第28話 バイト

「ミーティング終わったし、俺バイトだから今日は帰るね」


 如月先輩が自分の鞄を持ちつつ言う。


「あ、お疲れ様です」


 明石さんが慌ててぺこりと頭を下げる。僕らも口々にお疲れさまです、という。


「お疲れー」


 如月先輩が帰ると、少し寂し気な空気が生まれた。なんだろう、あの人には何か場を元気づける力でもあるのだろうか。最上級生の余裕、的な感じか?


「そういえば、如月先輩って結構バイトしてますよね? なんでですか?」


 場を取り繕うためか、明石さんが言う。


「ああ、それね……」


 仲田さんはそう言って口ごもる。その表情は、先ほどよりもさらに暗い。バイトの理由に何かあるのだろうか。


「妹さん、病気」


 口ごもる仲田先輩をよそに朱里先輩がズバリという。


「病気……?」


 明石さんの目が見開かれる。

 もちろん、僕と翡翠もその言葉に驚く。病気でバイトってまさか……。


「妹さん、不治の病。お金たくさんかかる。両親の給料だけじゃ足りないから、柚子もバイトしてる」


 朱里先輩の言葉に、僕はある疑念を抱いてしまう。

 柚子先輩の妹さんが病気になったのってまさか、二次元病のせいなんじゃ……。


「それってもしかして、二次……」


「それは違うよ、蒼斗君」


 僕の言葉の先を読んだ仲田先輩が被せて言ってくる。僕はその否定にほっとした。よかった、朱里先輩は柚子先輩の妹さんの病気とは関係ないんだ。


 ただ、次の瞬間の朱里先輩の言葉に今度はぞっとすることになる。


「柚子は二次元病にすがってるんだ」


 ぽつりとつぶやかれた言葉。

 その言葉で、僕は一瞬で理解できてしまう。

 柚子先輩は、治らない妹の病が朱里先輩の二次元病の影響で治ることに縋っているのだ。だからこそ、バイトや妹さんの看病で忙しい中、演劇部にいることを辞めないのだ……。


「二次元病ってなんなんですか?」


 重くなった空気の中で、明石さんが不思議そうに尋ねる。翡翠も隣でうんうんとうなずいている。そういえば、翡翠は朱里先輩の特別な力のことは知っているが、二次元病という名称は知らなかったはずだ。


「二次元病って言うのは……」


 ここは唯一、一年生の中で知っている僕が説明しようとしゃしゃり出ると、朱里先輩に洋服の裾を掴まれた。そして、耳元でささやかれる。


「私の秘密、そんなべらべら話しちゃダメ」


 朱里先輩の中で、それは秘密だったらしい。

 

 それもそうだ。僕は自分の浅はかさを思い知る。

 普通そんな力を持っていると知れたら、避けられ、迫害されるだろう。ただでさえ、朱里先輩は目立つ風貌をしているのだ。白銀の髪に青い瞳。舞台の世界のなか、演劇部の中だからこそ、その見た目はスルーされているが、普段の学校生活では困ることも多いに違いない。


「二次元病って言うのは、中二病の別名でね……」


 仲田さんが二人に向けてごまかしの言葉を並べているのが聞こえる。 


 僕はそれを聞いているうちに自分の過ちに気付いていく。


 僕は朱里先輩の普段の生活を知らない。


 彼氏であるにも関わらず、何も知らないのだ。


 何も、助けてあげられていない。力になっていない。


「朱里先輩!」


 僕はそのことに焦って、ただ彼女の名前を呼んでしまう。

 僕はなんて馬鹿だったんだろう。

 早く、もっとしらなくては……。


 その思いに突き動かされて、僕は朱里先輩へと手を延ばす。

 抱きしめて、そのすべてを理解したい。

  

 すべてを、味わいつくしたい……


 心の中にある衝動が抑えきれなくなる。

 気づくと僕は、手を伸ばし朱里先輩を部室内のベッドに押し倒していた。


「蒼斗、何やってるんだ!」


 後ろで翡翠が驚いた声をするのが聞こえる。

 ただ、それは僕の頭の中でどうでもいいことに分類される。


 だって、関係あるか?


 僕の中で、大事なのは朱里先輩だ。


 翡翠?


 そんなの重要じゃない。


 大事なのは……


「大事なのは、蒼斗君だよ」


 僕に押し倒された朱里先輩がゆっくりと僕の頬に手を伸ばしながら言う。

 優しく触れられたその手からぬくもりが伝わってくる。


「負けないで、二次元病に」


 その言葉に、僕の目から涙が流れてくる。


 あれ、僕は。


 僕は……?



 なにをしていたんだろう。


 ゆっくりと彼女の体を離す。


 後ろの方から安堵の息が漏れてくるのが、今度ははっきりと聞こえた。



 僕は、その日、二次元病の本当の恐ろしさを知った。


 人の運命だけでなく、心すら操ってしまう、この病の恐ろしさを。

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