肉じゃが 木村千沙
さてそろそろ肉じゃがを登場させようと思う。一説によると肉じゃがは東郷平八郎がイギリスに留学していた時食べたビーフシチューを日本に戻ってから食べたくなり料理長に「作ってくれ」と無茶ぶりした結果できたものである。
東郷は「黒いスープに肉が入っている」みたいなアバウトな答えを出してきた。
頼まれた料理長はたまったものではない。とりあえず、黒いスープは「醤油」だろう、と想像して肉じゃがの原型ができた。
頼んだ東郷はそれをどう思ったのかは知る術がない。
木村千沙は母の詩織から料理の手ほどきを受けるようになった。
「ほんとに半年前は包丁使う時はドキドキしたわ」というくらいの料理とは無縁だった女性が母に「弟子入り」したのは充と付き合い始めたからだ。
「充さんっていっつもおいしいお店に連れてってくれるの。だから女の人にはおいしい料理を作ってほしいと思うのよ」これが千沙の主張である。
充は意外とマメで、千沙とは週一でデートをしていた。ラインやメールもすぐに返信がくる。しかし充も「宮仕え」の身だから「ごめん。今会議中でトイレって言って抜け出してきた」なんてメールがくる。
でもそこが「誠実」な人物だと千沙は思っている。
プレゼントはまだくれなかったが、それはイベントが特にないためだった。
喋っていても面白いし、子供や老人に対してもやさしい。
それが千沙を意識して行っているという訳ではないというのは充の自然な接し方をみてわかった。
「私も充さんみたいな人になりたい」という思いも浮かんでいた。
尊敬と愛情というものは似ているものらしい。
そこで千沙は料理の手ほどきを母に託した。
仲介してくれた田村さんを通して充の人柄を知っていて、母の詩織も充に好感をもっていた。
「そうだ。うちのかあちゃん、、、、母から千沙さんのお母さんに渡してもらいたいものがあるっていってたな」
先週充は千沙にそう言った。
「なんだか、母が京都に行った時のお土産らしい。」
「そうなの?」
「いろいろ買ってきたんで来週車で千沙さんのお宅までもっていくよ。おかあさんにもごあいさつしたいし。。。」
「じゃあ、お礼に夕食を作るわ」
「え。手作り??うれしいな」
なんて会話が出た。千沙の半年に及ぶ「修行」の成果が試されるチャンスが来たのである。
「やっぱり肉じゃがか・・・・」と千沙はつぶやいた。
男の胃袋は肉じゃがでつかめ、というのはもう「使われない言葉」かとおもったが、今でも「都市伝説」並みに生き残っているらしい。
千沙は母子家庭である。千沙の母詩織は千沙を産んですぐ夫を事故で亡くした。
夫の残した工場と千沙の子育て、この両立をしないといけなかった。
幸い千沙の祖父母はいまだ現役で工場を経営しており、経営を祖父から、子育てを祖母から教わって詩織は母となり経営者となった。
祖父母は引退して詩織が経営者として工場を盛り立てている。
働く母の背中を工場で見ながら千沙は育った。
工場が遊び場であり、従業員が先生だった。
千沙の母の工場には「大番頭さん」という地位がある。
大番頭さんは社長より偉い。時に技術面で、時に経営面で助言をしてくれる。
千沙の祖父母が引退したのも大番頭さんが「奥さんはもう立派な経営者ですよ」という一言があったためである。
大番頭さんは名前を高杉さんといった。70代だが背筋がピーンと張っていて年齢を感じさせない。技術もすごいが経営能力もすごく、母は困ったら「高杉さんに相談」する。未だに「木村金属に高杉あり」といわれ、銀行員でも「高杉」と聞くと背筋から冷たいものが流れる。
高杉には娘が3人いて3人共結婚して孫も全員女の子だ。
高杉は「若い者に譲る」といって退職しようとしたが社員、社長そして会長(祖父母)に説得され、「非常勤役員」としてときどき工場にくる。
今日は工場に高杉が来る日だった。工場にぴーんとした空気が満ちている。
高杉はいつも自転車で来る。
「キー」というブレーキ音が玄関に響くと皆の緊張が最高潮になる。
しかしそれとは無縁な人物が一人いる。
千沙である。
千沙はブレーキ音を聞くと真っ先に駆け付ける。
「たかすぎさーん」という若い声がはじけた。
「お、千沙ちゃん。聞いたよ。彼氏が出来たんだってね。」
「え、誰から?」
「ここら辺の工場で働いてる奴なら全員しってるよ。あの「高嶺の花」を持ってった野郎がいるってね」
「やだ。・・・」千沙の頬が赤くなる
「ところであれかい?」
「ええ」
そういうと高杉と千沙は事務室に入った。
「今日はなんだい?」と高杉は聞いた。
「肉じゃが」
「ほう」高杉が微笑む
「たのしみだな」
高杉は千沙の料理の評価をしてくれるのだ。
高杉は接待などで一流の料理を食べてきている。
料理で交渉を有利に持ち込むのが上手で「落としの高杉」ともいわれている。
彼の交渉によって「煮え湯」を呑まされた銀行員は数知れない。
しかし、千沙には関係のない話だ。
千沙は小さなタッパーを開ける。
そこにはかわいく盛り付けされた「肉じゃが」があった。
「ほう」といって高杉は箸をとり肉じゃがをほうばる。
しばし高杉は味わいお茶をのんだ。
「これは「みりん風調味料」をつかってますね?」
「なんでわかったの?」
「みりん風調味料ってのはアルコールが入ってません。だから使う時は「日本酒」を足したらもう少しおいしくなりますよ」
「へえ」といって千沙はメモを取った。
「ありがとう」
「はい」
といって事務室を出た。
社員にとっては(社長も含め)地獄のような時間が流れた。
そして勝負の日がきた。
充は千沙の半年に及ぶ努力を知ってか知らずかウキウキしている。
千沙は朝早くから起きて下準備をしている。
高杉にいつか言われたことがある。「いいですか?仕事ってのは手を抜いたらすぐに結果につながります。仕事に対して「素直」であること、これが大事です。そういう思いがいいものを作るんです」
千沙は何事にもこの教えを大切にしてきた。
母の詩織は何も手が付かない。祖父母を呼び出し、高杉さえ呼ぼうとしたほど心配性なのだ。
部屋の中を歩いては止まり、止まっては歩くを繰り返していた。
やがてキッチンから「いい匂い」がしてきてやっと一安心した。
「ピンポーン」となったのはそのすぐ後だった。
「はーい」と千沙がエプロン姿で玄関に向かう。
「充ですが。。。。」
充は山ほどのお土産をもっていて両手がふさがっていた。
そこで千沙がドアを開けた。
「ふー。母がいろいろ持って行けってうるさくて。。。」
と充がお土産を玄関に置いた。
詩織と祖父母が現れる。
「母と祖父母です」と千沙が紹介する。
「どうも。内藤 充と申します。」深々と頭を下げる。
詩織と祖父母は頭を下げる。
「ちょうどお料理が出来たところだから食べていって。。」と千沙はいった。
「でも、まだごあいさつが。。。。」と充が言おうとして台所からだだよって来る「いい匂い」につられた。
「おじゃまします」といいダイニングに導かれた。
可愛い器に「肉じゃが」と「豚汁」あと「刺身」が置かれていた。
「おいしそうだね」充の言葉に千沙は頬が火照る。
「とりあえず、食べようじゃないか?」祖父は正直孫の恋人よりも「肉じゃが」の出来のほうが心配なのだ。
「いただきます」といって手を合わせると充は肉じゃがに手を伸ばした。
じゃがいもにはしっかり味がしみている。
一口食べるとほろりと崩れ、口中に味がひろがる。
「おいしい」と祖父母 母 そして充が口を合わせた。
「日本酒」をいれたことでまろやかな味になっている。
「あ、ご飯をよそうね」といって千沙は充の茶碗を取ってキッチンに向かった。
「あーーー」とキッチンで千沙の大きな声がした。
「ど。どうしたの?」と充が駆け寄ったら炊飯器には米にしっかり漬かった水がみえた。
「炊飯器のスイッチ押し忘れたわ」と千沙は呆然とした。
「ははは」と大きな声でわらったのは充だ。
「でも。ご飯が無くてもおいしいよ。」といって再び肉じゃがに箸を伸ばした。
そして家族と娘の恋人の笑いで食卓が包まれた。
ともかくも「肉じゃが」は成功したといえよう。
さてもう一つの肉じゃがのお話は次に。。。
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