第7話 日曜日
「結構、降ってるね……」
「そうだな」
まりえが、窓の方を向いてそう呟いた。俺はエビチリを一つ箸でつまみながら答えた。
彼女の言葉通り、カーテンで閉め切った窓の外では、日が暮れた頃からしとしとと雨が降り出していた。
テーブルの上の花瓶では、かきつばたという花が咲き誇っている。まりえは、その青い花びらをつんつんとつつきながら、ため息をついた。
「雨、別に嫌いじゃないんだけどね……」
「いいじゃないか。夜に降っているんだし、家の中にいるんだし」
「そうだけどね……」
今夜のまりえは、なんだか表情が暗い。単純に、雨のせいでアンニュイになっているわけでもなさそうだ。
俺の視線に気付いたまりえは、こっちを見てにこっと笑ってみせた。
「どうしたの、晴太くん?」
「あ、いや、なんでもない」
俺はなぜだか気まずさを感じて、まりえから今日の夕食へと目を移した。
今日はエビチリとチャーハンと玉子スープという、中華三昧なメニューだった。今回の料理も、まりえは自信なさげだったが、俺がうまいうまいと褒めると、嬉しそうな顔をしていた。
ただその顔も、どこか無理をしているようにも見えたのだが。きっと気のせいだと思いたい。
「あ、そういえば、いよいよ来週だったね」
「ああ、そうだなぁ」
まりえが思い出したかのように明るい声を出し、俺も頷いた。
来週、俺が働いているスーパーで行われるバイオリニストを招待したイベントまで、あと一週間に差し迫っていた。
俺が初めて本格的にかかわるイベントで、大失態も犯してしまったが、やっとここまで漕ぎつげた、といった気分だった。まだ一週間、もう一週間、とどちらも言うことが出来るが、仕事中にずっと感じていたプレッシャーから少し余裕が持てるようにはなった。
きっとこれも、まりえがいてくれただろう。仕事でへとへとになった俺に、おいしいご飯とあったかい風呂を準備して、温かな雰囲気で迎えてくれたから。
「まりえも、見に来てよ。地元とはいえ、あの人がスーパーで演奏するなんて、滅多にないだろうし」
「うん、行くよ」
「来週の日曜日の、お昼二時からだからな」
「分かった。晴太くんの晴れ舞台、楽しみにしてるよ」
「俺は裏方の裏方だから、表には出てこないと思うけど……」
俺たちは、誰からともなく笑いだした。明るい笑い声は、部屋の隅々まで照らしてくれた。
この時俺は、まりえが未来のことを寂しそうな顔をせず、とても楽しそうに話していたことに気付いていたが、何も言わなかった。
*
「そろそろ眠ろうか」
「あ…うん、そうだね」
俺の前に座って、ぼんやりとテレビを眺めていたまりえは、俺の言葉にはっとした表情になって、リモコンでテレビを消した。
いつもなら、俺の隣に座っているまりえが、食事の時と同じように俺の真向かいに座るのは珍しかった。理由を聞いてみたが、なんとなくだよと笑って誤魔化された。
別に嫌だというわけではないのだが、まりえが好きだと言う動物番組を見ていた時もどこかぼーっとしていて、そうかと思うとたくさん話しかけてくるのが気になった。
「……」
「……どうした? 俺の顔になんかついてる?」
「あ、ううん、なんでもないよ」
そして時々、何も言わずに俺の顔を見つめている。一体どうしたのだろうか。なんだか心配になる。
「あ、じゃあ、私から先に歯を磨いてきてもいい?」
「ん、ちょっと待って、話があるから」
立ち上がろうとしたまりえにそう声を掛けると、まりえは目を丸くして座りなおした。
俺も姿勢を正す。これから、何を話すのかは、現実の世界で何度も頭の中でシュミレーションしたのに、緊張で心臓の鼓動が早くなっていた。
「晴太くん? なんか、怖い顔になってい」
「実は、今日の昼、中学の時の友達に会ったんだ」
まりえは俺に言葉を遮られ、目をしばたたかせていた。
「あ、そうなんだ、全然知らなかったよ」
「そうだな、言っていなかったし、それは現実の世界の出来事なんだし」
まりえの顔が、みるみる青ざめていった。
俺は、そんな彼女の正直な反応を見るに耐えられず、オレンジのチェックのテーブルクロスの方をじっと眺めていた。
「その友達、三年二組の秋山って名前なんだけど、まりえも知ってるよな?」
「……うん、ボードゲーム部だった秋山君でしょ? 覚えてるよ」
「そいつから聞いたんだ、まりえのこと」
「そっか。じゃあ、私が幽霊だってことも、分かっているんだね」
まりえの、悲しそうな声が、優しく降ってきた。俺はそれを聞いて、小さく頷いた。
……秋山は、まりえのことをよく知っていた。卒業後、俺とは違う高校へ行ったことも。専門学校を出て、花屋に就職したことも。
そして、一か月前に交通事故にあって、亡くなったことも。
重苦しい沈黙の中、外で雨で降っている音だけが響いていた。
「……まりえ、一つ聞いてもいいか?」
「うん」
俺は、顔を上げて、まっすぐに見据えた。
まりえは、全てを悟りきったような、慈愛の満ちた表情で俺を見つめ返した。
「なんで、俺の夢に出てきたんだ?」
まりえは、ふうーと長いため息をついた。
彼女が幽霊だなんて今でも信じられない。呼吸をしているし、食事もとるし、眠ることもできる。だがそれができるのは、ここが夢の中だからなのかもしれない。
「私ね、晴太くんが初恋の相手だったの」
「えっ? そ、そうなのか?」
「うん。誰にも言えなかったけどね」
まりえは頬を赤くして照れながらも、俺の目を離さずに言い切った。
正直、嬉しいというよりも、信じられない告白だった。中学時代に勉強もスポーツもいまいちで、平凡な顔立ちの俺に、惚れる女子がいたのか?
「中学二年生の時の夏にね、私、新しく校庭の花壇を作っていたの。レンガで囲いを作って、土を手押し車で運んで、それを敷いて苗を植えて……とても大変な作業だったけど、私以外の部員がいなくて、一人でやってたのね。別の日にやればよかったのに、他の部員が来なかったからこんなの一人でもできるって意地になって、やっぱり辛くて、ちょっと泣きそうだったの。そんな時に、通りがかった晴太くんが、大丈夫か? って言って手伝ってくれて……。ほとんどの力仕事をやってもらったから、私、何かお礼がしたいって言ったけど、晴太くんはそれくらいいいって、さっさと行っちゃって。私、嬉しくなって、その時に、晴太くんのこと、すごく素敵な人って思ったの」
「そんなことがあったのか……ごめん、覚えてない」
俺が正直に頭を下げると、まりえはいいのよと笑った。
「その後、アプローチとか告白とか、何にもしないまま、高校が別々になっちゃって、もうこれは、初恋の思い出になっちゃうんだろうなーって、漠然と思っていたの。……でもね、死ぬ直前にね、一番に思い浮かんだのは、あの時の晴太くんの顔だったの。出来上がった花壇を見て、すごく立派だなって笑ってくれた、晴太くんのことだったの」
ずっと俺を見つめていたまりえの顔が、くしゃりと今にも泣きだそうにゆがんだ。目にはいっぱいの涙が溜まっている。
何か声を掛けようと口を開いた俺を、まりえは大丈夫と言って制して、目をこすって話し始めた。
「もう一度、晴太くんに会いたい。言葉を交わしたい。そう思ったけど、幽霊になった私は力が弱くて、人の前に化けて出ることは出来なかったのよ」
「そうか、だから夢に……」
まりえは頷き、へへっと力なく笑った。
「夢の中だけでもいいから、晴太くんと恋人同士でいたかったの。ちゃんと話したのは、中学の時の一度だけだった言うのにね。ごめんね、気持ち悪かったでしょ?」
「そんなことない!」
思わず大声が出たのは、それが俺の心からの叫びだったからだろう。
まりえは、俺が夢の世界を心地よく過ごせるようにといつも綺麗に整えてくれて、うまい夕食を作ってくれて、俺のどんな他愛ない話もちゃんと聞いてくれて……。木曜日に、俺が落ち込んでいるときは励ましてくれた。
それに……昨晩まりえにキスされたときに、やっと気づいたのだ。まりえのことは家族のように大切な存在だが、それ以上の感情はないと思っていた。だが、もうずっと前から、俺はまりえに恋をしていたということに――。
そう、言いたかったが、うまく口が動かない。それだけではなく、勝手に涙がこぼれ落ちそうになっていた。
だから、一番に伝えたいことだけでも、言葉にしよう。
「まりえと会えて、一緒に暮らせて、本当に良かった。ありがとう」
「どうもいたしまして。私も、とても嬉しかった」
俺たちは、照れくさくなって、小さく笑った。
と、その時、かちりと、時計の針が動く音がした。反射的に壁にかけていた時計を見ると、ちょうど十二時を指している。
「あ……もう、時間だね」
まりえの、弱々しい呟きが聞こえた。俺がそちらの方を向くと、彼女はいつの間にか立ち上がっていた。
どういう意味だと尋ねる前に、突然景色がぐにゃりとゆがんだ。
「な、なんだ!?」
驚いている俺とは正反対に、まりえは真っ直ぐに立っていた。口には微笑みを浮かべながらも、その眼はどこか悲しそうに潤んでいた。
ぐにゃぐにゃになっている床の上だが、俺はへっぴり腰ながらもなんとか立ち上がることが出来た。とにかくここから脱出しようと、まりえの手を握る。
「なんか、よく分かんないけど、避難しよう」
「だめだよ、晴太くん。もう起きる時間でしょ」
「えっ?」
確かにまりえの言うとおり、夢の世界の十二時に床につけば、起きた時に翌日の朝になっているのだが…。
「だからね、もう、お別れなの」
「……へっ?」
あっけにとられている俺の手を、まりえは優しく振りほどいた。
その時、周りが再び変化した。雨の音が全く聞こえなくなり、景色が、まりえ以外の全ての物が、絵に水を垂らした時のように、滲んで消えていってしまっている。
ぽかんと口を開けた俺に、まりえはいつものように、だけど無理やり笑って見せた。
「晴太くんには内緒にしてたけど、ほんとは最初から決めてたの。晴太くんと夢の中で一緒に暮らせるのは、一週間だけにしようって」
「なんだよ、それ、勝手に…」
「ごめんね。でも、これ以上いたら、晴太くんに迷惑がかかると思って」
「迷惑じゃない!」
声を荒げた拍子に、涙が落ちそうになった。視界まで滲んだら、まりえの姿までよく見えなくなってしまう。俺は乱暴に涙をぬぐった。
「だからさ、あと一週間だけ、いてくれよ。約束したじゃないか、俺の晴れ舞台見に来るって」
まりえは、ゆっくりと首を振る。
「じゃあ、じゃああと一日だけ! 俺、一日中寝とくからさ、そしたら、たくさん一緒にいられるし。それで、それで、どっか一緒に行こう! まりえの行きたいところ、どこでも連れてってやるからさ、だからさ……」
行かないでくれよ。
……その願いは、うまく口に出来ずに、息だけが出た。
まりえは、にっこりと笑った。両方の目尻からは、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「最後にね、ずっと、言いたくても言えなかった言葉、言わせて」
まりえは、そこにいた。キッチンも、テーブルも、テレビも、壁までも滲んで消えていく世界の中で、まりえは凛として、そこに立っていた。
俺は、静かに頷いた。
「愛してるよ、晴太くん」
「俺も、愛してるよ、まりえ」
まりえと俺は、今まで何度のそうしてきたように、笑い合った。涙をぼろぼろとこぼしながらも。
最後に、まりえが滲んで消えてしまう前に、俺はぎゅっと目を閉じた。
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