第32話 過去の人

 その声を聴いた途端、全身が恐怖で硬直する。

 昔の記憶が思い出される。

 あの辛く、苦しい記憶が。


 人違いであれ、人違いであれ、人違いであれ……


 そんな祈り届きっこないのはわかっているけれど、祈らずにはいられない。

 だって、彼女は。


 彼女は、僕をいじめていた張本人だ。


「ねえ、聞こえてるんでしょ? 蒼斗ってば」


 朱里に名前を呼ばれた時と異なり、全身に虫唾が走る。

 お前なんかが僕の名前を呼ぶな。

 そう言ってやりたかったが、そんな言葉口からは出てこない。

 出すことは許されていない。


 彼女は僕が反応しないのにしびれを切らして、僕の肩を掴み、無理やり振り向かせた。

 僕が振り向くと、そこには2年前とほとんど変わらない彼女の姿があった。

 昔と同じく、ふてぶてしい偉そうな態度で。

 昔と同じく、何人もの男を後ろに侍らせていた。

 違う点といえば、化粧をしっかりとしている点だろうか。


 僕はその様子を見て、周囲の男たちに少しだけ同情を覚える。

 ……おそらく、彼女は後ろにいるどの男にも本気じゃない。

 適当にもてあそんで、巻き上げられるだけ金を巻き上げたら捨てる。彼女はそういう人だ。


「やっぱり蒼斗じゃない。もう、あたしたちの仲で無視するとかひどいぞ」


 お前とはもう、どんな仲でもない。

 そう言いたかったが、口から出てきたのは昔しつけられた習慣そのままの言葉だった。


「ごめんなさい」


 僕がそう言うと、彼女はにんまりと笑って、今度は僕の顔に手を伸ばしてくる。


「もう、蒼斗は昔から謝ってばかりだったな。可愛い奴め」


 彼女の手が僕の顔の輪郭をなぞる。

 この女に触られているという事実に、吐き気が出そうだった。

 なんでこんなにも違うのだろう。

 朱里に触れられるのは、あんなに幸福なのに。


 僕は反射的に、この女と朱里を比べてしまう。

 

 だって、この人は僕をいじめていた張本人であるとともに、僕が。

 僕が初めて付き合った人でもあるのだ。


「あの、若葉さん。こいつなんなんですか? 知り合いなんですか?」


 はたから見れば仲良さげにべたべたしている僕とこの女の姿にしびれを切らしたのか、後ろにいた男の一人が声を上げる。

 僕は心の中で小さく舌打ちをする。

 そんなことしたら、こいつの機嫌が悪くなってしまうじゃないか。


「あ? お前、何言ってんだよ。ちょっと優しくしてやってるからって調子に乗んなよ」


 僕の心配通り、若葉の機嫌が一瞬で悪くなる。ものすごい形相に、後ろの男たち全員がひるむ。


「ごめんなさい、ごめんなさい……」


 責められている張本人は、必死に頭を床にこすりつけて土下座する。

 僕はその様子に心の中でため息をつく。

 なぜ、彼女の周りではこれが正当化されているのだろうか。

 なぜ、この男たちはそんなに必死になって、彼女に縋りつくのだろうか。

 僕にはまったくもってわからない。


 その理由を求めて、僕の意識は過去の記憶へと飛んだ。


 2年前、僕はこの女に告白されてそれを受けた。

 僕にとって、若葉は初めての彼女だった。

 恋人を持つのは初めてだったが、僕は次第に彼女の異常性に気付くことになる。

 まず、僕とのデートの時にも必ずほかの男を連れてくる。

 そして、僕とのデート代は僕がいくら抗議したところでそいつらに払わせる。

 彼女は、僕がほかの女子と話すことを禁じた。

 彼女は、僕が彼女以外の人間と出掛けることを禁じた。

 友達づきあいを制限した。


 僕はそのころ、彼女の許可を得ないと、何もできなかった。

 食事やトイレでさえ。


 しばらくして、その生活に僕は限界を感じた。


 そして必死の思いで、勇気を振り絞り言ったのだ。


 「別れてほしい」と。


 そこから始まったいじめは壮絶だった。

 精神的に、肉体的に、彼女は僕を苦しめた。


 ある時は自ら行動し、ある時は周囲の男たちを使って。

 僕は彼女の言葉に逆らえなかった。

 なぜなら、付き合っている間に、逆らえないように、”矯正”されていたから。

 僕は彼女から離れることを望んでいながら、それを実現できなかった。


 あの時、僕の味方でいてくれたのは、翡翠だけだった。

 彼だけが正常で、彼女のおかしな力に影響されなかったのだ。

 僕は彼の助けで、壮絶ないじめから脱することについに成功する。

 そう、”僕”を捨てることで、彼女の言葉の強制力から逃げ出したのだ。


 僕はそこまで思い出して、現在へと帰還する。

 何も回答は得られなかった。でも、今の状況を打開するヒントを得ることは出来た。

 僕でいる限り、こいつの強制力には逆らえない。

 じゃあ、前みたいに僕を捨てる?

 そうしたら、こいつの強制力から逃げてこの場を脱することは出来るだろう。

 でも、朱里に求められて僕は”僕”になったのだ。

 それを、裏切ることは出来ない。

 完璧にどつぼにはまってしまっていた。

 もう、どうしようもない。

 好きにされるしかないのか……。


 男の土下座で、店内にはざわめきが広がっている。

 不穏な空気がハンバーガーショップに立ち込めていた。


 そんなどうしようもない状況の僕の所に、救いの天使が舞い降りる。


「どうしたんですか?」


 その穏やかな美しい声が、店内の不穏な空気を一気に振り払った。

 僕が振り向くと、白銀の髪に青い瞳を携えた僕の愛すべき彼女がそこにいた。

 僕は、彼女の中でスイッチが入っていることを感じる。

 演技のスイッチが、完璧に入っている。


 若葉は朱里の姿を見ると、目をぱちくりとさせたが、すぐに調子を取り戻していった。


「あの、すみません。コスプレのおねえさん。これ、身内の問題なんで、スルーしてもらっていいですか?」


 朱里のその姿をコスプレだと勘違いしたらしい若葉は、自信満々にそう言い放った。普段なら、その言葉で誰でも丸め込めるのだろう。だが、若葉の不思議な言葉の強制力も、朱里先輩の特別な演技の力、そして二次元病の前では無力だった。


「あら、蒼斗さんが身内というなら、私も関係あるわ」


 演技モードに入ったせいでいつもと全く雰囲気の違う朱里。

 その、まるでお嬢様のような口調に、若葉が少したじろぐ。


「ど、どんな関係があるっていうんですか?」


 その反論に、朱里は唇に薄く笑みを浮かべた。


「蒼斗さんは、私の婚約者ですもの」


「こん、やく?」


 若葉が口をパクパクさせながらその言葉を繰り返した。


「そう、婚約者です。ねえ、あなた、私より蒼斗さんと関係が深くって? それなら、お話を聞いてあげなくもないですが……」


「あたしは、その……」


 朱里の言葉に若葉が押される。何も言えなくなっている若葉に思わず、僕はいい気味だ、心の中でそう思ってしまう。


「まあ、深い関係ではないお方なのですね。すみませんが、私たちは忙しいのですよ。引き止めないで下さる? さあもう行きましょう、蒼斗さん。ああ、そこのあなた、まだなにかあるならば私の実家の方にご連絡くださいね」


 朱里がそう決め台詞をはき、僕の腕を掴んで歩きだす。

 若葉は朱里の雰囲気に圧倒されてか、止めてくる様子はない。

 僕らはそのままハンバーガーショップを後にしようとした、が、途中で朱里が立ち止まって振り返った。


「ねえ、そこのあなた。今後一切、蒼斗さんに関わらないと誓ってくださる? 私今回のことで気分を害しましたわ。誓ってくれないのでしたら、あなたの身の回りがどうなるか保証できなくってよ」


 微笑みながら放たれる朱里の脅しの言葉に、若葉が首を必死に何度も縦に振った。


「ち、誓います」


「そう、それはよかったわ」


 朱里は優雅に微笑むと、再び僕の腕をとって出口へと向かった。

 目の端で、へなへなと座り込む若葉と、取り巻きたちの様子が見える。

 この上なく、痛快な出来事だった。

 そして、この事態をなんとか切り抜けることが出来たのに、僕は心の底からほっとする。


 僕らはハンバーガーショップを出て、しばらく歩いた。

 そして、小さな公園へとたどり着く。


 僕と朱里はその公園のベンチに、どちらともなく座る。

 もう、朱里の演技のスイッチは切れていた。

 彼女から、不機嫌そうな空気が漂ってくる。


「あの女、誰?」


 僕の方を見ずにそうたずねてきた朱里に、僕は昔の出来事を、彼女と付き合ってたということや、いじめられていたことも含めてすべて包み隠さず話すことになった。

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