第2話 シン・カンガルー

 有明でシン・ゴリラが華々しいデビューを飾った日。同じとき、大森ゴールド・ジムで開催されたキック・ボクシングの大会で、もうひとつの驚くべき事件が起こっていた。

「赤コーナー! ファイヤージム、結城城二、178cm、92kg!」

 そのコールとともに花道に現れたのは、人間ではなかった。

 結城城二はカンガルーである。

 幼いころ日本へと不法に密輸され、業者の失踪とともに多摩川付近に放棄されていたところを、高田馬場で中華料理店「結城飯店」を営む結城源次郎に拾われ、大切に育てられてきた。

 源次郎の趣味がキックボクシング観戦であったことから、城二もともに古い映像を見るうち、自然とキックの道に足を踏み入れることになったのだ。

 そして、今日、彼はデビュー戦を迎えた。

「一発で決めろ」

 セコンドについた源次郎の言葉に静かにうなずいた城二は、その言葉を忠実に実行した。

 ゴングから、わずか6秒。

 真っ直ぐに距離を詰めた城二は、2m以上離れた距離から跳躍するように踏み込むと、右ストレート一閃。弾丸のように放たれたその拳は、相手の顎を真っ直ぐに貫き、意識を奪った。

 テンカウントののち、試合終了を告げるゴングが鳴り、カンガルーが、高々と拳を掲げる。

 実力の10分の1も出していない。そう思わせる、余裕の表情だった。




 ――映像は、そこで途切れた。

「これが、アンタの次の相手だ」

 サングラスをかけたヤクザ風の男が、シン・ゴリラにそう語りかける。

 男は、国内最大の格闘技団体「SLIDEスライド」のブックメーカーだ。

 ディファ有明で行われたシンのデビュー戦から一夜、急遽、この動物対決のブッキングが企画されたのだ。

 シンは、瞑目してしばらく考えたのち、無言のまま、指でOKのサインをつくった。

「よし、そうとなれば、アンタのこれからの生活はおれたちが保証しよう。バナナは特盛だ。動物愛護団体なんて怖がるこたぁねえ。存分にやってくれ」

 こうして、シン・ゴリラには安全な生活空間および快適な練習環境が与えられた。

 試合の日取りは2週間後に設定され、会場は、両国国技館。収容人数1万人を誇る大会場だ。

 しかし、シンの目は、この闘いでさえもやがて来る決戦の前には予兆でしかないとでも言うかのように、静かに遠くを見つめているのだった。




 10月某日、両国国技館。

 会場は、満員となった。

 この日、ここに集まった観客たちは、格闘技ファンだけではない。本物の動物であるゴリラとカンガルーが闘うという、珍しいもの見たさの野次馬たちが、多数混じっていた。

 その雰囲気を感じ取ったのか、シンは早めに控室に入ると、報道陣をシャットアウトして、ひたすら集中力を高めるように、瞑想にふけった。

 このときシン・ゴリラに出番を告げたスタッフはのちに、控室の扉を開いたとき、目の前に毘沙門天が立ち現れたように見えたと語っている。

「いや、マジですよ。おれ、マジで言ってます。あれはゴリラじゃない。毘沙門様でした。オーラが形になって見えるっていうんですかね。そのくらい、彼のテンションは高まっていたんですよ。ああ、この人……いや、このゴリラにはきっと、誰もパンチなんて当てることはできない。そう思いました」

 しかし、彼の予想はすぐさま覆されることになる。

 ゴングからわずか12秒。

 城二の拳が、シン・ゴリラの顎を強かに打ち抜いた。

 倒れながらも、かろうじてオープン・ガードの姿勢をとるゴリラ。

 その姿を見て、城二は追撃を控えた。

 シン・ゴリラの得意な領域である寝技を避けたのだ。

 結果として、城二のこの決断が、ゴリラを救った。彼がガードの姿勢をとることができたのは、あくまで体に身についた反射的な動きに過ぎず、この時、ゴリラの意識はほとんど飛んでいたのだ。

 レフェリーが膠着状態と判断して、シン・ゴリラにスタンド・アップを命じるまで、約20秒。彼はこの時間を最大限利用して、回復に努めた。

 なぜ、彼は不用意にも、カンガルーの拳をまともに食らってしまったのか。

 その答えは、カンガルーの脚力にある。

 カンガルーの脚力は、野生動物の中でもとりわけ強い。80kg以上にも達する体重をもちながら、一度のジャンプで10mもの跳躍を可能とするのだ。

 この脚力が、信じられないような遠さからのパンチを可能にする。結城城二はこちらの有効射程のはるかかなたから、大砲を放ってくるのだ。

 シン・ゴリラは、この距離を見誤った。

 ビデオで見た城二の踏み込みは、せいぜい2m程度からのものだったが、今見せた右ストレートは、その2倍以上の距離、およそリングの端と端ほどの距離から、突如、一撃で意識を奪うほどの打撃が放たれたのだった。

 そこまでを朦朧とする意識の中で分析したシン・ゴリラがとった次の作戦は、実にシンプルだった。

 姿勢を低くし、顎と頭部を腕で徹底的に守り、被弾を覚悟して接近する。

 城二は、突進してくるゴリラの頭部に、数発の打撃をヒットさせる。

 しかし、ゴリラの勢いは止まらない。

 城二が右ストレートの姿勢を見せた瞬間、ゴリラの体が深く沈みこんだ。

 有明で見せた神速のタックルが、カンガルーの脚を捕らえる――かに見えた、その瞬間。

 結城城二は、にやりと笑みを漏らした。

 ゴリラの視線の先で、カンガルーの脚が、滑るように遠ざかっていく。

 同時に、倒れ込むようにして、ゴリラにカンガルーの上体が覆いかぶさってくる。

 タックルを、

 タックルのタイミングが、完全に読まれていたのだ。

 ヒザが来る――

 思う間もなく、カンガルーの鋭いヒザ蹴りが、ゴリラの顔面にめり込んだ。

 再びマットに倒れるシン・ゴリラ。

 二度目はないとばかりに、倒れたゴリラに襲い掛かるカンガルー。

 まさか、ここで敗れるのか!?

 シン・ゴリラはここで敗れてしまうのか!?


 次回、逆転のとき。心して待て!!!!

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