第3話 アメとムチ

「課長、昨日あれからもう一件苦情の電話がありまして」


「ん、そうか。内容は?」


「ニュータウンと道路を作るお金を福祉に回して欲しいとのことです。計画されてる道路沿道の方みたいで、市政に賛成しかねる。法廷に訴えても構わない、とのことです」


「相手の名前は?」


「西山さんです」


「ああ、あの人か」


 思い当たる節があるらしく、島村は表情を歪ませながら後頭部を掻きむしった。


「以前からニュータウン計画に反対している人だ。先日の説明会で何にも言ってこなかったからいいかと思ってたんだけどな。そうか、またかけてきたか」


「どうしますか」


「いや、平岡にはまだ厳しい相手だ。それに上司から電話して欲しいと言って来てるんだろう?」


「はい」


 彰浩はうなずいた。


「しょうがない、都市計画課長に頼んでくるか。俺も変なことは言えんしな」


 ぼやきながら島村は腰を上げた。


「あの、課長」


「何だ、まだ何かあるのか」


 島村は浮かせかけた腰を再び椅子に下ろした。


「西山さんのおっしゃってたこと、間違ってないと思うんです」


 課長は彰浩の言葉に即答しようとはせず、椅子の背もたれに背中を預けると両手を組み、机の上に開かれたノートパソコンの液晶辺りをじっと見つめた。


「あのな、平岡」


 同じ姿勢のまま、島村は視線だけを彰浩に向けた。


「俺たちは市の職員だ。それ以上でもそれ以下でもないぞ。この町の形を決めるのは市議会議員だ。市民によって選ばれた彼らだからこそできることだ。議員たちの意見を反映するのは、行政として当たり前のことだ。そこを掃きちがえるなよ」


「ですけど、西山さんの意見みたいなのが、市民の『生の声』っていうんじゃないですか? ないがしろにしてしまって、それでいいんですか?」


 島村は強く目を閉じ、眉間に深く皺を寄せた。そして一度大きく息を吸い、時間をかけゆっくりと吐き出した。


「あのな、平岡。西山さんもな、仮にその主張が正しいと胸張って言えるのなら、市議会議員の誰かに訴えて市議会での議案にしてもらえばいい話だし、そうするべきだ。それが、代議員制度というものだ。俺たちに向かって要求するのは、言い方は悪いが筋違いだ。分かったら今言ったようなことは、二度と口にするな」


 最後の一言だけを叩きつけるように吐き捨てた島村の前で、彰浩は全身が総毛だったまま身じろぎ一つ出来ずにマッチ棒のようにその場に立ちつくした。それまでの平穏さとは打って変わって、今まで見たこともないような目つきの島村がそこにいた。ゆらめく不動明王の業火を、彰浩は島村の背中にありありと見た。


「ま、そういうことを考える平岡の気持ちもよく分かる。ただ、思いと仕事とは別だ。早く気持ちを切り替えろ。いいな」


 怒りがまるで嘘だったかのように再び穏やかな笑みを浮かべる島村に、彰浩はただうなずくしかなかった。

 翌日になっても、彰浩は島村のやり方に納得できないでいた。

 道路整備事業に賛同している人たちも、結局のところはお金が目当てなだけではないのか。一度膨らみだした疑念は、止まるところを知らなかった。

彰浩は、地元説明会の時の眼光を鋭く光らせていたあの男を思い出していた。名前が榎本。一級建築士で、建築事務所を構えている。彰浩は、自分の机に置かれている名刺ファイルをめくってみた。


「ないか」


 ファイル自体は、前任者から引き継いだものなので、自分が受け取っていない名刺も含まれている。けれども、その中に榎本の名刺もあるという彰浩の当ては外れた。


「平岡、ちょっといいか」


 彰浩に向かって声をかけたのは島村だった。


「はい、何でしょう」


 彰浩は島村の机の前まで素早く駆け寄った。


「昨日の事業調整会議の議事録を作ってもらいたいんだ。参加者の名前が分からないかも知れんから、確認用にこれを渡しておく」


 島村は自分の名刺ファイルを彰浩に手渡した。受け取った彰浩の手に、名刺がずっしりと詰まったファイルの重みが伝わってくる。その瞬間、彰浩は閃いた。


「昨日の参加者の分は入ってると思うから、参考にしてみてくれ。あと、必要なのがあったらそれもついでにコピー取るなりしておけ。俺は今から経理課に行ってくる。十五分くらいで戻るから、それまでには俺の机の上に返しておいてくれ」


「ありがとうございます」


 彰浩はいつもより長めに頭を下げると、そのままコピー室へ向かった。担当者の名刺交換は実務レベルに止まることも多く、全体については課長など幹部の方が把握していることも場合も少なくない。


「お、あったあった」


 名刺ファイルから関係業者の名刺をコピーさせてもらうついでに彰浩は一枚の名刺を取り出した。そこに書かれている名前は榎本幸雄。この名刺も、他の名刺と一緒にコピー機のクリアボードに並べてスタートボタンを押す。コピーされた紙が出てきたところで、名刺たちを順々にファイルへ収めていく。


「平岡さんっ」


「わっ、真由美ちゃん?」


 彰浩は咄嗟に開いていたファイルを閉じた。

 いつの間にそこにいたのか、事務仕事を担当している非常勤職員の桜井真由美が振り向いた彰浩のすぐ目の前にいた。

 黒目がちな大きい瞳が、くりくりと彰浩の視線を捉えている。下からのぞき込むような真由美の視線に、彰浩は思わずどぎまぎしてしまう。厚みのあるアヒル口には艶のあるリップが塗られていて、下唇が濡れたように光っている。

 ピンクが好みらしく、上から下までピンク基調で、フリル付きのハーフスリーブに、膝上十センチくらいのミニスカートを穿いている。かかとが五センチは裕にあるだろうピンク色のハイヒールからは、淡いピンク色に塗られた爪がのぞいている。


「平岡さん、おつかれさまです」


「いや、大したことはしてないから」


「あれ、コピーですかぁ?」


 真由美は、体を彰浩とコピー機の間に割り込ませるようにしてのぞき込んでくる。真由美の髪からふわり漂ういい匂いが彰浩の鼻腔をさりげなくくすぐる。


「それくらい、言っていただければ私やりますよ?」


「ああ、うん。ありがとう。とりあえず今はいいよ」


 彰浩はコピー機から出ていた用紙を素早く折り畳んだ。


「そうですか? またいつでも言ってくださいね」


 軽く首を傾げながらそう言うと、真由美は花のような笑顔を無機質なコピー室一杯に咲かせた。思わず緩んだ頬を引き締めると、彰浩は執務室へと戻っていった。

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