第8話 起き上がりこぶし
朝イチで課長の前に立つと、彰浩は背筋を伸ばした。
「課長、お話があります。よろしいですか」
「おう、いいぞ」
気前のいい声で答えると、島村は読んでいた新聞を机の上に置いた。
「現在行われている市議会の来年度予算審議について、追加していただきたい案件があります」
島村は彰浩に向かって露骨に顔をしかめた。その表情に彰浩は、両手の拳を強く握りこんだ。
「二年目の分際で一体何を言ってるんだ。俺だってこの後は忙しいんだ。手短に話せ」
「ありがとうございます」
彰浩は用意しておいたA4用紙一枚の資料を島村に手渡した。タイトルは、「環境調査に伴って行われるギフチョウとその食草の移植について」とある。
「で、何だこの『移植イベント』っていうのは?」
島村は眼鏡をずり上げると、目を細めながらプリントに視線を送った。
「地元の小学生を呼んで、ギフチョウのサナギとえさとなる食草を移植してもらいます」
「実施するのが十月か。この工程はどうやって決めた」
「はい、ギフチョウは三月中ごろに成虫になって、卵を産みます。幼虫は五月末頃にさなぎになって、そのまま冬を越します。三月中ごろになると再び蝶になって出てきます。また、ある程度の湿気が必要なので、気温の高い夏や樹木の葉が落ちて乾燥する冬の移植は避けるべきです」
「そうなると時期的には十月くらいに移植をやるのがいいということか」
「はい、そうです」
「中身はだいたい分かった。まあ、確かに環境工学科出身者らしい発想ではあるが、これを市議会議員にどう説明する?」
「ニュータウン計画に対するイメージアップです。この催しには市長にもご出席いただきたいと思っています」
「市長?」
島村の目が鋭く光った。
「署名運動の影響で、今や市民はニュータウン計画に対して疑問の目を向け始めています。多額の税金投入と並んで、やはり環境破壊という点が大きいと思います」
「確かにそれはあるな」
島村は眼鏡を戻しながら声のトーンを落とした。
「ですので、市長が市民と一体となって環境保全活動に参加している、というところを見せなければいけません」
「だから移植活動をやる、ということか」
「はい」
島村は手すりの付いたオフィスチェアーに背中を預けると、眼鏡を外して天井を見た。そして眉間を親指と人さし指で挟みこみ、目を強く閉じた。
「それで追加費用が二百万か」
「これについては、他の業務で行ったイベント費用を参考にしています」
「まあ、こんなもんだろうな。ここは詳細には計算できんしな」
金額の多少について、島村は深く追求しようとはしなかった。
「これで市民は納得すると思うか」
「ギフチョウは絶滅危惧種にも指定されている昆虫で、近年急速に数を減らしていると言われています。反対派も、ギフチョウについて注目しています。春の訪れを告げる蝶として毎年ニュースでも取り上げられますし、知名度もかなりあります。道路建設を進める、という前提に立てば、開発事業に対するイメージアップの方法としてベストの選択だと判断しました」
「市議会にはどう説明する?」
「やはりニュータウン計画に伴う環境破壊という批判を避けることが必要です。計画に対するイメージアップにつながるとなれば、推進派の議員方にとっても、利益があるものと考えます」
彰浩はそこまで言うと、島村の回答を待った。
「おい、平岡」
ずり上げていた眼鏡を額から下ろし、島村は彰浩を見据えた。
「はい」
「だいぶ、分かってきたじゃないか」
島村は口の端を上げた。
「よし。じゃあこの線で予算要求資料を作ってくれ。出来るだけ早い方がいい。さっそく今日午後の議会にぶつけるぞ。締め切りは今日の昼までだ。時間はない。今すぐ取りかかれ。いけるか」
「はい、大丈夫です」
「俺もチェックしたいからな、昼までに一度持ってこい。いいか」
「はい!」
彰浩は勢いよく頭を下げた。
「あ、平岡君」
席に戻ったところで、彰浩は岡崎係長に呼び止められた。
「昨日業者から届いた協議簿、すぐ返さないと業務の完了日に間に合わないから部長までの決裁回りやっといて。時間ないから、至急で」
「そんな。今日の昼までに一つ資料を作らないといけないんですよ?」
「は? 何の資料?」
係長は片方の眉毛を上げながらあんぐりと口を開けた。
「いえ、課長と相談したんですけど」
「私はそんな話聞いてないよ」
係長は苛立たしげに声を荒げた。
「今日いきなり言われたってできることとできないことがありますよ」
「そりゃ相談も何もなけりゃそうなるに決まってるよ。何言ってるの」
「そうかもしれませんけど、それじゃ昼までに間に合わないですよ」
「そんなことこっちだって知らないよ。自分だけいいかっこしようなんて、そんなの通るわけないだろ。やるべきことはやってもらうから。分かってるね」
黒紐でくくられた分厚い資料を、係長は彰浩の机に放り投げた。
「だから急ぎなら急ぎって先に言ってくださいよ」
「君は私をバカにしてるのか?」
なおも食い下がる彰浩を怒鳴りつける声が、三課が入っているフロアに響き渡った。周りの席の職員たちは何事もなかったかのように、パソコンに向かっている。幹部会に出席するため、課長は席を外している。
「そういう態度を取るんなら、私にも考えがある。分かったか」
それだけ言って係長は、自分の机におかれたノートパソコンに向き直った。
「何だよあのくそ係長」
彰浩はコピー室の壁を蹴飛ばした。が、鉄筋コンクリート製の頑丈な庁舎の硬さがつま先に跳ね返ってきて、彰浩はその場にうずくまった。
「大丈夫ですか? 平岡さん」
その背中に真由美が声をかけてきた。
「ああ、うん、大したことないよ」
壁に手をつきながら、彰浩は恐る恐るつま先を床に置いた。
「っあー、痛かった」
一瞬前の衝撃をかき消すように彰浩は目を閉じた。
「係長も、あんな言い方しなくてもいいですよね」
「それもそうだけど、確かに係長に話を通してなかった俺にも落ち度はあるよ。係長ばかり責められないよ」
「そうですかぁ? 平岡さんも人が良すぎです。係長って、いろいろ言われてるみたいですよ?」
彰浩は首を傾げた。
「あ、分かんないならいいです」
彰浩は、可愛くほほ笑む真由美に思わず苦笑いを浮かべた。
「こういうことって、何ていうか理屈じゃないっていう気がしません?」
「じゃあ、何なの?」
本気で分からない、という顔を浮かべている彰浩に向かって真由美は一瞬目を大きく見開くと、はにかむように笑った。
「男はプライドで生きてる、みたいな」
「えっとじゃあ、係長が怒ってたのは、プライドが原因てこと?」
「かなって。あ、でも自信ないですよ?」
「んーと、それだけの理由なの?」
彰浩はうんざりという表情で真由美を見た。
「どうだろ。でも係長も表立って言えないから、『そんな話は聞いてない』って言ったんじゃないかなあ」
「真由美ちゃんって」
「何ですか?」
「意外と頭いいんだね」
「意外と、は余分ですぅ」
真由美と彰浩は目を合わせると、耐えきれなくなって互いに吹き出した。
「あ、そうだ、時間ないんですよね。手伝いますから、何でも言ってくださいね」
「ああ、ありがとう」
執務室へと戻った彰浩は、道路建設課の調査業務を受注している調査系コンサルタントに電話をかけた。
「どうも、中山です」
電話に出たのは技術者の中山祐樹だった。
「あの、こちらにいただいている協議簿のことで教えてほしいんですけど」
「分かりました。手元の資料をお出ししますんで、ちょっとお待ちください」
中山ははきはきと答えると、資料を探しているのか受話器の向こうで何やら音を立てている。
「ええっと、あったあった。はい、どうぞ」
「別添資料の十八ページに出てまる調査機材についてなんですけど……」
「やばいよやばいよ」
個室からの帰り道、やっとのことで決裁欄を上司たちの印で埋めた協議簿を片手に、廊下を速足で歩きながら彰浩はつぶやいた。幹部会を終えた幹部たちが戻ってくる頃には、個室の前には長い決裁待ちの行列ができていた。彰浩がやっと決裁を終える頃には、既に十一時を大きく回っていた。彰浩がスタンプラリーのようにずらりと朱印が並ぶ協議簿を見せると、係長は一言「着払いで送っといて」と言うと、パソコンに向き直った。
コンサルタントへの返信を真由美に依頼すると、彰浩はやっと資料作成に取りかかった。残された時間は四十分もない。さらに課長のチェックもいる。彰浩は、すぐにでもぐるぐる回り出してしまいそうになる頭を必死に押さえこみながら、今できることを考えた。
今から新しいことは盛り込めない。だったら、下手に粘るよりは、手元にある資料をそのまま転写してとにかく資料としての体裁を整えることの方が重要と考えた。二十分ほどの時間で議会提出用様式の体裁を整えた彰浩は、インターネットのお気に入りを開き、それも併せて印刷した。そしてプリンターから出てきたA4用紙をホチキスで留め、殆どぶっつけの状態で課長席へと向かった。
「課長、お願いします」
「どうだ、できたか」
彰浩が差し出した資料を受け取ると、島村はかけていた眼鏡を額にずり上げた。島村は、時折目を細めたり、遠ざけたりしながらも、素早く資料に目を通し、次々に書類をめくっていく。
「基本的な方向性は変わってないな?」
島村は書類に向けていた目を彰浩に向けた。
「はい。本来行う環境アセスメント調査に移植イベントを追加する内容です」
「そうだな……、イベントの目的が入っていて当初予定の工程と、イベントを入れた場合の工程で、あと、概算費用比較、と」
さらに島村はページをめくっていく。
「あの、その辺りは参考資料です。ギフチョウの生態とか、既往の移植活動なんかを大学や自治体のホームページから印刷しました」
「ん、ん、ん。なるほど。まあ、この辺は議会説明までに見ておくよ。そうだな」
島村は書類のページを遡る。
「ここと、ここ。フォントをあと一回り、いや、二回り大きくしろ。こんなちんまい文字じゃ、市議会の年配方には読めんぞ」
「あ、すみません」
「ただ、他は」
島村はさらにページを遡っていく。
「いいな。よし、これで行こう。今言ったところを直して、昼の始業までにカラーで二十部刷って俺に渡してくれ。できるな?」
「はい、やります!」
威勢よく答えると、彰浩は島村から資料を受け取った。
「時間がない中でこの出来なら十分だ。よくやった」
「ありがとうございます」
「ああ、平岡」
席に戻ろうと背中を向けた彰浩を島村が呼び止めた。
「まだ、何かありましたか」
「いやいや、そうじゃない」
彰浩が島村の声に頭を上げると、島村は笑いながら手を振った。
「真由美ちゃんが言ってたぞ。平岡がよく頑張ってるってな」
赤面する彰浩に向かって愉快げに笑う島村の口から、白い前歯がのぞいていた。
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