第2話 市民の声

 道路建設課の電話が鳴り響いた。二コール目が鳴ったところで、彰浩が受話器を取った。


「はい、さつき市道路建設課第一建設係平岡です」


「あのな、ちょっとええか」


「はい、何でしょうか」 


 年齢は六十代だろうか、受話器の向こうから聞こえてくる少ししわがれた野太い声に、彰浩は素早くメモ用紙を手前に引き出し受話器を肩と顎とで支えると、胸ポケットからボールペンを取り出した。名乗らないのはほぼ確実に市民からの質問か苦情である。各公共団体や関係会社であれば、自ら名乗りを上げるのが通例だからだ。

 相手から放たれた第一声の、どこか有無を言わせないような押しの強さを感じとった彰浩は、後者を予想しながら次の言葉を待った。


「お宅んとこが進めとるあれ、何て言うたやろな、ほれ、住宅地作りますやろ。あれ、何であんなことしまんの?」


「あれ、とおっしゃいますのは、さつき市が進めておりますニュータウン計画のことでよろしいでしょうか?」


「おう、そう、それや」


「かしこまりました。大変申し訳ないのですが、ニュータウン計画については、都市計画課の担当になっておりますので、担当の者におつなぎします。少々お待ちください」


 電話を回すのは何も詳しい話が分からないだけではない。縦割りの激しい役所の中でその敷居を跨ぐようなことをするのは、御法度である。上手く相手をなだめられればともかく、下手をすれば二重に責めを受けることにもなりかねない。彰浩は電話で答える傍ら、クリアカバーに入った内線番号票を取り出すと、保留ボタンに向けて手を伸ばした。


「何でや」

 

 ──やばい。


「ええと、いかがされましたか?」


 何でもないように聞く素振りを見せながら、彰浩は延ばしていた手を宙で止めた。地雷を踏んでしまった。そう直感した。


「あんたが電話に出たんやろ。あんたが説明してくれればそれでええやないか」


「あ、いえ、そう言うわけには」


 急に語気を強める相手に、思わず彰浩は両手で電話を掴んだ。


「何を言うとるんや。あんたも役所におんのやろ、わてらの税金で生きとんのやろ。それくらい知らんといてどないするんや」


「申し訳ございません」


 確かに他の職員に振ろうとしたのは確かだが、ここまで感情を害する理由が見つからなかった。


「あんたらはいつもそうやってたらい回しにして知らん分からんばっかりや。あんた、市民をバカにしとるんか」


「いえ、そう言うわけでは」


 前任で担当していた、というわけでもない限り、他課の事業までは十分に手が回らないのが実情だ。かと言って「市の職員」であることを責められては「知らない」とも言えない。彰浩は机の引き出しを慌ただしく開くと、市が作製したニュータウン計画のパンフレットを取り出した。


 けれども、男は彰浩が質問に答えようとする度に牽制を繰り返し、肝心の質問というよりも市役所そのものへの不満を十数分に渡って一方的に吐き出し続けた。


「ところであんた、今いくつや」


「へ?」


 予想の斜め上を行く問いかけに、聴くことに集中していた彰浩は思わず間抜けな声を上げていた。


「歳や歳。あんたの歳を聞いとんのや」


「二十三です」


「さよか。二十三か」


 男の声には、感慨深げな響きがあった。どこへ話が向かうのか見当もつかないまま、彰浩は完全にペースを掴まれていた。


「わいのせがれがな、今年で二十七になるんや。せやから、あんたとは、四つ違いやな」


「そうですね」


 とりあえず同意する一方で、訳が分からなかった。


「でな、そのせがれに嫁がおるんや。顔はまあ、普通やな」


 何と言っていいのか分からず、彰浩は男の次の言葉を待った。


「あんた、結婚はしとんのか」


「いえ、まだですけど」


「さよか。まあ、相手はよう選んでから決めることやな」


 急速に体から力が抜けて行くのを感じながら、彰浩は机の上に置いたままになっているパンフレットを見つめた。ニュータウン計画について説明するはずだった彰浩は、いつの間にか男の話を一方的に聞かされる立場になっていた。話の中身は何故か同居している長男の嫁にまつわる愚痴話へと移り、もはや質問はおろか、苦情ですらなくなっていた。


「苦情電話か。苦情記録様式があっただろ、あれに状況を記入して回覧様式で各関係課に回しといてくれ」


 電話を終えた彰浩の報告を受けた島村は、読んでいる資料から目を離さないまま簡潔に答えた。


「またかかってきそうな雰囲気だったんですけど」


 電話の切り際、やたら上機嫌だった男の声を、彰浩は思い出していた。


「名前名乗らなかったんだろ? なら、大したことないぞ。それに苦情入れてくる連中ってのは、そんなもんだ。何やっても気にいらないって言う人間はいるからな。あとはまあ、ヒマなんだろう」


「今度またかかってきた時はどうすれば」


「何も要求されなかったんだろう?」


「はい。特に何も」


「なら、また同じように対応しておけばいい」


 島村ははっと資料から目を離すと、左手首に鈍い光沢を放っているロレックスを見た。


「おっと、いかん。そろそろ議会審議が始まるな。じゃあ、後はやっといてくれ」

 

 彰浩の肩を軽く叩くと、島村は椅子にかけられていた上着を羽織りながら速足で執務室を出て行った。ようやくできた苦情記録を回覧に回したところで机に置かれた携帯をみると、電話がかかってきてから既に二時間が過ぎていた。

 コーヒーメーカーからコーヒーをマイカップに注ぎ、やれやれと椅子に腰を下ろしたところで再び電話が鳴った。


「はい。さつき市道路建設課平岡です」


 気を取り直して彰浩は威勢よく声を出した。


「そちらはさつき市のニュータウン計画のところでよろしかったかしら」


 ──またか。


 彰浩は額を片手で押さえながら、心の中で一言、そうぼやいた。


「申し訳ありません。ニュータウン自体の計画については、都市計画課で対応させていただきます」


「あらそう? じゃああなたまだ若そうだし、勉強ついでに聞いてちょうだい」


 四十代の女性だろうか、言葉は丁寧ながら、容易に話が終わりそうにないことを彰浩は覚悟した。


「私ね、さつき市が計画してる住宅地近くに住んでる西山と言います。住宅地の建設を進めるためには、すごい金額の税金が必要になりますよね」


「ええ、そうですね」


「いくらかかるかご存知?」


「はい、全体で合わせるとおよそ三十五億円です」


 まだ机の前に出たままだったパンフレットが役に立った。


「そうよね。それで、あなたはこの金額についてどう思われますか?」


 さらに厄介なのが来た。彰浩は目を瞑りながらそう思った。


「安くは、ないと思います」


「はい、高いですね。とても高いです」


 西山の声は決して大きくはなかった。が、その半面有無を言わさない強さがこめられていた。そのため、先ほどの男よりもなお手強さを感じさせた。


「このお金を、どうやって工面しているか、ご存知ですか?」


「市から発行しております債券です」


「そうですね、借金です」


 西山は「借金」だけ語気を強めた。 


 行政的婉曲表現をわざわざ直接的な言葉に言いかえる辺り、若干の苛立ちがないわけではない。が、それよりもこの人は一体どれだけの知識を裏に抱えて電話をかけてきているのか。彰浩は、顔の見えない相手に、底の知れない怖さを感じずにはいられなかった。


「さつき市はものすごい額のお金をかけてニュータウン、いいえ住宅地を作ろうとしています。でも、他にお金をかけないといけないことは、沢山あるんです。あなた、建設事業よりもお金のかかっていることが何か、ご存知ですか?」


「えっと、福祉事業でしょうか?」


「はい、正解です」


 いちいち気に障る言い方だったが、もちろんそれを悟られるわけにはいかない。


「福祉っていうのはすごくお金がかかるんです。確かに毎年毎年お金がかかって、それで何かが形になるわけじゃありません。そういう面では、道路や橋を作った方が見た目にも分かりやすいですね」


「それはそうかも知れませんね」


 目に見えて、なおかつ多くの人が利用する物は、誰にとってもその成果が分かりやすい。逆もまた然りだ。


「ですが、目に見えにくくて分かりにくいからお金をかけなくてもいい、ということにはならないんです。なってはいけないんです。それは、お分かりになりますね?」


「ええ、分かります」


 一言一言に魂を込めるように話す西山の言葉に、彰浩は素直に同意した。


「私ね、ボランティアで目の不自由な方のために、本を音読して録音する活動をしてるんです。他にも、子どもに絵本を読んで聞かせてあげたりしてるんです」


「そうなんですか」


 そんな活動があるのか、と彰浩は新しい世界を垣間見た気がした。アスファルトと鉄筋とに囲まれた今の職場では知り得ることのない、柔らかで温かい何かなのだろう。彰浩は、そう感じた。


「私はボランティアでそういう活動をしているんです。音読するのにも訓練がいります。紹介したい絵本だって沢山あります。知られてないだけなんです。それだってね、住宅地に使われる税金のほんの一部でも回していただければ、そうですね、年間当たり十万円も出していただければホントに助かるんです。ボランティア育成の講習会だって出来るし、絵本も沢山買えるんです。そういう活動への補助を何とか市からやっていただけませんかって、私はいつもそう思ってますし、市の方にもこうして度々お願いしてるんです」


「そうですか」


 相手の思惑を受け流しつつ、自分の言葉が沈んでいるのを、またそれが半ば演技じみているのを、彰浩は自覚していた。せめてそれくらいしないと自分が耐えられないのと同時に、そんな自分の欺瞞をも感じていた。


「いいですか。今言ったことは、本当はあなたに言っても仕方がないんです。ですからちゃんと、あなたの上司にちゃんと、伝えてください。そして、回答をくださるように言ってちょうだい。このままじゃあ私、今の市の政策には到底納得できません。必要なら、法廷でもどこでも出るつもりです。お待ちしてますから。よろしくお願いしますね」


 西山は最後に自宅の電話番号を伝え、電話を切った。


 彰浩は、受話器を戻すと、椅子の背もたれに思い切り上半身を預けた。スプリングを軋ませながら、椅子が後ろに倒れ込む。

 立場上、例え相手の意見に同調できたとしても、組織への疑問を表すわけにはいかなかった。末端であろうとも、市役所職員としての自分がここにいる。それを放棄して相手に同意することは、無責任な行動以外の何物でもなかった。

けれどもその一方で、正反対の思いを抱えていた。これこそ、本物の市民の声じゃないのか。そういうものをすくい上げ、実現していくのが、行政の仕事ではないのか、と。

 彰浩は、首から下げている顔写真入りのネームプレートを手に取って眺めてみた。市役所採用当時の少しはみかみながら笑っている彰浩が、それから一年半経った現実の彰浩と向かい合う。彰浩は、何故自分が市役所職員のネームプレートを下げているのか、分からなかった。

 何とか気を取り直して椅子から起き上がると、彰浩は机の上に書き散らされた数枚のメモ用紙を時系列順に並べ直した。苦情の組織内共有化は、さつき市役所においても近年では重要な取り組みとなっており、報告書作成は優先事項の一つとなっている。

 今日二度目の報告書を印刷して立ち上がると、既に窓の外は茜色に染められていた。目を奪われていた彰浩がプリンターの前で立ち尽くしているところに、市役所の防災用スピーカーから「遠き山に日は落ちて」のメロディーがゆったりと流れてきて、忙しなく職員たちが動き続ける執務室内にどうしようもなく白々しく響いた。

結局、午後にやろうとしていたことには殆ど手を付けられないまま、彰浩は定時を迎えていた。今日は遅くなる。そう覚悟した彰浩は席に戻ると一番上の引き出しを開け、黄色い箱に入ったバランス栄養食を取り出した。

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