何気ない夜

夢月七海

第1話 月曜日

 目が覚めると、自分の部屋だった。


 いや、それは可笑しくない。むしろ当たり前のことだ。…なのに、なぜこんなに違和感があるのだろうか?

 発熱した状態で、ぼんやりとした頭のまま、ベッドの上で上半身を起こして、自分の部屋を見回す。

 木の温もりが丸出しのドア、その隣のクローゼット、漫画とフィギュアが詰まった本棚、七時を刺した壁掛け時計、閉め切った藍色のカーテン…いつも通りだ。どこが違うんだ? と、ベッドの頭の上の所にある、小学生の時から使っている机の淵近くに、見慣れないものが置いてあった。

 それは、一つの鉢植えだった。小さな青紫の星形の花が、一斉に咲き誇っている。名前を知らない、でもどこか見たことあるような花で、なんだか可愛らしいなぁーと、微笑ましい気持ちになった。

 いやいやいやいや、和んでいる場合じゃない。俺は、こんな鉢植え買った覚えも、貰った覚えもない。一体、どこから来たんだ、これは?

 他にも、机の上をよくよく観察してみると、俺の使っているパソコンや会社から持ってきた書類などが、綺麗に整理されていた。机の上だけじゃない、本棚の前に散乱していた雑誌や、クローゼットの前で山積みにされていたはずの洋服が、みんな片づけられている。

 俺は、自慢にならないがズボラな性格で、一人暮らしを始めて、お袋にガミガミ言われないことをいいことに、ずっと自分の部屋を散らかるがままにしていた。

 実は、俺が熱を出したからお袋が来ていて、勝手に部屋を掃除したから? そうだとしても、この鉢植えを机の上に置いていく理由が分からない。そもそも、俺は熱が出したことが、意気揚々と実家を飛び出した手前、情けなくってお袋に知らせていない。

 そうだ、これは夢だ。そうに違いない。四十度近い熱を出してしまったことで、変な夢を見てしまったんだ。…頭の上から花の香りが微かに漂ってくるけど、気にしないでおこう。夢から覚める方法として正しいのかどうかは分からないが、俺はとりあえずもう一度横になり、目を閉じることにした。

 と、玄関の方でガチャガチャと鍵を開ける音がした。な、何!? と、体が硬くなる。俺は一人暮らしだし、会社の上司にしか熱が出たことを知らせていない。会社の上司が合い鍵を持っている訳が無い、それ以前に家の場所も知らないはずだ。そして、残念なことに…今の俺には恋人がいないから、彼女が見舞いに来たということは絶対にありえない。

 今さらながらその現実に凹んでいる俺をよそに、玄関のドアは開き、誰かが廊下を歩いてくる音がする。買い物帰りなのか、がさがさと袋がこすれる音がする。

 一体、誰が来るんだと、為す術なく怯えるだけの俺を余所に、無情にも部屋のドアは開けられた。


「ただいま~。ごめんね、待った?」


 そんなことを言いながら、ひとりの女性が俺の部屋に入ってきた。

 濃い茶色のセミロングの髪で、薄い青色のワンピースを着ている。黒目がちの丸い瞳が印象的な顔立ちだ。背は少し低い。特別綺麗、可愛いというわけではないが、親しみやすいという印象を受けた。


「スーパーが結構混んでてさ。お腹空いてるでしょ? すぐお粥作るからね」


 彼女は元々この部屋に置いてあった小さなテーブルに買い物用のエコバッグを、俺のいるベッドの前にポシェットを置いた。

 俺は、エコバッグの中を探る彼女を、まじまじと見つめた。


「プリン、買ってきたから、先に食べとく?」

「…どちら様でしょうか?」


 プリンをテーブルの上に出したその女性をに対して、俺はやっと疑問を発することができた。

 あまりに自然な立ち振る舞いに、知らない女性が自分の家に入ってきたという異様な光景を、受け入れてしまっていた。

 しかし、必死に記憶を辿ったが、全く思い出せない。名前を聞いたら思い出せるだろうか? いや、仮に知り合いだとしても、なぜ彼女が俺の家の鍵を持っていたのかという謎が残る。

 彼女は俺の方を見ると、悲しそうな顔をして首を傾げた。


「どうしたの? 恋人の顔も忘れちゃったの?」

「え? あ、いや、そういうわけじゃあ……」


 そんな顔をされてしまうと、これ以上追及できなくなってしまった。ここから出て行け! と叫ぶこともはばかれ、名前なんだっけ? ととぼける勇気も出せず、俺はなぜだか無理やり笑顔を作った。


「ははっ、冗談だよ、冗談」

「そうなの? よかったー。まだ熱があるのかと思ったよ。でも、もうちょっと寝てたら?」


 彼女はエコバッグを持つと、そのまま部屋を出て行った。


 

 ……一体何がどうなっているんだ? 自分の部屋に見覚えのない花が置いてあって、さらに室内が綺麗になっていて、見知らぬ女性が俺の恋人だと言う。高熱のせいで、記憶が混乱しているのか?

 俺の名前は、外沢晴太 《とのざわはるた》、二十五歳。地元のスーパーの会社でイベント企画の仕事をしているが、最近忙しいせいで高熱を出してしまい、今日は仕事を休んでいた。大学時代からこのマンションで一人暮らしをしている。そして、今日は十月六日、月曜日。…よし、大丈夫だ。そこは覚えている。

 もしかしたら、俺がおかしいんじゃなくて、この状況がおかしいのではないのか? 例えば、とてもリアルな夢だったりして。

 試しに、頬を思いっきりつねってみた。…痛くない。思いっきり、自分にビンタしてみた。…全然痛くない。

 なんだ、夢かぁ、と気づいてしまうと、一気に力が抜けた。結局、自分には彼女がいないままだった、ということが分かってしまうと、急にむなしくなった。

 冷静になってみると、昼間中俺を苦しめていた頭痛やのどの痛みが無くなっていることに、今さら気がついた。

 音とか匂いとかははっきり分かるのに、痛みだけが無くなっているのは、やっぱり変な感じだ。まあ、風邪で苦しめられている身としては、嬉しい限りだが。

 それはそうとして、あの女性の正体が、まだ分かっていない。有名人とか漫画のキャラクターとかではないし、自分の好みのタイプというわけでもないし…。

 ふと、ベッドの下にある、彼女の鞄が目に入った。この中に、免許書や携帯などが入っているのかもしれない。いや、だからと言って、人の持ち物を勝手にあさっていいのもか……。

 良心がそう忠告してきたが、夢だから関係ないだろと、思い切って鞄の中を開けた。ハンカチ、鍵、ヘアブラシ、よく分からない女性物の小物などの中に、財布が入っているのを見つけた。

 この中まで見ないといけないのか……と一瞬躊躇したが、どうにでもなれ! と、細長い茶色の財布を勢いよく開いた。

 俺、今最低なことをしてるなー……という嫌な気分になりながら、カード類を見ていく。そして、やっと免許書を見つけて取り出した。

 「木吉まりえ」…名前の欄には、そう書いてあった。だが、正直聞き覚えのない名前だ。生まれた年は俺と同じだった。載っている住所も、俺の実家と同じ市内だった。

 名前と顔をセットで見ても、結局思い出せなかった。やっぱり、俺の想像上の人物なのだろうな。その割には、細かい設定が決まっていたり、タイプと合致していなかったりが気になるが。

 もう少し、色々と調べて見たかったが、彼女がそろそろ戻ってくるのかもしれない。たとえ想像上の恋人だとしても、女性に嫌われるのはいやだよなと、すぐに鞄を元通りに直した。



 ガチャリとドアが開いて、お盆の上にお粥を乗せた彼女が、「お待たせしましたー」と満面の笑みを浮かべながら入ってきた。

 おいおい、俺のうちにお盆なんてあったのかよ? あー、なんかこぼしそうだなぁ。でも、お粥はうまそうだな。

 ベッドの上で寝転んでいた俺は、上半身を起こして彼女からお粥を受け取った。


「アツアツだから、気をつけて食べてね」

「ありがとう。いただきます」


 口の中に、スプーン一杯分のお粥を運ぶ。


「……うまい」


 味付けもほとんどされていない、シンプルなお粥だったが、できたての料理を食べるのが久しぶりなのと、昼間は一人で熱にうなされていたため、彼女の温かさが身に染みわたるようで、俺は泣き出しそうになってしまった。


「うまいよ、すごく、これ」

「それは、とっても空腹だったからだよ。そういえば、プリンも食べてないみたいだね」


 がつがつと動かしていた俺の手が、彼女の一言でぴたりと止まった。

 彼女の鞄の中を調べるのに夢中で、プリンのことを完全に忘れていた。なんか言って、ごまかさないと。


「えーと、あれはさ、まりえの料理が楽しみでさ、食べるのは後にしようと思って」

「えっ? そうなの? あ、ありがとう…」


 俺の、まるで少女マンガのセリフのような言い訳に、彼女は頬を赤くして、うつむいてしまった。

 俺はぽかんと、そんな様子の彼女を見つめた。

 なんで照れるんだ? あんなクサいセリフ、似合うのはイケメンだけだぞ? 中肉中背で、顔も普通…よりちょい下くらいのレベルの俺から、言われて嬉しいのか?

 俺の想像した彼女は、俺にベタ惚れなのか……そう考えると、余計に切なくなってきた。

 でも、名前の呼び方はまりえでよかったらしい。もし、まぁたんとかまりにゃんとか、変なあだ名で呼んでいたら、恥ずかしくて死にたくなるのかもしれない。


「ごちそうさま。あー、うまかった」

「どうもいたしまして」


 俺は空っぽになった皿の乗ったお盆をまりえに渡すと、彼女は心の底から嬉しそうな顔をして、それをテーブルの上に置いた。

 この夢では、味覚も満腹感もあるようだ。無いのは、痛覚ぐらいか…なんてリアルな夢なんだろう。膨れたお腹をなでながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。


「どう? まだ、熱ありそう?」

「ん? ああ、まだ、熱いかな」


 俺は自分のおでこに手を当てて答えた。

 その時、はっと気が付いた。これって、おでこごっつんこして熱を測るチャンスだったんじゃないか!

 俺はなんというミスをしてしまったんだ……。いや、いくら夢の中でもあんなことする奴いるわけないだろ、でも、もしかしたら可能性はゼロではなかったわけで……。

 一人凹んでいる俺を見て、まりえは勘違いしたらしく、心配そうな顔をしていた。


「やっぱり、体がだるいみたいだね。今夜はもう眠ったら?」

「うん、そうするよ」


 俺の言葉に、まりえは立ち上がった。

 ああ、何でこのタイミングで彼女ができる夢を見たんだろう。いや、熱出した心細さでこういう夢を見ているのかもしれないけどさ。できることなら、デートしている夢を見たかったなぁ。

 そんなことを情けなくうじうじ考えながら、体をベッドに横たえる。

 まりえは部屋の出入り口に立って、電気のスイッチに手を伸ばしたままこちらを向き、優しく微笑んでいた。


「じゃあ、おやすみ、晴太くん」

「おやすみ。まりえ」


 電気が消され、ドアが閉まった直後に、俺も目を閉じた。

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