと口から出てきた。

 腕の中では、朱里が耳まで真っ赤にして、顔を伏せている。


「そんなに、好きでいてくれたんだ」


 朱里はそう言って、今度は僕の目をまっすぐ見つめてくる。


 頭が沸騰しそうなほど、熱くなる。


 その目に、射られて動けなくなる。


「じゃあ、お礼しなきゃね」


 そう言って、彼女は目をゆっくり閉じた。

 彼女の柔らかそうな唇が目に入る。

 キスをしても、いいということか……。



 そんなことをされては、もう、その欲望に抗うことが出来なかった。


 僕は、朱里の唇に自らの唇を重ねる。


 柔らかくて、脳みそがとろけそうな感覚。


 しばらく、そのままの態勢で停止する。


 でも、次第に心の中の欲望に抗えなくなる。


 もっと、奥まで知りたい。


 朱里のすべてを僕のものに。


 僕は、朱里の柔らかい唇を舌で二つにわり、彼女の口内へと侵入する。


 朱里が驚いて、目を開けるのが見えた。


 でも、ごめん、止められないんだ。


 彼女の口の中は、甘い唾液の味がした。


 その味をすべて味わい尽くしたくて、僕は必死に舌を動かす。


 自分の心臓がバクバクとなっているのが聞こえる。


 心が体から飛び出してしまいそうだった。


 その幸福感に、いま死んでもいい、という気さえ起ってくる。


 僕が口内を探っているうちに、彼女も遠慮がちに自らの舌を絡めてくる。


 行為の了承ともとれるその行動に、僕の理性は吹っ飛んでしまう。


 僕は彼女をベッドへと押し倒す。


 彼女は照れながらも、もう驚いた顔はしていない。


 僕の手は、彼女のやわらかな胸へと伸ばされる。


 柔らかい、柔らかすぎて怖くなる……。


 そのふくらみの感触に、頭がただぼーっとしてくる。


 自分の下腹部に熱がこもってくるのを感じる。


 いや、待て。


 それは駄目だ。


 でも、キスするのをやめられるわけもなくて、僕は彼女に覆いかぶさった態勢のまま、彼女の唇をむさぼるように味わう。


「もう、蒼斗、やめて」


 しばらくたったあと、朱里が少し笑いながら、僕の体を押しのける。


 僕の体は、ぼーっとなっていたせいか、簡単に押しのけられ、彼女の隣にごろんと横になった。


「い、嫌だった?」


 彼女の様子に怖くなった僕は尋ねる。


「嫌じゃ、ないけど、空気足りない」


 朱里が笑いながら言う。


「そうか、空気か」


 僕もつぶやくと、自分の体が酸欠を訴えてきているのに気づき、深呼吸をする。


 まだ、頭がぼーっとしていた。


 ただ、下腹部の熱は、少しずつ収まっていった。


 隣では朱里がなんだか、ずっとくすくすと笑っている。


「なに、笑ってるの?」


「ファーストキス、で、ディープキスされると思わなかった」


 朱里の言葉に、僕はさっと青ざめる。


「ごめん」


「いいの」


 朱里はなおも笑い続ける。

 ただ、しばらく笑った後ベッドから起き上がって、僕の頭の上に覆いかぶさる。


「蒼斗、がしたいなら、この先も、して、いいんだよ?」


 真っ赤になって言われるその言葉に、僕は思わず起き上がって彼女のことを抱きしめる。


「そういうのは、結婚してから、な」


 結婚、という事実を決定づけるかのように、僕は彼女と約束する。


「うん」


 彼女は嬉しそうに応えてくれる。


 とても、とても幸せだった。


 この幸せがずっと続けばいいと思った。


 過去になにがあろうとも、今が幸せであればいい。


 これからは二人で乗り越えていけばいい。


「ずっと、一緒だよ」


 僕は抱きしめながら朱里につぶやく。



 早朝の学校、静かに予鈴がなる。


 僕と朱里は、部室を後にし、自分の教室へと向かう。


 二人で手を振りあって別れる。


 少し寂しい、別れの時。



 次に会えるのは、部活の時だ。

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