あたしから
藤村 綾
あたしから
いつも待つばかりだった。彼の会いたいタイミングはあたしの都合などお構いなしで、気まぐれで電話をしてきた。それでも、辛うじて好きだったからあえるだけで嬉しくて、都合のいい女とはわかったいたけれど、危惧せず、彼に抱かれ、彼の仕事の愚痴を訊き、2時間だけあって帰る日が時折続いた。
あたしは風俗嬢だ。
彼もあたしが風俗嬢だということは知っている。出会いが風俗だったからだ。それでも、お客さんと、風俗嬢の垣根を越えあたしは彼に夢中になり、彼もまた、風俗嬢だからなんだよ。と、いいあたしを普通の女性として扱ってくれた。
お客さんの待つホテルに自分の車で行くあたしは、その日たまたま、待ち合わせの時間よりも珍しく早めに家を出た。自走(自分でホテルに行く)は気楽だ。店長からのメールが来たら、行けばいい。待機時間は何をしていてもいい。そんな余裕から、
「あやちゃんさ、もっと早くお客さんのところに行ってよね」
店長に何度も𠮟咤されたことがあり、その日はたまたま、早めに家を出た。いつもの道を通って。車で15分のホテルに行く。ナビの左下にある時計を見たら、19時32分だった。約束の時間は20時。よし、今日は叱られないですむ。車内の音楽はBluetooth経由でiPhoneと繋がっている、音楽が流れている。最近はなぜか、倖田來未の昔の歌がマイブームで、それにあわせ、口ずさんでいた。あと、5分で到着するところで、前から黒い車が走ってきた。あたしは、その角を右に曲がったタイミングでなぜか、胸騒ぎがし、対向してきた車のナンバープレートに目を向けた。あ、見覚えのある、ナンバーに足が震えた。暗い闇夜の中に浮かぶ横顔。メガネをかけていたけれど、あの、横顔。そして、間違えのないナンバープレート。
彼の車だった。そのまま、あたしはホテルの暖簾をくぐり、煩い心臓の音を宥めた。電話……。あ、でも、あっちは着信拒否をしている。メール……。あ、でも、もしかして、見間違いで、今自宅にいたらメールもまずいな。頭の中で定まらない思考が渦を巻き、そのまましばらく車から降りれないでいた。
《ちゃんちゃんちゃん》
Bluetoothに繋がったまま、着信音が車内に鳴り響きあたしは、ひどく驚いた。
彼からだった。
『はい』
『あ、さっき、すれ違ったね。すぐわかった』
声がとても疲弊していた。でも、なぜ、その道を?
『あ、客と打ち合わせ行ってた。その帰り』
『あ、そうなんだ』
やや、無言が続く。彼が何を言いたいのかが言わなくてもすぐにわかった。どうか、何も訊かれないよう。突っ込まれないよう。こんなところであった以上言い訳もできない。いい方、いい方考えてしまう。
『仕事なんだろ、まあ、どうでもいいけど、まあ、がんばって』
なしくずしな口調。まだ、風俗嬢をしていたんだ。という卑下した口調。どうでもいいんだ。やっぱり、どうでもいいって、ずっと思っていたんだ。だから、奥さんに怯え、あたしとの関係を早く終わせたかったんだ。都合のいいときだけ、連絡してきて。屈辱的だった。
『じゃあ、切る』
『あ、待って。いつ、会えるの?』
『しばらくは無理、また連絡する』
あ、言いかけたけれど、電話は既に切れていた。
神様はひどく意地悪だと思った。あたしが早く家を出なかったら彼に会わなかったはずなのに。たった数秒の差でどうして、あのホテル街であったのだろう。
全てがいやになる。死にたくなった。今からお客さんのところに行き、性を吸い出さないといけないのに。
風俗嬢なあたしが嫌いだ。風俗嬢でなく、普通な出会いだったら、もっと違っていたのかもしれない。
エンジンを切り、彼の着信履歴から彼の登録してある電話番号にいき、着信拒否設定にした。メールも送られて来ないよう、迷惑メール設定に切り替える。
なぜか、胸がスッとした。ついでに、あたしの電話帳から彼の電話番号・メールアドレスも消した。
終わったんだ。もう、連絡の術がない。
本当に終わった。もう、待たなくていいんだ。彼の電話を。彼の声を。彼の身体を。彼のぬくもりを。
「……や、や、いやー!」
外はごうごうと大きな音を立て風が吹いている。車が風に揺れるのがわかる。
あたしは、もう一度スマホを開き、彼の電話番号を確認する。
あるわけなどないのに。
「いやー、」
とても大きな声をあげ、叫び、滂沱するあたしは、肩を震わせ、ハンドルに頭を打ち付ける。
《ピロン》
メールが届く。店長からだった。
《まだ?もう時間過ぎてる》
《ついてます》
レスをかえし、泣きはらした目でお客さんの元に向かう。
雲がかかった空だった。月も星も見えない漆黒な世界。あたしの心の色と同じだ。
あたしから 藤村 綾 @aya1228
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