第8話 舞台

 奥の部屋に入って、真っ先に目に入ったのは小さな舞台だった。

 上方からスポットライトで照らされたその空間は異次元のようで、俺はスーッとその場所へと引き寄せられる。


「舞台には不思議な力がある」


 朱里先輩はそう言いながら舞台へと登る。舞台の雰囲気が変わった。

 ふんわりとした柔らかい空気に、甘い花のような香りが漂ってくる。


「役者は、舞台上でたくさんのことを感じ、コントロールする」


 朱里先輩は白銀の髪を揺らし、舞台上でくるりと回る。


「この部に入るには、君もその力を身に付けなければならない」


 そして俺の方を向いて微笑む。


「君には覚悟がある?」


「か、覚悟…?」


 朱里先輩のその言葉で、口の中がからからに乾く。

 俺は朱里先輩に興味があって、ここに来ただけだ。そんな、演劇をする覚悟なんて持ち合わせては……。


「まあ、いい。そのうち、できる。今はおいで」


 朱里先輩はそう言って舞台の上から俺に手を伸ばした。その唐突な行動に俺は一瞬迷ってからその手を取った。今取らなければ永遠に彼女に届かない気がしたのだ。

 俺が舞台にあがると先輩は一瞬目を閉じる。


「ほら見て、あそこ。三日月だよ」


 目を開けたとともに、先輩は観客席のはるか頭上を指さす。そこにはあるはずのない三日月がぼんやりと見えていた。


 俺は、驚いて目をこする。それでも消えないのを確認すると、慌てて朱里先輩の方を向く。


 どういうことですか、そう口を開こうとするが、彼女の表情を見て、その言葉を飲み込む。


 先輩が美しい青い瞳でこちらを見つめてきていたのだ。まるで、俺に次の一言を喋れとでもいうように。

 その目に、吸い込まれそうになりながら俺はうなずいた。口の中から水分なんてなくなりそうなくらいの緊張。俺はゆっくりと、ただ、しっかりと言葉を発した。


「どうして、三日月を見ているんですか?」


 俺の返しに、先輩は小さく微笑んだ気がした。先輩も次の言葉を紡ぐ。

 そこから、魔法のような言葉のキャッチボールが始まった。


「月に、聞いていたんだ」


「……何を聞いていたんですか?」


「夢の話」


「夢?」


「そう、三日月が見た夢。その形を変えていく月は、どんなことを思っているのかな、って」


「月の形は、本来は変わってないです。だから、どうも思ってないんじゃないですか?」


「知ってる。でもね、人間だって他人から自分がどう見えているのか気にするでしょ。月もおんなじなんだよ」


「他人からの目……」


 その言葉に俺はどきりとする。他人からの視線を気にしているのは今の俺そのものだ。


「月は、たくさんのことを考えているんだ。だから、三日月の見る夢も大きな広がりを持つんだ」


「どのくらい?」


「可能性は無限に」


「たとえば……宇宙よりも広く?」


「人間の可能性だって、無限だよ」


「人生が終わりかけていたとしても?」


「もちろん。……二人で試そう、その可能性を」


 朱里先輩が、俺に手を差し伸べてくる。


「はい」


 俺は、ゆっくりとその手を取った。

 その瞬間、舞台の魔法が切れた。キャッチボールはおわりだ。


 観客席から、二人分の拍手が響いてくる。


「すごいよ、蒼斗。お前、才能あるんじゃないか?」


 翡翠が俺に向けて言ってくるが、その言葉は俺の耳を素通りしていく。

 体が、興奮で熱い。演技とはこんなにも、自分の内面を見つめ、自分を奮い立たせてくれるものなのか。興奮が、体の中を駆け巡って、うまく物事が考えられない。


 ただ、これだけは言わないといけない気がした。


 だから、今、俺はその言葉を口に出す。


「朱里先輩、俺と付き合ってください」


 場の空気が固まった。


「ちょっ、蒼斗何言ってんの!?」


 珍しく翡翠が声を荒げる。仲田さんはというと、なぜかにやにや笑っていた。


 とんでもないことを言っている自覚はある。ただ、今、どうしても言わなきゃいけなかったことなんだ。


 俺はなぜかとても冷静だった。朱里先輩の返事を待つ。

 断られることは、なぜだか想像できなかった。


 朱里先輩はというと、少し嬉しそうな表情をしていた。

 だが、次の瞬間に小さく顔をしかめて、俺に向けて言った。


「私には忌むべき力がある。よく考えてから決めて」


 朱里先輩は俺の目をまっすぐ見つめてそう言ったのだった。

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