シン・ゴリラ

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第1話 シン・ゴリラ

 ダブル・ゴリラ。それは二頭のゴリラを表す言葉――。

 2016年12月。日本中をその言葉が席巻し、ここ、さいたまスーパーアリーナに、3万7000人もの観衆を呼び集めた。テレビの前では、その何百倍もの数のファンが、闘いの始まりを待っている。

 彼らの視線の先にいるのは、二頭のゴリラ。あまたの敵を倒し、ともに頂きに上り詰めんとする、ダブル・ゴリラだ。彼らが、大みそかの今夜、リングの上で雌雄を決するのだ。

 だが、その闘いの前に、彼らがなぜこのリングの上に立っているかを、まずは語らねばなるまい。

 安心してほしい。

 その闘いは、すでに約束されているのだから――。




 2016年9月某日。

 すでに夏は去り、風が秋の匂いを帯び始めている。

 東京湾に臨む日本初の格闘技専用アリーナ「ディファ有明」で、その日、事件が起こった。

 総合格闘技イベント「Depthデプス」のヘビー級タイトルマッチ。その決勝戦を前にして、挑戦者であるたつみケンジが行方不明になってしまったのだ。

 動揺する主催者と、ブーイングを飛ばす観客たち、そしてそれを冷徹な目で見つめる、王者ウラジミール・プリマコフ。

 彼らの前に姿を現したのは、巽ではなく、一体のゴリラだった。

 そのゴリラは、熟練のプロレスラーよろしく、颯爽と花道を駆け抜け、トップロープに手をかけると、軽々とその身を宙に翻し、飛ぶようにリングに上がったのだ。

 ゴリラはリングに立つと、高々と腕を上げ、指を一本、天に向かって突き立てた。

 それは、往年のプロレスファンならよく見知ったサイン。

 真剣勝負シュートのサインだった。

 誰もが彼を着ぐるみだと思った。無名の、しかし実力無双の新人選手が、この非常事態を利用して、成り上がりを画しているのだと。

「いいぞ、やらせろー!」

 客席からは、怒号にも似た激励の声が飛ぶ。

 最も困惑したのは主催者だ。こんな筋書きは予定にない。そもそも巽が行方不明になったことからして、信じられないようなトラブルなのだ。

 もしこのメイン・イベントが中止ということになれば、チケットの払い戻しさえ検討しなくてはならない。来場客は2000人弱とはいえ、落日の憂き目にある日本の格闘技団体にとっては大きな痛手だ。この日のために呼び寄せた王者プリマコフのギャラを支払うことも難しくなってしまう。

 そんな状況が、主催者に狂気の決断を促した。

 メイン・イベント、決行。

 プリマコフに、目の前のゴリラと闘ってほしいという打診が飛んだ。

 大反対するセコンドを尻目に、プリマコフは不敵に笑って言う。

「たとえあれが本物のゴリラでも、私は負けない」

 リングの中央に進むプリマコフ。

 レフェリーの合図で、腕を差し出すゴリラ。

「Hey Center! First Round five minutes. Don't Headbutt. Don't elbow attack. Don't Lowblow. Don't grip rope. Clean fight. OK?」

 レフェリーの言葉に、ゴリラはいちいちうなずいて見せる。「ルールは理解している」。そう告げているように見えた。

「……Shake Hand. Stay your corner.」

 レフェリーの指示通り、プリマコフと軽く拳を合わせ、コーナーへ戻っていくゴリラ。覚悟を決めたかのように、レフェリーが叫ぶ。

「Let's Get It On!」

 会場から歓声が上がる。

 ゴリラが、ファイティングポーズを取ったのだ。

 両足のスタンスを広く取り、腰を低く落とした構え。“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”と呼ばれる、関節技を主体としたレスリング・スタイルの構えだ。

 ……堂に入っている。

 プリマコフは、そう息を飲んだ。常に冷静沈着な彼でさえ、このときばかりは驚嘆の色を隠せなかった。

 格闘技の達人ともなれば、相手の構えを見ただけで、ある程度の実力を推し量れるものだが、こうまでその技量の深さを感じさせる構えを、彼は見たことがなかった。

 見た目に反し、単なるイロモノではない。非常に高い実力を有する熟練の選手だ。それを感じ取ったプリマコフは、大きな決断を下した。

 打撃で行く。

 そう決めたとき、すでに彼は動き出していた。

 一気に距離を詰めるプリマコフ。

 プリマコフの鋭いジャブが、ゴリラの鼻先を狙う。

 それを片手でさばきながら、下がるゴリラ。

 ゴリラの背が、ロープに触れた。

 瞬間、プリマコフの右拳が、ゴリラの視界から消える。

 これこそ、伝家の宝刀ロシアン・フック。

 数々の格闘家たちをリングに沈めてきた、プリマコフ必殺のパンチだ。

 振りかぶってボールを投げるように放たれるその拳は、視界の外からこめかみに向かって、円を描きながら飛んでいくのだ。

 しかし、次の瞬間、驚いたのはプリマコフのほうだった。

 ゴリラの頭が、自分の太ももの上に乗っている。

 片脚タックル。

 プリマコフの拳が届く前に、ゴリラはすでにプリマコフの脚を捕らえていた。

 なんという神速のタックル!

 プリマコフは打撃のための体重移動を利用され、軽々と投げられてしまう。

 テイクダウン。

 とっさにガード・ポジションを取ろうとしたプリマコフの背筋に、寒気が走った。

 ゴリラが、彼の背後に回っていたのだ。

 気づいたときには、すでに彼の首にはゴリラの腕が巻き付き、脚はゴリラの足によってロックされている。

 裸絞めが、完全に極まっていた。

 耐え切れず、ゴリラの腕をタップするプリマコフ。

 ゴリラは、レフェリーがプリマコフのタップを確認するのを見てから、ゆっくりと技を解いた。

 リングが大歓声に包まれる。

 王者プリマコフが、まさかの敗北。しかも、圧倒的な技量の差を見せつけられての敗北だ。勝者は謎のゴリラ。これほどの大番狂わせが、かつてあっただろうか?

「勝者、謎のゴリラ! コメントをお願いします!」

 勇気ある司会者がリングに駆け上がり、ゴリラにマイクを手渡す。

 ゴリラは、そのマイクを受け取ると、天を仰ぎ、胸を張り、拳を胸に当てた。

 場内が静まり返る。

 次の瞬間、野生の音がディファ有明に響き渡った。


 ドムドムドムドムドム!


 それは、ドラミングだった。

 ゴリラの、ゴリラたる証。

 森の賢人の存在証明。

 声なき雄叫び。

 マイクによって拡大されたその音は、彼が本物のゴリラであることを、会場のあらゆる人間に確信させた。

 彼こそは、真のゴリラ。

 そして、格闘技界に新たな風を巻き起こすゴリラ。

 シン・ゴリラなのだ――。


次回、シン・ゴリラに強敵現る。心して待て。

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