第4話 木曜日

「……ただいま」

「おかえ……り?」


 夢の中のアパートに帰ってきた俺を、いつものようにまりえが迎えた。

 しかし、言葉の最後に疑問符がついたのは、リビングから顔を出してみた俺の様子が、暗く沈んでいたからだろう。

 そんなことを冷静に分析できても、しばらくすると心の中に黒い雲が立ち込めてきて、俺は玄関で靴を脱ぎながらため息をついた。


「あ、そうそう! 今日は晴太くんの好きなカレーだよ!」

「そうか、分かった」


 俺を心配して明るい声と顔を作ったまりえに対しても、俺は作り笑顔をする余裕を持てずに、すぐに自室へ向かった。

 扉を閉めるとき、まりえの不安そうな顔が目に写り、微かにバラの香りが鼻を掠め、それがやけに頭に残った。



 ことんと、俺の座っている前のテーブルに、まりえがカレーライスを置いてくれた。

 黙ったまま、ホカホカと上がる湯気とともにスパイシーな匂いも一緒に浴びる。

 俺の向かいにまりえが座り、両手を合わせた。


「いただきます」

「……いただきます」


 食欲はほとんどなかったが、まりえにこれ以上心配されたくなくて、俺はスプーンを持った。

 しばらくは黙々と、二人でカレーを食べ続ける。視線を下に向けていても、ちらちらとまりえが俺の方を見ていることは、なんとなく分かっていた。

 ちらりと横を見ると、飾られている花が、昨日とは違っていた。ピンク色をしたバラが、花瓶の中で咲き誇っている。

 俺は、ふうーとため息をついた。それから再び、カレーへと目を移した。


「今日さ、」

「うん」


 蚊の鳴くような声だったが、まりえはしっかりと掬い取ってくれて、俺は小さくほっとした。


「会社で大失敗しちゃったんだ。……俺今、あるイベントの重要なところ任されいるんだけどさ」

「うん」

「地元出身のバイオリニスト呼ぼうってなってて、彼女にスケジュール伝えるのが俺の仕事だったんだけど、」

「うん」

「何を勘違いしたのか、一日日付を間違えて伝えちゃったんだよね」

「……うん」

「そのバイオリニストさ、まりえも知ってると思うけど、世界を股にかけて活躍している人でさ、ほんと忙しいから、ちょっとスケジュール狂っちゃたら大変なことになるからさ。俺、真っ青になっちゃって、部長に怒鳴られて。慌ててマネージャーに電話して話したら、まあ、ギリギリなんとか大丈夫ってことになって」

「うん」

「ほんとに、焦った……っていうか、怖くなっちゃって。イベントのこと、大々的に宣伝してたし、うちのスーパーにあの人が来る! って、他の部のみんなも盛り上がってて。何より、部長があのバイオリニスト呼ぶのに一番苦労していたこと、俺もよく知ってたし……。もう、大丈夫ってことが分かったら、部長、俺を怒る気力が無くなるくらい、力抜けちゃってて、『始末書書いとけ』ってひとこと言ってから、部屋を出て言ったその背中が忘れられなくて」

「うん」

「部長はさ、ちょっと短気なところがあるけど、いつも明るくて豪快で、みんなを引っ張っててくれて、尊敬されてて、俺ももちろん、すげぇなって思ってて。そんな部長の、あんな姿、はっきり言って見たくなくて…」

「うん」

「まだまだ新人気分が抜けていない俺を、今回のイベントの連絡係にしてくれたのも、部長でさ。だから、いつも以上に頑張って、その期待に応えなきゃって、思ってたんだけどさ……あー、何で俺、あんなことしちゃったんだろ」

「……」


 自分の気持ちを正直に話しているうちに、涙が出てきそうになって、俺は上を向いて、何度も瞬きをした。

 と、今まで静かに話を聞いていたまりえが、急にカレーをかき込むように食べ始めた。まりえはいつも、一口が小さくて、俺より食べ終わるの遅いから、俺は驚き、目を丸くして彼女を見つめた。

 がしゃん! と、乱暴にカレー皿をテーブルに置いたまりえは、びくっとした俺を睨みつけた。


「晴太くん!」

「は、はい」

「今日は、飲むよ!」

「え、え?」


 ぽかんとする俺をよそに、まりえはすたすたと冷蔵庫の方へ向かい、中から缶酎ハイを二本持って、戻ってきた。


「晴太君、どっちがいい?」

「あ、じゃあ、レモンで」


 俺にレモン味のチューハイを渡したまりえは、ピーチ味の方を持ったまますとんと座り、そのまま缶を開けた。


「こう時はね、切り替えるべきよ! 飲んで忘れる、ってわけにはいかないけど、失敗は失敗としてちゃんと受け止めなくちゃあいけないけど、いつまでもうじうじしていられないでしょ!」

「はあ、」

「はい! じゃあ、かんぱーい!」

「か、乾杯」


 まだ缶を開けていない俺に、まりえは缶を前に突き出してきたので、俺も仕方なく自分のレモンチューハイをぶつけた。カン! と、硬い音が、リビングに響いた。

 さっきまで勢いが良かったまりえは、自分のピーチチューハイをちょっびっと飲んだ。

 対して俺は、缶を開けると、一気に半分ぐらい飲んだ。


「ぷっはぁ!」

「晴太君、全部飲んでいないよね? 体に悪いよ?」

「なんだよ、飲めって勧めたのはそっちだろ?」


 アルコールで体が熱くなった俺は、まりえにいちゃもんをつけた。

 まあ、確かにそういったけど…と、子供っぽく口を尖がらせるまりえを見て、俺は自然とほほ笑んでいた。


「でも、ちょっとすっきりした。ありがとう」

「うん。良かった」


 まりえもやっと、嬉しそうに笑ってくれた。

 残したカレーがもったいなかったので、それも完食して、俺はゆっくり酎ハイを味わうことにした。途中でまりえは、チーズを生ハムで挟んで簡単なおつまみを作って持ってきてくれた。

 それを少しずつ食べていきながら、また缶を傾ける。


「俺、ずっとこの仕事、いやいややってるんだと思っていたんだよ。もともと、やりたい仕事に就けなくて入った会社だったし。…だけど、今日の失敗がすごく悔しくてさ、皮肉だけど、この時初めて俺は、この仕事に一生懸命になっていた、ってことに気づいたんだよね」

「好きなことを仕事にしてもね、嫌なことはたくさんあるよ。でも、この仕事に誇りを持てるようになった時に、なんか、一回り成長したような気がしたんだ」

「誇り、か……。なんだかんだ文句言いながらも働いてきたから、積み重なったものが出来ていたんだろうな」

「たまには、振り返ってみることも大切かもね。自分がやってきたものを確かめるっていうか」

「……だめだ、ヘマして怒鳴られたことしか思い出せない」

「ふふっ、私もそうだよ。初めて競りに参加したとき、十五回連続で落とせなかったときとか」

「十五回!? それは、大層な数字ですね…」

「もちろん、嬉しかったこともたくさんあるよ。その後、競りで落としたときとか」

「俺も、今回のイベントで重要な役を振り分けられたのは、素直に嬉しかったなぁ」

「ねえ、晴太くん」


 色々なことをリラックスした状態で話していた中で、急にまりえが真剣な顔で俺を見つめた。

 こんなまりえの表情、初めて見た俺はたじろいでしまった。


「な、なに」

「晴太君は、この仕事、ずっと続けていくつもりなの?」

「…そう、だな」


 唐突にそう言われても、アルコールでぽーっとした頭ではうまくまとまらない。

 とりあえず俺は、今まで思っていたことを正直に話すことにした。


「ずっと、早く今の仕事を辞めて、出版社とか入りたいと思ってた。でも、この仕事の面白さとかやりがいとかがだんだんと分かってきて、もうちょっと続けてみたいな、とも思っている。ただ、前の夢も諦めていないし……。とにかく今は、自分が出来ることを一生懸命やっていきたいな。ごめん、無茶苦茶なこと言ってて」

「ううん。正直に話してくれてありがとう」


 まりえは、にっこりと、花が咲いたかのように笑ってくれた。

 俺は急に気恥ずかしくなって目をそらし、おつまみを口に放り込んだ。


「そういえば、晴太くん、晴太くんの部屋に置いてある花の名前、知ってる?」

「いいや、なんて言うんだ?」

「カンパニュラ、花言葉は、熱心にやり遂げる」


 まりえは、ゆっくりとそう言った。

 彼女の言葉は、俺の心に優しく染み込んでいった。


「いいな。花言葉って、恋愛関係のものばっかりだと思ってた」

「うん。他にも、死、とか、復讐、とかいう花言葉の植物があったりするよ」

「なんだそれ、恐ろしいな」

「でしょ。花言葉って、調べてみると結構面白いよ」


 この後、まりえは変わった花言葉を色々と教えてくれて、俺たちはそれにくすくす笑い合いながら、その夜を過ごした。

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