第41話 逃避

 電車を乗り継ぎ、ついに翡翠の家の前につく。

 頭はまだぼんやりとしたままで、思考はなかなか正常に動いていない。

 ただ、少しだけ心に余裕は出来た。

 ちょっと緊張しながら、翡翠の家のチャイムを押す。ちなみに、彼の家は一軒家だ。


「はーい」


 翡翠の母親の声がして、扉が開く。


「あら、蒼斗君、いらっしゃい」


 翡翠の母親は僕を温かく迎えてくれる。こんな夜中に突然訪ねてきたのに嫌な顔一つしない。


「すみません、おじゃまします」


 僕は彼女に招かれるまま、翡翠宅に入る。


「お、来たか」


 翡翠はやってきた僕を見ると、安心したらしく息を吐きだした。

 かなり心配させてしまったらしい。申し訳ない。


「突然押しかけてごめん」


 迷惑をかけたり頼りっぱなしの僕は必死に彼に謝る。


「気にするなよ」


 僕の言葉に、翡翠は本当に気にしなくていいんだぞ、というように笑いながら答えてくれた。


「蒼斗君、ご飯とお風呂は?」


「済んでます」


 さらには翡翠の母親は、突然来た僕の食事やお風呂のことまで心配してくれる。翡翠の家ははとても暖かくて、優しい。ちょっと、うらやましくなる。


「じゃあ、俺の部屋行こうぜ」 


 翡翠が、僕のスーツケースを運んでくれながら言う。


「あ、うん」


 僕はそう答えて、翡翠の後を追いかけた。

 彼の部屋は二階にあった。ちょっとだけごちゃごちゃとしたその部屋に僕は足を踏み入れる。


「ベッドにでも座っといてくれ」


 翡翠はそう言いながら、僕のスーツケースの車輪を部屋に常備してあるらしい雑巾でふいた。僕に気を聞かせてやってくれているのか、それとも自分の部屋に埃が入るのを許せないのか。

 たぶん、前者だろうな。翡翠は優しい奴だから。


 僕はそう思いながら、ベッドの端に腰かける。

 しばらく無言だったが、翡翠が車輪を拭き終わり、自分の机の前の椅子に腰かけたところで会話が始まる。


「なにがあった?」


 当然の質問だ。

 ただ、僕はどう答えていいか迷う。

 この話、していいのだろうか。


 そしてそもそも、姉のことを話すということは、朱里の二次元病のことまで話さなければいけない気がする。じゃないと、姉が弟に発情する変わった人間として扱われてしまう。


 僕が悩んで口をパクパクさせていると、翡翠は僕の肩に手を置いた。


「落ち着いていいぞ。何話しても笑わないし、軽蔑しないさ」


 翡翠のその言葉で、僕の中の結界が崩れる。

 言葉の奔流。

 洪水のように、すべてを頭に浮かんできた言葉を涙とともに、僕は翡翠にぶちまけた。


 朱里とのデートの一部始終、若葉のことから婚約のことまで、そして自分の中で狂っていく日常に対する恐怖、姉の恐ろしい行動……。


 すべてすべて、翡翠にぶつける。

 翡翠は、僕が言葉を発している間、ずっと押し黙っていた。


 そしてついに、僕の言葉が尽きると、僕の肩を優しくたたいてくれる。


「ずっと、我慢してたんだな。大丈夫だ、俺がついてる」


 その言葉に、そして自分の情けなさに俺の涙は止まらない。



 だが、翡翠の次の行動で、俺の頭は真っ白になった。


 彼は僕の肩から手を離し、立ち上がる。


 そして、携帯を取り出し、誰かに電話をかける。


「もしもし、翡翠です。はい。蒼斗がきました。AKの出番みたいですね」

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