第3話
5月某日。出勤日さいごの業務が、閉店とともに終了した。
店に残っていた学生客を送りだし、ホールからBGMが消えたとたん、バイト生たちがわっと恭弥を取り囲みいっせいに別れを惜しんだ。
この店に務めて10年。ただがむしゃらに働く毎日だったが、人材に恵まれた良い店だったと思う。
マネージャー業に就任してからはオーナーの売り上げ催促に頭を悩ますこともあったけれど。こうして慕ってくれる彼らを見ると、過酷な業務のなかでも若い芽を大切に育ててきてよかったな、なんて。恭弥は柄にもなく口元をほころばせた。
「マネージャー。『あいなんちょう』ってどこにあるんっすか」
バイト生一お調子者の高槻が、バイト仲間に埋もれつつわれさきにと恭弥にたずねる。
転居先をおしえろとあまりに皆がしつこいので、少しだけ情報をもらしてしまった。
「俺もよく分からないんだけど、鹿島のとなりかな」
高槻はさっと眉をけわしくさせた。
「……え、かしま? ねえかしまってなに? 聞いたことないよそんな島」
「馬鹿ね。あんた愛南町も知らないの? かしまは『鹿島』。観光で有名な場所じゃない」
みかねたバイトリーダーのアリサが口を挟んできた。空中で鹿・島、と漢字の綴りをたどってみせる。
「し、か、し、ま……」
「だーから鹿島だって言ってるじゃない! しかしまじゃなくてかしま!」
高槻は泣きそうな面持ちでうっと黙りこむ。
「そんな島知らないだもんおれ」
「あら、千と千尋で有名になった所じゃない。あの、ほら、猫がいっぱいいる所よ、たしか」
「千と千尋? まじ? 千と千尋に猫なんか出てきたっけ?」
「そうじゃなくて……えーと。マネージャー、住所どこでしたっけ」
「ごめん、じつはまだ転居先も決まってなくて。俺もよく分からないんだ」
恭弥が申し訳なさそうに答えると、彼らは「えっ」と目を丸くさせた。
「えーと。じゃあ、しばらくは東京(こっち)にいらっしゃるんですか?」
「いや、このまま夜行バスで直行するつもり」
「え……、住む場所も見つかってないのに……ですか?」
「まあ、そうなるね」
それまで三人の会話を見守っていた周囲のバイト生たちも、たちまち訝しげに顔をくもらせる。
時間がなかったといえ、住居もあらたな就職先も見つからぬまま、見知らぬ土地に移住しようなんて。われながら突拍がないとは思う。が、そうせかしたくなる程、恭弥の精神は追い詰められていた。一分でも一秒でもはやくあの家を出ていきたかったのだから、仕方ない。
「マネージャー、大丈夫っすかそれ?」
「……はは。どうなるだろうね」
「って無計画かよ! ねえ俺んち泊まります? 俺んちきます?」
一週間くらいならぜんぜん大丈夫っすよ、と高槻は妙にはりきって力説している。
「大丈夫。貯金もまだ少し残ってるしなんとかなるって。お前らも頑張れよ。夜のグリルはまかせたよ高槻」
フレンドリーというか、都会育ちにしては人懐っこい高槻の性格は相変わらずだ。最後までかわらないアットホームな雰囲気に名残惜しさを抱きつつ、恭弥はありがとうとくしゃりと笑い、店をあとにした。
帰りのその足で最寄りの駅に向かう。
改札をぬけ、いつもと反対方向の西口ゲートから列車に乗った。
四谷、品濃町、千駄ヶ谷……。
線路脇に立ちならぶ建物のあかりが、前から後ろへ消えていく。
なれない景色のはずなのに、どこか懐かしい。
闇にスポットライトを照らした風景は、見ているだけで孤独を感じさせるのはなぜだろう。
こうして流れる風景を見ていると、いつしかの、電車内で背後から陽平に抱きしめられたことを思い出してしまう。
あの頃も、自分は陽平の恋人にふさわしくないと葛藤ばかりしていた。
「好きだよ」という陽平の言葉も、心のどこかで疑っていた。そしていつも言い訳のようにこう考えていた。『陽平くんの恋人にふさわしいのは愛美だ。だから俺は、身を引いたほうがいい』と。実際にそれが現実となって、恭弥はようやく、諦める苦しみを味わっている。
(馬鹿だな、本当に……)
どうでもいいことを考えるうち、列車は代々木駅を出発していた。
『つぎは、新宿、新宿。降り口は左側です。中央線、埼京線、湘南新宿ライン……』
案内アナウンスが英語に切り替わってまもなく、列車は人でごったがえしたホームへ到着する。
背中を押され、人をかき分け、川魚の群れのように黒い波の一部となり、出口ゲートへ流れこむ。
西口改札をぬけると、白色灯のまぶしい通路をひたすら歩いた。
途中、いくつか売店をすぎ、突きあたりを左に曲がる。通りすがり、巨大電子公告のバックライトのまぶしさに恭弥は眉をしかめた。
イベントコーナーでは東京皮革フェアーの看板。閉店まぎわ、ほとんどの客が素通りするなか、ぽつんとたたずむ店員がひとり熱心に呼びこみをしている。恭弥も足をとめずに直進する。
小田急エース南館へ入るときらびやかさがました。こちらはがぜんにぎわっており、仕事帰りのサラリーマンがちりじりに飲食店へ吸いこまれている。
寿司屋、ロッテリア、コーヒーショップ、ファミリーマート……。
隣接する店舗を横目に腹の虫がきゅりと鳴いたが、先をいそいでひたすら歩いた。
『KEIO MALL』手前の通路を右へ、地上をめざして階段をのぼる。リュックの重みが、ズジンと増した気がした。視線のさきに、しばらくぶりの夜の闇がさしこんでいる。
「あれ……?」
ようやく見えてきた『ヨドバシカメラ西口本店』の風景を目の当たりに、恭弥の足取りはぴたりと止まった。
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