第67話 三分咲・それはとても静かに
日も暮れ、月が昇り一日が終わりを告げてから数時間後。
草木眠る丑三つ時、静かな夜の下を
その細長い体をさながら蛇のようにくねらせ、我が物顔で町の合間を縫うように進む。
神樹の根が再度彼らを捕獲するために、進行してきたのだ。
よく見れば影は一つではない。
隣の建物からちらりと影が見えたと思えば、地面からぬらりと生えて分裂する。
その光景はもはや人工物に自然が侵食されていくが如く、人間が立ち入るべきではない場所へと変貌を遂げていく。
200年かけて作られた街並みが、緑の砦へと様変わりするまでには半刻と掛からなかった。
――パキ
消えてしまいそうなほど微かな音がどこかで響く。一つの根が何かに気づいたようにピクリと震えた。
先端をまるで頭のようにして振り返り、ある一点を凝視するように動きを止める。
視線の先にあるのは一つの民家。【
根はその胴体をするすると割れた窓から中に入れ、部屋を一つ一つ漁っていく。
しかし、物音を立てるような存在は影すらも見つからない。家の周りを見渡せど、草と岩しか確認できるものはなかった。
風のせいだと感じたのだろうか。根は来た道を引き返し、群れへと帰って行く。
もし、根に視力と記憶力があれば気づくことができたかもしれない。
そばにあった大岩が、じりじりとずれるようにして動いているということに。
◆◆◆
「……肝が冷えました」
「あまり長く味わいたくないものです」
お互いに小声で話し合いながら、安堵の息を吐く。
「……もう少しゆっくりにしますか?」
「やめときましょう、足元に注意すればいい話ですし。何より気を張る時間が長いと戦闘に支障をきたします」
私たちは今、この危険度極高の地域を隠密行動して凌いでいる。
陣形の周りをリンがドーム状に覆い、【擬態】で大岩に変化させた張りぼてで根の感覚をごまかしている。
そしてそのスライム独特の流動的な体を活かして、地面を這いずるようにして移動するのだ。
傍から見れば、まるで岩が這っているように見えただろう。
彼は二度根と対峙して時の経験より、根は視覚がない代わりに、熱源感知と聴覚によって獲物を補足していると結論付けた。
その考察は間違っていなかったらしく、今までこのようにして忍び足で移動してきたが見つかる気配がない。
しかし、だからと言って気を抜くことは許されない。
石橋を叩いても安心できないこの状況、油断することはあっても慎重になり過ぎるということはない。
万が一、カモフラージュがばれてしまったら、たちまち数十数百の根が一斉に襲い掛かってくる。
仮にその状況を打破できたとしても、その時にはもう私たちに神樹本体と戦う力は残っていない。
いかにこの針の山の上で、力を温存できるかが勝敗の鍵といっても過言ではない。
「進路前方を根がバリケードのようなものを作っています」
「合間を縫って進むことは不可能でしょうね」
シッドは指をさし、その先を正面から右へと向ける。
「二番目の角の脇道に逸れてください。道筋をだいぶ省略できるはずです」
「分かりました」
リンに伝えて進路を修正する。
いかに神樹が己が城を築こうとも、生物である以上隙はできてしまう。
この街はシッドが生まれて暮らした町、言ってみれば彼の庭だ。地の利であればこちらに軍配が上がる。
隠密行動のほとんどをリンが行ってくれるので意外と余裕を持って対応できた。本当にこの子には助けられてばかりだ。この戦いが終わったらご馳走を食べさせてあげたい。
「……七瀬さん」
「はい、他にも何か?」
「……もう、ワシの住んでいた町はなくなったのですね」
「……」
その口から出てきた言葉は、さらなる抜け道でも障害物の避け方でもなく、ただ一言、悲しみの意を込めた本音だった。
そっと覗き穴から外の光景を見る。
崩れる前は見事なものだったのだろうその美しい街並みは、今では朽ち果てて見るも無残なものへと形を変えていた。
亀裂の隙間からこれ見よがしに、ひょろひょろと芽が飛び出て、自然の速度ではありえない成長の速さで木が根を下ろす。
上に視線を移せば、家の屋根に大きな大樹がもたれかかり、その自重によって壁や屋根が崩壊していた。
空には星が見えず、代わりに入り組んだ枝とそこから生える葉が天井を作っていた。
テレビで『人間がいなくなった後の世界』という番組があったことを思い出す。
文明という文明は自然の波に呑まれ、千年後には人類の残した痕跡はほぼなくなっているという真実は私の胸に強く残っていた。
穴から見えるものは、まるでその様子を早回しに見ているような感覚を覚える。
この街はシッドにとって、自身の今までの人生を過ごしていた我が家に等しい場所であり、守るべきだったかけがえのない宝だった。
大切な仲間との思い出が詰まった場所なのだ。
そう思うと彼の背中から、より悲壮感が絶え間なく漂っている気がしてならない。
リズちゃんは連れてこなかった。
彼女はリンの分身体に任せ、街の遠くで待機させている。
危険な場所に連れて行きたくなかったこともあるけれど、まだ五歳のあの子に、暮らしていた街のこんな終わり方を見せたくない気持ちが強かった。
彼の背中をこんこんと軽く叩き、心傷に浸っている暇がないことを諭す。
確かにこの街に起きていることは正視に耐えがたい。でも今、私たちの命が掛かっているのだ、今ここでもう一度気を引き締めておく必要がある。
起こってしまったことは後でいくらでも悔める。重要なのは今ここからどうするか、なのだから。
「あと少しですね……」
「はい」
言葉とともに彼から、感情のようなものを感じなくなっていく。頭から余計なものを排除し、心のスイッチを切り替えているのだ。
私もまた、使える魔術の確認をするとともに、魔術のイメージを高めていく。
これから先は、私が今まで体験したことのない人外魔境の地。たとえ何が起きても冷静に対処ができるようにと、心を静めることに尽力した。
◆◆◆
神樹は探していた存在が突然消えたことにひどく困惑していた。
彼らなら数刻前まで、一か所に固まっていたはずなのに、急に我が身の感覚にベールのようなものが覆い掛かり、見失ってしまったのだ。
探索のために足を伸ばし、周辺をくまなく探したが一向に見つからない。
『まさか逃げたのだろうか?』
『いや、そんなはずがない』
『それならばもっと前に逃げ出しているはずだ』
『ならば、どこかに身を潜めている可能性が高い』
『生意気な』
『さっさと力を取り込まれてしまえばいいのに』
『昨日だってそうだ』
『もう少しであの小さいものを取り込めそうだった』
『なのに、うまそうなエサがそいつを守り、あろうことか攻撃までしていた』
『そして、以前たてついたものまで加わって反抗した』
『狭い場所に足を出してしまって、思うように攻撃ができなかった』
『実に小賢しい』
『今度は反抗する暇もなく全身を突き刺し、すべて食らってやる』
『小賢しいといえばあの小僧もだ』
『俺の家来を全部殺した挙句、手足まで刈り取っていった』
『なのにこちらが全力を出そうとすれば、ひょいとどこかに隠れてしまう』
『小さい奴のくせに生意気だ』
『さっさと力を差し出せばいいんだ』
『あぁ、忌々しい』
『本当に忌々しい』
『俺は特別な存在なんだ』
『もっと力がほしい』
『もっと力がほしい』
『もっと力がほしい』
思い通りにいかぬ進展に、歯がゆい思いをして憤然としていると、根から新たな信号が届いた。
『……!!』
『風の音がおかしい』
『熱い』
『近寄れない』
『これは……火?』
『とてもとても大きな火』
それは町から離れた場所に存在する見張り小屋から、大きな火が出ているという信号だった。
『火が出てる』
『熱い』
『もしかしてあの中に、エサが?』
『体の熱を火で隠している?』
『俺を近づけないために火をつけている?』
『生意気だ』
『生意気だ』
『生意気だ』
『教えてやる』
『俺が特別な存在であることを教えてやる』
『火なんて怖くない』
『見つけて、刺して、奪って、引きずり回して、殺してやる』
『殺してやる』
『殺してやる』
『殺してやる』
神樹もまた、戦うための力を放つ。
すべての根を結集させ、力任せにその場を鎮圧しようと動き出す。
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