第6話 土曜日
台所からは、グツグツと鍋が煮込まれている音がする。
俺は新聞から目を離して、時計を見た。時間は夜の七時前。まりえはいつものように夕食を作っている。
あまりにいつも通りの夢の中での光景なので、俺はこっそりとため息をついた。
今夜、眠る前に、夢の中では土曜日の朝になるようにと願っていたが、それはどうやら叶わなかったらしい。朝から夜までの出来事を夢で見れたら、まりえと過ごせる時間がもっと増えるというのに。
それでも、昨日の晩の夢で、まりえは土日にシフトが入っていると話していたのであまり一緒にいられないようだが。その仕事も、何らかの形でキャンセルにならないかと考えていたが…ここは俺の夢なのに、俺の思い通りにならないことが多い。
改めて、この夢について考えてみる。俺が夢を見るのは、夜中にベッドの中で就寝してから。試しに一度、昼休みに仮眠をとってみたが、何の夢も見なかった。
夢の中では、気が付くと平日はアパートの廊下に立っていて、休みの日はベッドの上で寝転んでいる。起きる、というよりもはっとしたら夢の中だった、という感覚に近い。
その時、夢の世界は大体七時前後になっている。これは、六時に終業して、寄り道せずに真っ直ぐ家に帰った時間にあたる。夕食も、大体この時間にとることが多い。現実世界でいくら残業しても、夢の中で帰ってくるのは必ず七時ぐらいだ。
就寝するのは十二時くらい。これはまりえも同じだ。夢の中でまた寝る、というのも変な話だが、この「眠り」についた後、目が覚めると俺は現実世界に戻っている。
とすると、夢の中で過ごしているのは五時間ぐらいか…。俺の睡眠時間内に収まっている。もしかすると、夢の中で一日を過ごせないのは、夢の中と外で流れている実際の時間が同じだからかもしれない。だから、俺がいくら早く寝ても、夢がスタートして終わる時間は変わらないのか。
試しに、明日の日曜日は一日中寝ておく、というのをやってみたいが、明日は明日でやることがある。まあ、来週の月曜日は体育の日で休みだし、その時に試してみよう。
それにしても、夢の中といっても、ここはほとんど現実と変わらない。魔法が使えるわけでもないし、超人的な力を手に入れたわけでもない。この新聞も、現実世界のものに載っていた記事と全く同じだ。もちろん、全部チェックしていたわけじゃないが……。現実と違うところは、痛みを感じないことくらいか。
「どうしたの、晴太くん? 難しい顔してるよ?」
肉じゃがの入ったお皿を持ったまりえが、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
いつの間にか、眉間にしわの寄っていた俺は、慌ててそれを崩して笑顔を作る。
「あ、いや、ちょっと経済面見てただけだから」
「へぇー。晴太くんって、結構真面目だね」
「結構、ってなんだ。失礼だぞ」
俺がわざとらしい抗議の声を出すと、まりえはふふっと柔らかく笑った。
月曜日よりも、まりえの表情がいくらか、リラックスしたものになっているように感じられる。こんな風に、冗談を言い合うようにもなった。お互いの親密度が、どんどんと上がっていったからだろう。
まりえがテーブルの上に並べてくれた、肉じゃがとご飯とみそ汁を前に、二人でいただきますと手を合わせる。
「今日は和食かぁ。珍しいな」
「あまり作ったことのない料理にも、挑戦しようと思ってね。……どう? おいしい?」
「うん。うまい」
俺は、食べていたジャガイモを飲み込んで、きっぱりと言った。ジャガイモには、程よい甘さのダシがよく染み込んでいる。肉の柔らかさもちょうどいい。
「これなら、いくらでも食べられるよ」
「ほんとに? ありがとう」
少し緊張気味だったまりえの顔が、ほっとほころんだ。
「肉じゃがって、シンプルに見えて手順は意外に複雑で、時間もかかるから、ちょっと自信が無かったの」
「謙遜しなくてもいいよ。今度、また和食を作ってほしいくらいだ」
「うん……そうだね……」
まりえは小さな声でそう呟くと、俺の視線から逃げるように下を向いた。
また、昨日と同じような反応だ。まりえは、何故だかこれからのことを話すを嫌がる。
俺が、どうすればいいのか困っていると、開けっ放しにしていたリビングに出られる窓から、ふわりと涼しい風が入ってきて、カーテンを揺らした。
俺とまりえは、新しい花の活けてある花瓶の向こうにある、窓を見た。
「もう、すっかり秋になったねぇ」
「そうだな。クーラーも使わなくなったし」
現実世界と同じように、夢の中でもすっかり残暑は過ぎ去っていて、昼間は過ごしやすく、夜はそろそろ羽織るものが欲しくなってくる季節になっていた。
そんなことを考えていると、俺はまりえと今まで一度も外出したことが無いことに気づいた。
「飯食い終わったら、外に散歩に行かないか?」
「え!? ……晴太くん、もしかして気にしてるの?」
まりえは急に驚きの声を上げると、遠慮がちに俺のお腹の方へ視線を向けた。
「でも、晴太くん、痩せてる方だし、ダイエットとかしたら、余計体壊しちゃうよ!」
「……まりえ、ちょっと勘違いしてるみたいだが、俺はウォーキングしたいわけじゃなくて、単純に散歩しようと思ってるだけだぞ」
「え……あ、そうなの?」
俺が呆れ顔でそう指摘すると、まりえは耳の先まで真っ赤になった。
まりえの喜怒哀楽は、いつもはっきりしていて、ころころ変わる表情がとても愛おしく感じる。
「うん。最近涼しくなってきたしさ、天気もいいから、月もよく見えるだろうし。……というか、何で俺がダイエットしようとしていると思ったんだ?」
「あーそれは……もちろん、晴太くんが太ってきたからじゃないよ? ただ、最近よく食べているし、おかわりしたうえでデザートも食べてるからさ……。あ、別に嫌、ってわけじゃないよ」
「まあ……確かにいつも不健康な生活してるけどさ……。インドア派だから、散歩することも滅多にないし……。でも、たまには、いいかなって、思って。最近、仕事では時間に追われているからさ、ゆったりしたいなって」
これは俺の本心だったが、実際はまりえと夜の時間を過ごすだけで、俺は十分に癒されている。それでも、一緒に外に出たいと思ったのは、まりえといる時間を、もっと有意義に使いたいと思ったからだった。
「そっか……。そういえば、晴太くんと出かけるの、久しぶりだね」
「あー、そうだったな」
熱を出した月曜日よりも前のことを知らない俺は、あやふやにうなずいた。
「なんか、楽しみになってきた。ちょっと、おしゃれしていこうかな」
「そこまで気合い入れなくてもいいよ」
まりえのうきうきした表情に、笑いながら茶々を入れつつも、俺も彼女と同じぐらい楽しみにしながら、肉じゃがの最後の一個のジャガイモを口に運んだ。
*
涼風が吹いて、まりえの小さな白い花柄のロングスカートを揺らしていった。
まりえの少し後ろを歩きながら、胸いっぱいに夜の空気を吸い込む。落ち葉の匂いが鼻をかすめ、しんとした冷気が肺を満たす。
俺たちは、町の北の方にある公園を訪れていた。都会の公園に比べると規模は小さくなってしまうが、自然が豊かで遊歩道も整備されているここは、町民たちの憩いの場となっていた。
アパートからはバスで行く距離にあるが、ここに来てよかったと、着いた瞬間からそう思っていた。町の喧騒や人工的な光はここには届かずに、人もあまりいない。何より、点々と瞬く星と丸い月がよく見えた。
「きれいな満月だな」
「あ、あれは満月じゃないよ」
思わず感嘆の息をついた俺に、まりえは振り返ってそう指摘した。
「え、そうなのか?」
「うん。満月は三日前だから、今は
「へえ、満月とか、三日月以外にも、月に名前があるんだ」
「うん。全部の月の満ち欠けに、名前がついているんだよ。面白いよね」
まりえはボールのように跳ねる声で、そう教えてくれた。
まりえと一緒にいると、花の名前や花言葉や、自然のことを色々と教えてくれる。俺が普段なら気にも留めていないことにも、意味があるんだということを気づかされて、自分の生活が豊かになっていくように感じられる。
「まりえは何でも知ってるな。一緒に植物園とか言っても、退屈しなさそうだ」
「ふふっ、褒めてくれてありがとう」
まりえはそれだけ言うと、また前を向いて、歩き始めた。
俺はまりえの態度に、うまく言い表せられない胸のざわめきを感じながらも、少し小走りになってまりえの隣に並んだ。
「確か、この先に噴水があったよな?」
「うん。そうだよ」
まりえがそういって頷いた後、俺たちはしばらく黙って歩いた。
古いレンガの道に、二人分だけの足音だけが、どこか寂しく響いている。両側に立ち並ぶ木々は、赤や黄色にはならずに、茶色くなってはらはらと涙のように葉を落としている。
歩いている内に、道が開けて噴水がある場所に出た。
それはライトアップされてなく、水の出方もプログラミングされていない、水が上から噴出する、とてもシンプルな噴水だ。
とてもシンプルなものだけど、今夜は月の光を受けて、水の流れも飛沫のひとつひとつも、きらきらと輝いている。
周りには、誰もいない。ひっそりとして、どこか神秘的な雰囲気に、俺たちは無言で噴水を眺めていた。
「……晴太くん」
「ん?」
横の方を見ると、まりえが顔を近づけてきて、唇に何かが当たるのを感じた。
キスされた! と気づいたのは、まりえの顔が遠ざかっている時だった。
自分の体が、だんだんとほてっていくのが、よく分かった。だが、それ以上に、まりえも真っ赤になっていた。
「ま、まりえ?」
「な、なあに?」
「いいい、いきなり、どう、どうしたんだ?」
「え? え、え、えーと、な、なんとなく」
まりえは熟れ過ぎたトマトのような顔色になりながら、下を向いてもじもじとしていた。
今まで、キスどころか抱きしめたり手を握ったりと、恋人らしいことは一つもやっていなかったので、俺はこのまりえの積極さにとても驚いていた。というか、こんなに恥ずかしがるのなら、キスしなかった方がよかったじゃないのかと思ってしまうが、そんなまりえが可愛らしく、思わず笑みがこぼれていた。
まりえは、気まずさ感じたのか、噴水を囲む木々の上に浮かんだ月の方へと、ふらふらと歩きだした。手は後ろに組んで、ぶらぶらと揺らしている。
月光に照らされたまりえは、静かに月を見上げていた。秋の風が、まりえの茶色い髪をさらさらと流していった。
「なあ、まりえ、」
「どうしたの?」
振り返ったまりえは、口元に笑みをたたえていた。
―――お前は、ここが夢の中だと気付いているのか?
そう、尋ねたかったが、俺は口にすることが出来なかった。
言ってしまえば、まりえが、陽炎のように消えてしまいそうな気がして。
……今日の昼間、現実世界の俺の部屋を掃除した。理由は単純で、夢の中の俺の部屋に見慣れてしまうと、実際の部屋がとても汚れているように見えたから。
その時に、押し入れの奥の方から、中学時代の卒業アルバムを見つけた。
懐かしい、と思ってぺらぺらとめくっていると、俺の隣のクラスだった三年二組の中に、まりえの顔を見つけた。やっぱり同じ学校だったかと思いながら、まだ幼さの残る、少し緊張気味の個人写真を眺めた。ただ、当時の写真を見ても、彼女のことを思い出せない。なんだか、まりえに申し訳ない気持ちがわいてきた。
これを見る限り、やはりまりえは実在している人物なのかもしれない。
その上、彼女の言動や表情は、決して「作られた」とは言い難いものだった。俺がどこかで見たまりえの姿から、自分の恋人を作り出したわけではないだろう。
だから、この夢は、まりえと俺が一緒に見ているものだと思った。いや、どこかでまりえがいるものだと、そう思いたいだけかもしれないが。
ただ、まりえと俺がなぜ、同じ夢を見ているのかは分からない。そして、何故同棲している恋人同士なのかも。
まりえには話していなかったが、以前から、日曜日に、つまりこの夢から覚めた日に、中学の時に三年二組だった友達と会う約束をしていた。彼に会えば、まりえが今どこで何をしているのかも分かるのかもしれない。それから、現実世界のまりえと会うことが出来るのかもしれない。
詳しい話はその時でもいいじゃないのか。夢の中で、現実の話をするのは、禁忌に触れることのような気がした。
だから俺は、この疑問を彼女に投げることよりも、まりえへと手を伸ばすことを選んだ。
「手、繋いでもいいか?」
「うん!」
まりえの手を、包み込むように優しく握る。思ったよりも小さくて、少し荒れていて、びっくりしてしまった。
この手で、毎日働き、家を掃除し、おいしいご飯を作ってくれてたんだな、と思うと、なぜだか胸が苦しくなった。
この手から伝わる温もりが、夢でなければいいのに。また赤くなって、下を向いているまりえの横顔を見ながら、そんなことを考えてしまう。
俺たちは、噴水の周りをぐるりと一周するように、わざとゆっくり歩いた。
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