第5話 金曜日
流し台の前から見る景色は、とても新鮮だった。
夢の中では、まりえがいつも台所を使っているから彼女用にカスタマイズされていることはよく分かる。見たことのない調理器具もいくつか見かけた。
ただ、ここが見知らぬ場所のように見えるのは、俺が滅多に台所に立たないからだろう。
慣れない手つきで、ピーラーを握り、ジャガイモの皮を剥いていく。簡単だと思っていたが、コツを掴むまでが結構難しい。
「晴太くん、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫」
リビングの方から、まりえの心配そうな声が聞こえてきて、それに明るい調子で返した。
これは俺の料理の腕を心配するものではなく、俺が包丁で怪我したり、鍋で火傷したりするのを心配するものだろう。だからこそ、立派でおいしい料理を作って、まりえを安心させたいと思っていた。
ただ、昼間起きているときにネットでレシピを調べておいたとはいえ、前練習なしでいきなり作り始めるのはさすがに無謀だったかもしれない。野菜を切ったり、お湯を茹でたり、下準備の時点で色々とやらないといけないことがあって、結構大変だ。
昨日の夜に、まりえに「明日は俺が晩飯を作る」とはっきりと宣言していた。励ましてもらったお礼にと、まりえにちょっとでも楽してもらいたいと思ったからだった。
しかし、苦戦しているうえに、怪我をしないかどうかとまりえにハラハラさせてしまっている。ここは、集中して丁寧に作っていかないと…。
「あっ」
そんなことを考えていた矢先に、ジャガイモがつるっと手から滑って、洗面台に落ちてしまった。
「晴太くん!? 大丈夫? 怪我したの?」
まりえががたがたと立ち上がる音が聞こえた。
「いや、大丈夫、怪我してないから」
俺はジャガイモを取りながら、そう答えた。
まりえに余計な心配をかけてしまった。それに、ちょっとした声であんなに慌てるなんて、俺はあまり信用されていないのかもしれない。
……とりあえず、このジャガイモは俺のグラタンに入れよう。
*
「……」
「……」
「……」
「おいしい…ね」
「無理に褒めなくてもいいよ…」
出来上がったグラタンを囲んだ食卓は、珍しく沈黙の多いものとなっていた。
無理もない、俺の作ったグラタンは、表面が焦げているのにじゃがいもは生焼け、中に鶏肉を入れるのを忘れた上にチーズの量も足りていないという、何とも残念な出来上がりだったからだ。
様々な後悔にさいなまれている俺と、何とか褒め言葉を探そうとしてるまりえとの間には、重たい空気が流れていた。
「ごめんな。これなら、どこかうまいところに連れて行けばよかった」
「ううん。晴太くんが心を込めて作ってくれただけでも、嬉しいよ」
「そういってくれるのはありがたいが……それ、ただの気休めだよな?」
「じゃあ、正直に言うと……晴太くんが私の苦労を知ってくれたのが、一番嬉しかった」
まりえが、意地悪く笑って見せた。
それを受けて俺が「それなら作らない方がよかったかもな」と呟くと、まりえがあははと声を上げた。
「じゃあ、これからは、たまにでも俺が夕飯作っていくよ。そうすれば、文句ないだろ?」
「……えっ? あ、う、うん、ありがとう」
俺が口をとがらせて拗ねたように言うと、まりえは急に笑うのを止めて、ふと寂しそうな顔を見せた。
何か、まずいことを言ったのかもしれない。俺は慌てて話題を変えようと、テーブルの花瓶にある、紫色の柔らかそうな花びらが渦を巻くように付いた花を指差した。
「あ、そういえばさ、今日も花があるよね。これ、なんていう名前?」
「これはね、トルコキキョウっていうの」
「トルコ? じゃあ、トルコが原産地なのか?」
「ううん、北アメリカ」
「え? じゃあ、なんでトルコって名前についてんだ?」
「なんかね、花の形がトルコ人のターバンに似ているとか、色がトルコ石に似ているからとか、いろいろ言われているみたい」
「意外とテキトーなんだな」
「ふふっ、そうでしょ?」
まりえがやっと笑ってくれて、俺は少しほっとした。
なぜあの時、寂しそうな顔をしたのかはわからないが、短い夜の間だけしか一緒に入れないのだから、怒ったり悲しんだりするよりも、笑い合った方がずっといい。
未だに俺は、まりえが俺の夢の中に出てくる架空の登場人物なのか、どこか遠くで暮らしていて、同じ夢を見ている実際に存在する人物なのかどうかも分からない。
でも、俺にとってまりえのいるこの世界がいるように、まりえにとってここがオアシスのような存在になってほしいと、まりえに励ましてもらった昨日から、そう考えるようになっていた。
「なあ、トルコキキョウにも花言葉があるのか?」
「うん。色々あるよ。優美、希望、あなたを想う、あと、よい語らい、とか」
「よい語らい、か。いい言葉だな」
「でしょ?」
トルコキキョウが見守る中で紡ぐ「よい語らい」が、いつまでも続けばいいと密かに祈った。
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