第7話 あの時見た景色は今もまだ

 彰浩は単身者用宿舎の階段を上がり、自分のネームプレートが貼られた部屋の扉を開けると、壁際に付けられた照明スイッチを入れた。四角い木枠に和紙を貼られた照明に付けられた青白い蛍光灯の明かりに、ところどころ地の見えてしまっている繊維壁と、い草のささくれ立っている畳とが浮かび上がる。

 弁当の入ったコンビニ袋をテーブルの上に載せ、彰浩は畳の上に作業服のまま倒れ込んだ。体を捻って仰向けになると、年代物の照明が垂れさがったままの天井が視界に映る。

 彰浩は視線を移した先の本棚に並んでいる教本を開いてみた。大学時代に使っていたものだが、卒業してからも何かと開くことが多くあちこちのページに折り目や付箋が付けられている。けれども、今彰浩が直面している課題について何ら答えを導き出してくれるものではない。 


「分かんねえ」


 彰浩は教本を放り投げると、そのまま目を閉じた。何が正しいのか。何が真実か。正義はあるか。今やらなければいけないことは何なのか。

 疑問を持たなくなった時点で、仕事を回すだけの存在になった時点で自分は終わる。それは既にベルトコンベアを回す機械と同じだった。かと言って、自分は正しいことをしているという思い込みはできないし、したくもない。例え市民のために尽くすというのが前提であっても、それは同じだった。

 では、市民のため、と自分が納得できてなおかつ周囲をもうなずかせる仕事は何なのか。

 

 ──考えろ、考えろ、考えろ。

 

 市民の声を聞こうとしない市の姿勢。これを変えることはできるか。市の一職員、しかも担当という立場で。

 何年か前にやっていた警察物の映画を思い出す。

 その中で、情熱とアイデアを駆使して事件を解決するだけではなく、周囲をも巻き込み、硬直的だった組織を変えていった主人公。その姿に純粋に憧れた。自分も、と思い公僕の道を選んだ。けれども、実際に市役所に入ってみると、目下のところ顔色をうかがうべき相手は組織の上司たちばかりで、その上司たちの顔は市議会に向けられていた。一般住民の出る幕など、どこにもありはしない。

 結局のところ、自分一人であがいたところでどうにもならない。組織は個人の意思を遥かに超えたところに息づく、怪物なのだ。

だとしたら──

 彰浩の頭の中に、今までばらばらであった糸が次第に編み込まれていく。

 市民の声に対する思い、市役所職員としての使命、環境保全。そう言った理念は、取りあえず全部脇へ置いておく。理念でことは進まない。進まない、の一言で片づけてしまうことにも、取りあえず疑問は差し挟まないでおく。

 

 それでは、どうするのか。

 

 彰浩一人に組織は動かせない。そんな力は、まだない。動かせるのは、より多くの人を巻き込む竜巻のようなカリスマか、でなければ権力だけだ。両方とも、彰浩には縁がない。

 であるとすれば、自分一人で何とか出来るところでやりくりするしかない。それは、どこまでなのか。道路建設課の面々が頭をよぎる。彰浩は、一つの予測を抱いた。課内で意見を通すことだったら、辛うじて自分でも行けるのではないか。そこさえクリアできれば、自分の意見を通せるのではないか、と。

 では、課長を納得させ、市の政策に潜り込ませられるのは、どんな内容なのか。


 ──考えろ、考えろ、考えろ。


 課長が終始気にしているのは、市議会の動向だ。であれば、逆に市議会が乗り気になる内容であれば、課長も動くかも知れない。だったら、市議会、その多数派を占めるニュータウン計画推進派にとって、有益な形を取った提案であればいいのだ。仮にそれが、結果的に彼らの不利益を招くものであったとしても。

 

 ──よし、これだ。


 数学の証明問題を解き終え、鉛筆を転がした時のような解放感と快感とがあった。頭の中に立ち込めていた雲が、音もなく消え去っていく。

 結論は出た。あとは、理詰めで叩きだしたそれを納得できるかどうか。市役所へ入る前の自分が今のこの有り様を見たら、どう思うだろうか。それだけが、彰浩の胸に心残りとして引っかかっていた。彰浩は、思いを巡らせながら目を閉じた。当時を振り返り、三年前の時間軸まで遡ってみる。深く、意識の中へと潜っていく。


 次に目を開いた彰浩が体を起こすと夜明け前なのか、空が濃い群青に染まっている。辺りを見回してみると、空と地平との境界だけがまばゆい光を放ち、突き破るように辺りの暗闇を白く照らしている。

 それが果たして夕焼けなのか、朝焼けなのか判断がつかないままただぼんやりと眺めていた彰浩は、起き上がろうとして地面についた手のひらに伝わる感触の違和感に気づいた。何かの間違いかと思って二度三度擦ってみたところで、感触は同じだった。

 伝わってくるのは、冷たく、硬い感触。布団でも、畳でもないその感覚は、今いるこの場所が彰浩の部屋でないことを物語っている。


 ──ここは、どこだ?


 ゆっくりと立ち上がった彰浩は、迷子になった子どものようにきょろきょろと辺りを見回し、自分の目を疑った。立っていたのは、どこでもない、あるはずのないどこかだった。足元には、暗闇の中に殆どその姿を隠している平面らしき地平がどこまでも続いている。

 自分のすぐ隣から感じる気配に思わず振り返ると、いつの間にそこにいたのか、地平線の先に顔を向けて立つ者がいた。安物のジーンズとTシャツに、古着屋で買ったカットソーという大して見栄えのしない格好をしている。その目は遥か地平線の先、辺りの暗闇を白く照らす空との境界を揺らぐことなく見据えている。

 暗がりの中で詳細までは判然としないものの、それは彰浩自身も心当たりのある姿だった。大学時代、さつき市を目指して勉強を始めたばかりの頃に彰浩が着ていた服とよく似ている、というよりも同じだ。


 ──俺がいる。


 彰浩は、まだ学生だった頃の自分を、上から下までまじまじと眺めた。もう一人の彰浩が気づく様子は、ない。

 

 ──今の自分に納得するだろうか。


 彰浩には、自信がなかった。

今よりも生意気で世間知らずで、けれども真っ直ぐで純粋だった自分。その姿を笑うことも、見下すこともできないでいた。


 ──なあ、お前。


 それでも、彰浩は隣にいる自分に向かって問いかける。届くことのない、だからこそ返答などあるはずないもないのに。


 ──今の俺、どう見える?


 当然、反応はない。代わりにその目だけが、地平線の輝きに呼応するようにただただ眩しく輝いている。

 彰浩はその隣に並び立つと、同じように地平線を見つめた。その眩さに彰浩は思わず目を細めた。


 ──そうだ、これだ!


 三年の時を超えて、彰浩の胸に懐かしい感覚が蘇ってくる。さつき市の採用試験を受ける決意をしたばかりの頃に抱いていた、混じりっ気のない思い。憧れ、と言ってもいいかもしれない。果てなく遠いところに見える、自分の理想。その光は、今も色あせることなく、彰浩の目に届き続けている。

 彰浩は自分をほんの僅かに照らしている光によって自分の心が柔らかく温められるのを感じていた。けれども、自分の思い込みなど、世の中にとってはただのがらくたにすぎないこともまた確かだった。彰浩は、もう一人の彰浩に向き直ると、喉元まで出かかっていたことを思い切って口にした。


「俺さ、今自分にできることに集中するよ。ニュータウン計画には納得できないけど、止められないし雑木林も守れない。市民の声を活かすこともできない。俺は思った以上に無力だったよ」


 昔の彰浩は何の反応も見せることなく、ただ地平線を見つめている。きっと、聞こえてはいないし、そもそも、これは自分そのものではない。彰浩は冷静にそう受け止めていた。これは完全な一方通行でしかない。そう思いながらも彰浩は言葉をつないでいく。


「満足はしてないし、正しいとも思ってない。けど今はとにかく自分の最善を尽くそうと思うんだ。結局、役所に入ろうと思ってた頃に比べたら理想の欠片もないよ。だから、せめてそのことだけはお前に話しておきたくってさ。けど、謝ったりはしないからな」


 反応はない。


「じゃあ、俺もう行くからな」


 光とは反対側へ振り向くと、彰浩は何かに頭を軽くぶつけた。いつの間にか現れたそれはふわりふわりと宙に浮いている。見上げたすぐ先にあるものは、彰浩がいつも見慣れているものだった。「平岡」と書かれたネームプレートが貼られている一枚の扉。


「ここから帰ってくれってことか」


 彰浩がステンレス製のドアノブを捻って扉を開くと、その向こうも同じように暗闇が広がっている。彰浩はドアの外枠に手をかけてよじ登ると、扉の枠をくぐり抜けようと言うところでふと振り返ってかつての自分を見た。

そしてその瞬間、彰浩は不意に何か大きな力で体全体を引っ張られるのを感じた。ほんの一瞬前にはすぐ目の前にいたはずの姿が急速に小さくなっていくように感じた。


 ──違う。俺が離れて行ってるんだ。


 何かに吸い込まれるように、彰浩の体は元いた地平から遠ざかり、足元の不確かな宙を彷徨いながら、なおも勢いが衰えないまま消しゴムほどになってしまった扉の向こう、昔の自分が豆粒ほどにしか見えないところまで来ていた。

勢いはとどまることを知らず、彰浩の背中をぐいぐいと引っ張っていく。ここからはもう見ることのできないところを見つめるかつての自分がさらに遠ざかる。遠ざかる。遠ざかる。そして──


 消えた。

 

 昔の自分が見えなくなったところで、彰浩を背中側から吸い上げていた力は突如そのベクトルを変え、彰浩は自分の背中が新たな地平へとへばりつくのを感じた。その衝撃に驚いた彰浩は思わず強く目を閉じた。

 再び目を開いた彰浩は、痛いほどの眩しさに反射的に目を閉じた。そして手をかざしながらおそるおそる目を開くと、杉板張りの天井から吊るされた照明の蛍光灯が青白い光で自分と部屋とを照らしていた。

 照明から目を逸らすと、ちょうど目の前に置かれている目覚まし時計の針が一時を少し過ぎた辺りを指していた。いつの間にか、二時間ほどが経過していた。

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