第9話 -20YEARS
「うん、いい天気だ」
市役所の通用口から出てきた彰浩が見上げた先には、連なる山なみの向こうから湧きあがったようなうろこ雲が、青くよく澄んだ空に広がっている。
空調管理されている庁舎内に比べて外は思いのほか冷え込んでいた。念のため持ってきていた職員用作業服をワイシャツの上に羽織ると、彰浩は公用車のガレージへと向かった。
市役所から車でおよそ十五分ほどの会場は既に沢山の関係者でごった返していた。元々駐車場として使われていた砂利敷きの空き地にイベント用のテントが建てられていて、その下には来賓の印である紅白のリボンを付けたスーツ姿の市長ほか、教育委員長や市議会議員達がのっそりとパイプ椅子に腰かけている。
そのテントのすぐ隣に設置された臨時の演壇に据えられたマイクにも、やはり紅白のリボンが付けられている。テントの周りには動員された数人の市役所職員が所在なげにうろついている。
「あ、平岡さん、どうもお久しぶりです。中山です。おかげ様で、今年度も業務を受注させていただくことができました」
黒塗りの国産車が並ぶ駐車スペースから出来るだけ離れたところに車を停め、ドアの鍵をロックした彰浩のところへ作業着姿の男が駆け寄って来る。調査系コンサルタントの技術者、中山だ。彰浩は軽く頭を下げた。
「いやあ、いいお天気になりました。天気が良ければこういうイベントは半分成功したようなものですよ」
中山は空を見上げながら、眩しそうに目を細めた。何となくそれに付き合うような格好で、彰浩は中山と並び立った。
「そう言えば確か、平岡さんは四月で異動されたって伺いましたけど」
「ええ、今は上下水道課にいます。今日は特別に許可をもらって来てます。仕事はもう全然畑違いで、とまどうことばかりですよ」
「ええ? 平岡さんは確か環境工学がご専門なのに、もったいない」
相変わらずにこやかな笑顔を絶やさない中山から顔を逸らし、彰浩ははしゃいでいる子どもたちに向けて、目立たないようにへその上辺りから小学生たちを指差した。
「随分沢山来てるんですね」
「小学生ですか? ええ、近くの小学校から四年生を一クラス呼んであります。三十人ちょっとですね。最近は小学生もませてますから、五、六年生だとなかなかこちらの言うことを聞いてくれないことも多くて、それで四年生なんですよ」
中山はベルトの上辺りで手を組みながら、滑舌よく答えた。
「今日は食草の移植だけなんですか?」
「もちろん食草のカンアオイもやります。あと、ギフチョウのサナギも若干見つかっておりますので、そちらの移植も併せて行います。今日はうちの若いのに任せてあるんで、私は補欠みたいなもんですよ」
中山は声を立てずに笑った。
「移植してから先は、何かあるんですか」
「そう! そこなんですよ」
右手の人指し指をぴっと立てるものの、中山はさっと表情を引き締め声のトーンをぐっと落とした。
「本当はこの後移植した場所を定期的に草刈するとか、アフターケアをやった方がいいのは確かです。ただ」
「お金もなければ体制もありませんから」
「いえ、とんでもない。ただまあ例えば今日ご参加いただいてる生徒の皆さんに教育の一環として環境維持作業に取り組んでいただく、というのが一番いいとは思うのですが、やはり」
自嘲ぎみにつぶやいた彰浩のことばを補うように中山は素早く答え、けれども最後の部分を曖昧に濁した。
「例の反対派は多少大人しくはなってるんですか?」
「そのことなんですが」
辺りをうかがうように慌ただしく視線を移しながら、中山は声を落とした。
「こんな保護活動もどきは、環境破壊の隠れみのにしかならないって、さらに批判を強めてるみたいです。まったく、外から言いたい放題で、気楽なものですよ」
「まあ、否定はできないですけどね」
彰浩は苦笑した。
「ほら、あそこ、噂をすればですよ」
中山が視線で示した先にいるのは、本当に通りがかりのおじさんが暇つぶししているようにしか見えない、榎本その人に違いなかった。
「ちょっと、挨拶してきますよ」
「え、やめといた方がいいですよ」
「いえ、これも仕事のうちですから」
後ろに向かって手を振りながら、彰浩は中山と別れた。
「どうも」
軽く頭を下げた彰浩に向かって、榎本もまた軽く頭を下げた。
「平岡君か、久しぶりだね」
榎本は灰色の作業用ズボンにやや色あせた紺色のジャンパー姿で、両手をズボンのポケットに突っこんでいる。イベントがよほど面白くないのか、苦りきった表情を隠そうともしない。
「ご無沙汰しております。今年の四月に上下水道課に異動になりまして」
「ああ、それでか。最近見かけなかったから、てっきり辞めたのかと思っていたよ」
榎本は、伸びたままになっている無精ひげをつまらなそうに引っ張った。
「榎本さんは、今日はどういったご用件で?」
答える前にフンと鼻で笑うと、彰浩をじいっと見据えてから榎本はようやく口を開いた。
「何やらにぎやかなことをやるというからな。今日は見物さ。いやなに、見るだけだよ。何もしやしないさ」
榎本が思わしげに辺りを見回すと、それまで榎本に注視していたのだろう、何人かの職員たちがさっと顔を逸らした。
「大変ですね」
彰浩は、改めて榎本の存在感を思い知らされた。
「大したことはないさ。それより、このイベントを仕掛けたのは君だろう?」
榎本は、コンサルタントによって綺麗に下草を取り除かれた緩い山の斜面を見つめている。
「業務自体の発注と管理は違います。ただ、予算要求と議会説明については私も多少絡んでいます。市議会の審議も無事に通過させてもらえました。ひとえに、課長のおかげですよ」
「そうか、やはりな」
榎本は彰浩を見上げると、にやりと笑いながら体を揺すった。
民放アナウンサーと自己紹介した中年女性に促され、マイクの前に立った市長は咳払いを一つしてから背筋を伸ばした。いちいち言葉を細かく区切った、勿体ぶるような口調で何分か続いた市長の話が終わると、市の教育委員長が続いた。「まだー」とつぶやいた小学生を、スーツを着込んだ男性教諭が慌ててたしなめる。
教育委員長が参列している議員たちを紹介する度に、彼らは代わり番こに立ちあがっては頭を下げた。小学生たちが本格的に焦れ始めたところでようやく教育委員長の話が終わり、セレモニーは移植作業へと進行していく。
「さあ、それではみなさーん、準備はいいですかあ?」
「はーい」
司会の「いかにも子ども用」という問いかけに、子どもらしい勢いのある返事が晴れあがった空に響き渡る。
その後ろ姿を眺めながら、彰浩は榎本へ語りかけた。
「あれから色々悩みました。そして自分なりに一つ結論を出しました」
「その結果がこのイベントというわけかい」
「ええまあ」
榎本の嘲るような言葉に、彰浩は思わずたじろぎながらも肯定してみせた。
「君には期待できると思ったのにねえ」
何と答えていいのか分からず、彰浩はたた曖昧に微笑した。
「君なら分かってるだろうけど、こんなことしても所詮はカムフラージュだよ。それに希少種以外はほとんど見殺しじゃないのかね」
「否定しません」
「お金の無駄だよ。あいつらとおんなじだ」
榎本は子どもたちと一緒に並んでいる市長を顎でしゃくった。 市長の胸に付けられた紅白のリボンが、少し冷たさのある風に揺れている。
「市役所に残ることにしました。市役所で、自分にできることをやります。どこへ行き、どの役に就こうと変わりません。これが、私の結論です」
榎本の煽るような言葉に答える代わりに、はっきりとそう言った。彰浩はそんな自分を少しだけ誇らしく感じていた。
「なあ平岡君」
これ以上言うべきこともなく、立ち去ろうと体の向きを変えようとしたところで、彰浩は背後からの声に振り返った。
「私は次の市長選挙に出馬するつもりだ。そして自分の力でこの町を変えようと思っている」
「そうですか」
彰浩は穏やかな声でそう答えた。
「じゃあ、一連の反対運動も」
「ああ。市長選へ向けた布石の一つさ。現市政に『ノー』を突きつけるだけじゃなく、相当数の市民が市政に不満を抱いていることも肌で感じることができたよ。まあ、見ていたまえ。そして君も、せいぜいやりなさい」
口を歪ませながらそう答えた榎本は、それ以上彰浩に語りかけようとはしなかった。
その間もイベントは着々と進行していた。ギフチョウの食草であるカンアオイの株を受け取った小学生たちが、楽しそうに、真剣に、面倒くさそうに、それぞれの表情を浮かべながら斜面を上がっていく。
「みなさーん、カンアオイを植えてくださーい」
マイクによって増強された司会の声が響き渡ると、予め斜面に掘られた穴に小学生たちが手に持っていたカンアオイの株を埋めていく。それに合わせて、各紙取材陣によって構えられたカメラのフラッシュが薄暗い林内を一斉に照らした。
そのすぐ隣では、移植作業を行う小学生の様子を捉えるべく地面に張り付くような角度からテレビカメラが回されている。
「ちょうちょさんになってね」
落ち葉の裏に張り付いているサナギに向かって、女の子が語りかけていた。
ー20YEARS @naninunenougyou
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