第24話 下校

 僕が目覚めると、そこはベッドの上だった。

 天蓋付きの豪華なベッド。

 部室のベッドに運ばれたのだろう。僕はそう推測する。


 目を閉じ、心を落ちつけるために深く息を吸い込む。

 先ほどの舞台は何だったのだろう。


 あの恐ろしさ。

 背筋が寒くなるような感覚。

 自分が消えてしまいそうになる恐怖。


 あれも、舞台の魔法だというのか。


 僕にとって、舞台の魔法はとても素晴らしいもので、僕の人生を変えてくれるようなものだと思っていた。


 だが、僕は感じてしまった、その恐ろしさを。


 ベッドからは朱里先輩の香りがした。

 興奮するというよりは、その香りは今の僕には心地がいい。


「蒼斗、起きたみたいだな。大丈夫か?」


 近くで親友の声がした。

 声の方を向くと、翡翠が椅子に座りながらこちらを見ている。僕が目覚めるまでずっと待っていてくれたらしい。


「大丈夫。待たせてごめん。今、何時?」


 僕は体を起こしながら言う。

 体に不自然なところはなくて、少し安心する。


「6時ちょっと回ったとこだ。体、動くようなら帰ろうぜ」


 翡翠は立ち上がりながらそう言う。


「わかった」


 僕は翡翠にならって立ち上がると、自分の荷物をさがす。


「荷物ぐらい、俺が持つよ。病人さん」


 いつものからかい口調でそう言った翡翠はすでに僕の荷物を持っていた。部室の出口に向かっていく。


「ありがと」


 素直にお礼を言って翡翠を追いかける。

 廊下に出ると、もうすでに外は暗くなっていた。

 まだ、春だもんな。

 そう思いながら、ふと考えたことを翡翠に尋ねる。


「なあ、みんなはどうしたんだ?」


 僕のその問いかけに翡翠はちらりとこちらを向いた後、答えてくれた。


「お前が倒れたあと、当然部活は中止って流れになって、明石さんはそうそうに帰ってった。で、そのあと、如月先輩はバイトがあるっていうんで抜けてって。最後まで柊木先輩と仲田先輩は残ってたけど、最終的には心配で離れたくないって言う柊木先輩を仲田先輩が強引に連れ帰った、かな?」


 朱里先輩が僕のことを心配してくれていたと思うと、心の中にじんわりと暖かいものが広がった。

 好きな人に心配してもらえるなんて、こんな幸せなことはない。


「そっか、待っててくれたんだ……」


 僕が幸福を感じている一方で、隣の翡翠からは沈んだ空気が流れてくる。


 そこからは終始無言で、部室の鍵を閉め、鍵を職員室へと返す。放課後の学校を通り抜け、翡翠の自転車を取りに行く。


「なあ……」


 翡翠が話しかけてきたのは、校門を出たあたりだった。

 

「なに?」


 僕が尋ねると、翡翠は言いにくそうに口ごもった。

 だが、覚悟を決めたらしく小さくうなずくと僕に向けて言った。


「お前、本当にいいのか?」


 尋ねる意味がわからない。

 恋の盲目を使って、そう演じることは可能だ。


 だが、さすがの僕にもわかる。

 今の僕は、普通じゃない。


 人の目が苦手な僕が、あんなに簡単に舞台に立てるはずがない。

 僕の一人称が、そう簡単に”僕”に戻るはずがない。

 それに、舞台の中でのあの恐怖は常軌を逸している。

 それなのに、僕は朱里先輩から怖いとも離れたいとも思っていない。


「いいんだよ」


 でも、今の僕にはそう答えることしかできない。

 恐ろしい出来事より、今の僕にとって朱里先輩の方が大事だ。

 今日の昼間に書いた誓約書を思い出す。

 あんなものなくたって、僕は朱里先輩から離れられっこないのだ。

 あの人のことが好きなのだから。


「そうか」


 僕のその言葉を聞くと、翡翠はそうつぶやいた。

 そして、次の瞬間にはいつもの彼に戻っている。

 真剣な雰囲気を吹き飛ばすように僕のことをからかってくる。


「なあなあ、仲田先輩に聞いたんだけど、部室に二人きりでいたって? なあ、もう、そんな進展しちゃったの? あそこにはベッドもあるし、疑っちゃうな……」


「馬鹿、そこまでいかないよ。でも、まあ、ちょっとは……」


 翡翠の言葉に、僕は少し顔を赤らめながら答える。


「くー、このリア充め。まあ、幸せそうで何よりですわ。で、どっちから進展させたの? やっぱり、向こうから来たとか?」


「僕が、抱きしめた……」


 その言葉に翡翠は豆鉄砲を食らったような表情になる。

 僕はその時、しまった、と心の中で舌打ちをする。

 翡翠の前で、僕という一人称を使うんじゃなかった、と。


「そうかそうか。蒼斗君も積極的になったもんだな」


 しかし翡翠は僕の心配をよそに楽しそうな表情を崩さない。

 こいつは、ほんとに……友達思いで、その上、すごいポーカーフェイスの持ち主だ。


「それにしても、蒼斗が一人称を僕に戻すなんてな。朱里先輩に言われたの?」


 翡翠が顔色を変えずに、そして先ほど同様の軽い調子で尋ねてくる。


「そう」


 僕が答えると、翡翠はにやにやとする。


「そうかそうか、好きな人に言われてねぇ」


 そんな翡翠の様子をよそに、僕は昔のことを思い出していた。


 僕が、”僕”という一人称を捨てたきっかけ。 

 それは、よくある話。

 きらきらからの、汚染。

 つまり、いじめ。

 僕は、”僕”を捨て、”俺”になった。

 翡翠の助けと、”僕”との決別で、僕はいじめを脱した。

 それ以来、僕の中で”僕”はタブーとなっていたのだ。

 いじめが終わって以来、一度も口にしたことがなかった僕という一人称……。


「まあ、お前があの出来事を克服したって証拠でもあるわけだから、良いコトだよな」


 翡翠も、あのいじめを思い出していたらしく、少ししみじみとして言ってくる。


 そこからの道中、二人の間には他愛もない話が続いた。純粋に楽しい時間だ。楽しかった時代の思い出話、テレビや小説の話、ゲームの話……。


「じゃあな」


「ああ、また明日」


 僕の家の前に着き、僕らはそう言って別れた。


 その日、翡翠は遠回りをして、僕を家の前まで見送ってくれたのだった。

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