第4話 毒蛇
結局、夜遅くまでの残業が続いた結果彰浩が榎本に連絡することができたのは、休日の土曜日になってからだった。
榎本が話し合いの場に選んだ喫茶店の中は、意外なほど多くの客で賑わっていた。ログハウス調の店内に入り、週刊誌や新聞がコンビニ並にずらりと並んだコーナーを抜けて客席を眺めると、店内にいた一人の男がソファに座ったまま手を挙げた。
「あの、平岡です。榎本さんですね?」
「ええ、榎本です。初めまして」
彰浩が差し出した右手を、榎本は軽く握り返した。説明会とは別人のように屈託のない笑みに戸惑いながらも、彰浩は榎本の正面に腰を下ろした。ジーパンにスポーツブランドのトレーナーという格好の榎本の前には、飲み掛けのコーヒーと開いたままの週刊情報誌が並んでいる。
部屋の角に据えられたスピーカーからは有線の情報番組が流れていて、地元では有名な名物DJがややおどけた口調でリスナーから送られてきたはがきを読み上げている。まるで付けられる場所を間違えられたかのように店の雰囲気とは不釣り合いなアンティーク調の天井扇が、そんな店内の淀んだ空気を健気にかき交ぜている。
席についてからも、彰浩は何となく落ち着かない気分で辺りを見回していた。隣の席に目をやると、中年女性二人が何やら話に夢中になっている。お互いに身を寄せて話合っていて、彰浩に見られていることにも気づく様子は微塵もない。
店内奥側のコーナーに目を向けると子連れの若い母親たちが陣取っており、やはり話に花を咲かせている。さらに見回してみても、休日の午後にも関わらず若い男女の組み合わせは皆無だった。
「店内が気になりますか」
そんな彰浩の気持ちを察してか、榎本は彰浩に向かって声をかけた。
「何と言いますか、喫茶店とお聞きしていたので、もうちょっと違う雰囲気を予想していました」
彰浩のその言葉に、榎本は愉快そうに表情を崩した。
「しかしね、これくらい騒がしい方が、却ってやりやすいんですよ」
「そうかもしれませんね」
彰浩の目には、特に見栄えがするでもない中年男とやはり見栄えのしない自分との組み合わせに興味を抱く者がいるようには見えなかった。あえてこの場を選んだのも、榎本なりの気遣いなのだろうと、彰浩は考えを改めていた。
間もなく水とおしぼりとを持ってやって来たウエイトレスに、彰浩は榎本に倣いコーヒーを注文した。
「お忙しいところを申し訳ありません」
「いやいや、日曜日だしね、仕事も休みだよ」
改めて頭を下げる彰浩を、榎本は軽く手で制した。
「榎本さんは確か設計事務所で仕事をされているんですよね」
「ああ、事務所は親父の代からでね。私で二代目なんだよ」
「そうなんですか。じゃあ、もう長いんですね」
「そうだなあ、もうかれこれ四十年くらいになるのかなあ」
榎本は、何かを思い出すように天井を見上げた。
「そんなになるんですか! えっと、その間ずっとさつき市にいらしてたんですか?」
「いや、最初の十年くらいは借り暮らしさ。けれども段々そこが手狭になってきてね。仕事が軌道に乗ったこともあって、思い切って今の土地に移ってきたんだ」
「それでも三十年じゃないですか。私の人生よりも長いです」
「今、いくつだね?」
「二十三です。あと二ケ月で、二十四になります」
「そうか。なに、三十年なんてあっという間だよ。人の一生も同じだ。気づけば私も五十を過ぎた」
榎本はコーヒーを一口啜りカップをゆっくりと下ろすと、テーブルの上に両手を組み、穏やかな表情で天井を見上げた。
「それで、今日はどのような用件で?」
「私は、今のさつき市のやり方が納得できないんです」
「ほお。それは興味がありますな」
榎本はテーブルの上にずいっと身を乗り出した。
「最近、よく苦情の電話がかかってくるんです。ひょっとしたら榎本さんのお知り合いかも知れませんが」
「その可能性は十分にありますな」
榎本は柔らかな笑みを浮かべている。
「ただの愚痴話みたいな人もいるんですけど、勉強して知識を身に付けた上で論理的に話を展開する方も中にはいるんです」
「いるでしょうなあ」
榎本は表情を感慨深げな表情を浮かべながらおしおぼりで指先を拭いた。
「そういう人たちの声こそ、本物の市民の意見だと思うんです」
「私も、そう思うよ」
榎本は何度かうなずいた。
「けど、実際にはそういう電話って、相手にされないんです」
「残念ながらね」
榎本はコーヒーを一口すすると、カップの中に揺れる褐色の水面に視線を落とした。
「市役所にかかってくるその手の電話は苦情と一緒にされて回覧されて、終わりです。課長たちから返事があればいい方です。何故かと言ったら、それよりも絶対的に優先されることがあるからです」
榎本は、口を挟もうとはせずに、ただ黙って彰浩の言葉に耳を傾けている。
「それが、市議会です」
彰浩はそこで言葉を切り、榎本の反応をうかがった。が、榎本はすぐには答えようとはせずに、腕を組んだまま目を瞑っている。
彰浩はコーヒーに付いてきたピーナッツを一つ手に取り、口に入れた。程よい歯ごたえの実を噛み砕くと、表面にまぶされた塩の辛さと皮の苦みとが口の中いっぱいに広がる。
「君の思っていることは間違いではない。少なくとも、私は、そう考えているよ」
「え、それじゃあ……」
「ただし、行政とはそういうものだ」
榎本は彰浩の言葉を途中で遮った。
「だがね」
その上で、榎本はさらに続けた。
「君の違和感が公の組織においてただの異分子として無視されたり、潰されるようであっていいはずがない。それ位は、少なくとも信じていいのではないかな」
「あの、ありがとうございます」
彰浩が頭を下げると榎本はいやいや、と言いながら表情を崩し、すぐにまた顔を真顔に戻した。
「我々もね、このままで済ますつもりはないよ」
「どういうことですか?」
「まあしばらく見ていたまえ」
榎本は口の端で笑うだけで、彰浩の問いに答えようとはしなかった。
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