第2話 火曜日
俺は、日の落ちかけた時間にマンション内の、自分の部屋に続く廊下を歩いていた。
今は、これが夢だとはっきりとわかる。この直前に、ベッドにもぐりこんだのをよく覚えているからだ。
もしかすると、これは昨晩の夢の続きなのかもしれない。わざわざ、同じ夢を見るとは、俺はどんだけ人肌寂しいんだと思いながらも、まりえと再び会えるのが楽しみだった。
昨日の朝、目を覚ました後に辺りを見回してみると、いつも通りのごちゃごちゃとした自分の部屋だった。当たり前の光景だったけれど、なんて汚いんだと自分で自分に落胆していた。
いつもと変わりないドアの前に立ち、一度深呼吸してからドアノブを握った。
「ただいまぁ~」
変に上ずった声を出してしまいながらドアを開けると、ふわっといい香りがしてきた。芳香剤の人工的ものではなく、自然な花の香りだ。
「おかえりー」
開いたままになっているリビングの入り口のドアから、エプロン姿でおたまを持ったまりえがひょっこりと顔を出した。キッチンの方向から、グツグツという音が聞こえている。
「今日は早かったね」
「ああ、病み上がりだから、早く帰れって…」
「ごめんね、もうちょっとしたらご飯出来るから」
「大丈夫だよ」
最初、まりえの顔を見たとき、心臓が一瞬跳ねあがった。
しかし、昨晩と違い、俺はまりえの存在を当たり前のように受け入れて、日常的な会話も交わすこともできた。
壁にドライフラワーがつるしてある玄関を上がり、自分の部屋に入った。
すっきりと片づけられた部屋で、服を着替える。現実の俺の部屋もこうだったらいいなぁと思いながら、そこから出た。
俺の部屋の隣りには、もう一つ部屋がある。そこは、いつもなら物置に使っている小さな部屋だった。でも、人一人くらいが暮らすことは可能だよな…と思いながら、そっとドアを開けた。
そこは、俺の荷物が一つもなくなっていて、いわゆる「女子の部屋」になっていた。目に映る色はすべて暖色、あちこちに花や鉢植えがあって、とどめはベッドの上に並んだぬいぐるみたち……。
なんだか、異世界を目にしてみたようで頭がくらくらとしてきたため、すぐにドアを閉めた。
夢の中で俺と暮らしている女性は、あんなに女子力キラキラな子だったのか。俺の部屋も綺麗にしてくれてたし、料理も上手だったし……。なんだか、自分が彼女と釣り合っていないようで、情けなくなってきた。
「晩ご飯出来たよー」
「わかったー」
まりえの言葉に答えながら、恋人のようなやり取りだなーと思いながら、リビングに向かった。
*
「はい、どうぞ」
「おおっ、うまそう」
まりえがカジュアルこたつの上に出してくれた、ほかほかのご飯と野菜たっぷりのポトフと名前は分からないがバジルとチキンを焼いたものが並んでいる。
実家にいるときも、こんなに豪華な夕食はなかなか出てこなかったぞ。感動に打ち震えている俺の前に、まりえが座り、手を合わせた。
「いただきます」
「あ、いただきます」
口にご飯や野菜を運びながら、やっぱり手作り料理はいいなぁーと、しみじみ思う。
自他ともに認める大雑把な俺だが、一人暮らしを始めたばかりの時は、食事ぐらい作れないといけないと思い、料理に手を出したことがある。だが、それはすぐに挫折してしまい、今は全く作らなくなり、キッチンの炊飯器は埃をかぶっていた。
だからと言うわけでもないが、俺も料理を作る大変さは、多少ながら分かっている。といっても、栄養バランスをとれたレシピを考えたり、二人分の材料を買ったり、したごしらえや味付けや盛り付けも苦労したんだろうなぁ、というような幼稚な感想しか出てこないが。
しかし、今のまりえからはそんな苦労を感じさせずに、俺が「うまい!」という度に嬉しそうに笑いかけてくる。きっと、俺の想像しているような苦労や大変さも楽しみに変えてしまうほど、家事をすることが好きなんだろう。
周りを見渡してみると、置いてある家具は現実の世界の俺のリビングと同じものだが、全て整理整頓と掃除もきっちりされていて、埃一つ落ちていない。いや、それが普通なんだが、なんだか変な感じだ。別に居心地が悪いわけではないのだが……。
たぶん、所々、いつもと違う場所があるからだろうな。ベランダ近くに置かれた観葉植物とか、花柄のカーテンとか、オレンジのチェックのテーブルクロスとか、こたつに飾られた花瓶とか。
こういうのは、まりえの趣味なんだろう。彼女の部屋にも、鉢植えがたくさんあったし。そんなことを考えながら、花瓶に活けられた花を眺めていると、まりえが嬉しそうに話しかけてきた。
「かわいいでしょ? これでも売れ残っちゃったものだから、貰ってきちゃったの」
「ああ。花とか、よく分からないけれど、なんだかリビングの雰囲気が変わったような気がするよ」
まりえの言葉から推測するに、彼女は花屋で働いているらしい。優しい彼女にピッタリな仕事のように思えた。
「あ、でもこの花は知ってるよ。チューリップだろ?」
「うん。大正解」
俺がピンク色のチューリップを指差してそう言うと、まりえは心から嬉しそうに笑った。
「そういえば、俺の部屋とかこことか、まりえが掃除しているのか?」
「うん。そうだよ」
「マジか…」
けろりとした顔で答えるまりえに対して、俺は大きなショックを受けて、箸でつまんだジャガイモを落としそうになってしまった。
俺の部屋も掃除されてしまったということは、俺のアレのコレクションとか、それを差し引いてもエログロな漫画とかも見られたのだろうな…。
硬直してしまった俺を見て、まりえは急に慌てだした。
「あ、大丈夫だよ! フィギュアはあまり触らないようにしているから! 埃かぶっていたら、ちょっと吹いたりしてるけど…」
「いや、そこじゃなくて…。お、おれの漫画とかは、」
「そこも大丈夫。晴太くんが勧めてくれたもの以外は見たりしていないから!」
俺はそれを聞いてほっとした。
夢の中の俺は、アレを持っていない聖人君主か、まりえが見て見ぬふりをしてくれる天使かのどっちかだろうな…。
あと、まりえの言葉から想像するに、彼女は俺の部屋を自由に出入りしてもいいってことになっているらしい。ということは、俺もまりえの部屋に行っても……だめだ、破廉恥な場面しか思い浮かばない。
俺は、無理やり「そうかそうか」と笑顔を作った。
「いつも、部屋を掃除してくれて、ありがとうな。俺、すぐ部屋を汚すから大変だろ」
「え? えーと、こういうのはもう慣れちゃっているし、私は朝早い代わりに、すぐ帰ってこれるから、暇つぶしも兼ねてやっているし…あ、ごめんね、なんか変な感じになっちゃって」
まりえは真っ赤になりながらも、微笑んでくれた。
なんて、気立てのいい子なんだろう。料理も上手いし、家事も完璧だし、俺にはもったいないくらいの素晴らしい恋人だ。…………これは夢だけど。
「私、仕事で早く出かけなきゃ行けないから、晴太くんと一緒に朝ご飯を食べたりできなし、お弁当も作ってあげられないから、せめてこれくらいしないとって思ってね……。どうしたの? なんか、泣きそうだよ?」
「え? あ、いや、俺は素敵な恋人がいたんだなぁって思って」
「ほ、褒めても、何にも出ないよ」
俺の本音交じりの言い訳に、もはや茹でられたタコのように真っ赤になりながら、必死にまりえは手を振って言った。
「それに、私なんかよりもずっと、素敵な人はたくさんいるし…」
まりえが急にそんなことを言い出し、俺は彼女にもっと自信を持ってほしいなぁと思った。
夢の中ならどんなキザなセリフでも言えるようになっている俺は、何とかまりえを励まそうと口を開いたが、それよりも先に彼女が俺の皿が空になっていることに気が付いて立ち上がった。
「あ、冷蔵庫にデザートのゼリーがあるんだった」
「なんだ、褒めたらなんか出てくるじゃん」
「そういう意味じゃないよ」
あははと明るい笑い声を弾ませながら、まりえはキッチンに向かっていった。
その背中を眺めているだけで、何とも言えない幸福感を感じていた。まりえと話している時ではなく、その会話の余韻を味わっているときに、俺たちは恋人同士なんだなぁと思える。
正直、俺はまりえが好きだと、はっきりと言いきることは出来ないが、彼女に対する愛情が生まれているのは確かだった。
また、まりえと会える夢が見れたらいいなと思えるくらいには、特別な存在になっていた。
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