第65話 エピローグ 四

 エイコちゃんは私の手を引き、やたらと早足で歩いている。まるで怒っているかのように、スタスタと。

「えっエイコちゃんっ」

 私が話しかけると、エイコちゃんは突然「うぐぅっ」という声を漏らし、私の手を離して背中から壁に寄りかかった。そして腕で目元を隠し、ズルズルと、しゃがみこんでいく。

 口が開かれており、そこから見える歯は、食いしばられていた。

「うっうっ! ああああっ! うがあぁあっ!」

 エイコちゃんは、大きな大きな声で、泣いている。

 一刻も早くあの場所から離れ、泣きたかったんだという事に、鈍感な私はようやく、気が付いた。

「あああっ! あぐうぅっ! けいじぃっ! けいじぃっ!」

 こんな時、どうすればいいのかが、全く分からない。友達がフラれるという場面に遭遇した事が無いし、少女漫画やドラマは、大抵上手くいくもの。慰め方なんて、描かれていない。

 しかし、なんだろう、私の中で産まれてきている、この感情……エイコちゃんに寄り添い、肩を抱き、強く抱きしめたい衝動に、かられている。

「エイコちゃぁんっ……」

 私はエイコちゃんの隣にしゃがみ、小さなエイコちゃんの体をギュッと抱き寄せた。

 するとエイコちゃんは顔から腕をどけ、大きな大きな瞳を私へと向け、一瞬のうちに顔全体をクシャクシャにして、私の体を抱き返してくる。

「うあああああっ! ケイジ子供いたぁっ! ケイジ子供いたよぉっ! けいじぃーっ! なんでぇっ! なんでっ! ううううううっ!」

 そうだよな……エイコちゃんにとって一番のネックは、彼女の存在では無く子供の存在だろう。

 彼女と別れさえすれば、気の合う二人の事だ、いずれ付き合う事だって出来るかも知れない。年齢が多少離れてはいるが、たかだか五歳か六歳差。数年後には付き合える可能性は十分にあると、私は思う。

 しかし、子供が居るとなれば……。

 エイコちゃんから今の父親が、実の父親では無いと事前に聞かされていた私の胸は、張り裂けてしまいそうなほどに、苦しい。ただ話を聞いていただけの私でさえ、この有様なのだ。当人であるエイコちゃんは、もっともっと複雑な思いを、抱いている筈。

 それなのに、エイコちゃんは、最後まで笑顔であり続け、ケイジさんを工事現場まで見送っていたのだ……その心中は、張り裂ける所の話では済まないだろう。壊れてしまっても、おかしくはない。そう思う。

「ごめんねっ……ごめんねっ……私が希望持たせるような事、言っちゃったからっ……ごめんねぇっ……」

「サエちゃんのせいじゃないよぉーっ! サエちゃんのせいじゃないよぉーっ! うううぅぅっ! うぐぅっ! あああーっ!」

 誰のせいにも出来ないのは、馬鹿な私にだって分かる。

 だから今、エイコちゃんは仕方なく、泣いている。どこにもぶつけられない感情を抱きながら、仕方なく、仕方なく、泣いている。

「いっぱい、いっぱい、泣いてっ……私も付き合うからっ……エイコちゃんいっぱい泣いてっ」

「はがぁっ……! うううぅぅっ……! サエちゃぁんっ……! サエちゃぁんっ!」

 エイコちゃんはより強く、私を抱きしめた。私もエイコちゃんを強く抱きしめた。

「あああぅーっ! けいじぃーっ! なんでなんだよぉーっ!」

「うううぅぅっ……エイコちゃんっ……エイコちゃんっ……」

 私とエイコちゃんの泣き声が、やけに晴れ渡っている秋の空へと響き、強い風に乗って、どこかへと消えていく。

 エイコちゃんの胸に湧いた、どうしようも無い感情も、一緒に風に乗って消えてくれれば、いいのに。

 

 瞼を真っ赤に腫らせたエイコちゃんは、駅の券売機で切符を二枚購入し、そのうちの一つを私に渡した。

「はい、これ」

「あ、払うよ」

 私がそう言いながらポケットの小銭入れを取り出そうとするも、エイコちゃんは首を横に振って「お父さんから今日の分の交通費、貰ってるから」と言い、ポケットに入っていた私の手を引き抜いて、自分の手を繋げた。

「サエちゃんが持つのは切符と僕の手でしょ」

 エイコちゃんの顔は号泣したせいか、耳までもが真っ赤になっている。しかしそれでも私にこれ以上心配させないためか、ニッコリと微笑みながら私の手を引き、改札を通った。

「切符入れる時って緊張するよねっ」

「……うん、分かる」

「あ、そうそう。この駅のさ、あそこらへんで、セイヤに刺されたんだよ。痛くて痛くてさぁ、血まみれになって地面這いつくばってたよ」

「……そうなんだ」

「うん。その時さぁ、どこかのお姉さんに挑発するなーって怒鳴られてさ。すっごく腹が立って、怒鳴り返しちゃったんだよねぇ。申し訳ない事したなー」

 エイコちゃんの軽口は、続く。きっと私が気を使わせているのだろうなと、思う。

 それでも、私はエイコちゃんの手を、離す事が出来ない。エイコちゃんのために私が出来る事を、必死に探している。正直、エイコちゃんの話はそんなに、頭に入ってこない。

 ……私に何が出来るのだろう。

「顔は覚えてるんだよ。いつかその人に会えたら、ちゃんと謝りたいな……僕の言葉を受けてセイヤがさ、凄く暴れて、凄い大きな声で怒鳴ってたからさ……怖かったんだと、思うんだよ」

「偉いね」

「偉くないよー。偉い子なら、大人しくしてると思う」

「そんな事、出来ないでしょ」

「んー、僕は出来なかったなぁ。偉くないから」

 エイコちゃんに出来ない事が、他の子に出来るとは、思えない。

 エイコちゃんはやっぱり、凄い子だから。私が知る限り世界一の、小学六年生だから。

 そんな子に対して、私が出来る事……そんなもの、無いのかも。


 一駅だけ電車に乗り、この町の繁華街と呼べる場所へと私達はやってきた。どうやら駅前にあるショッピングモール内の美容院で、エイコちゃんがカヨネェと呼ぶ人が働いているらしい。

 エイコちゃんに引っ張られるまま私は歩き、その美容院の前までやってきた。美容院の前にはこの店でカットしてもらったのであろう人々の写真がコルクボードで張り出されており、私はすぐに「あっ!」という大きな声を上げてしまう。

 そのコルクボードのど真ん中。一番目立つ場所。そこにはエイコちゃんの写真が、飾られてあった。

 しかも、なんだろう……写真のエイコちゃんは間違いなくエイコちゃんなのだが、雰囲気がとても柔らかく、暖かく、綺麗に、見える。その美しさは、他の写真に写っている綺麗な大人の女性達に、決して負けていない。

 凄すぎる……正に美少女。別世界の人間のように思えて仕方がない。

「うわぁー……カヨネェ一番目立つ所に貼ってる」

「ホント、目立つね」

「恥ずかしいなぁもう」

 エイコちゃんは困った表情を作りながら自分の写真の画鋲を抜き、隅っこのほうへと貼り直した。

 やはり恥ずかしいものなのだろうか……このような経験、した事が無いので分からない。

「あっ! こらぁエイコッ! 何やってんのっ!」

 突然、お店の中から大きな声が聞こえてきて、バタバタと足音を立てながら長身な女性が走ってきた。

 黒いロングヘアーがとても似合っている、スレンダーで、足の長い、綺麗な人が、エイコちゃんの写真の画鋲を抜き、元の場所へと戻している。

 まず間違いなく、この女性がカヨネェなのだろう。エイコちゃんの頭をペチッと叩きながら「メッ! 悪い子!」と、注意しながらも、柔らかな笑顔をエイコちゃんに向けていた。

「だって、こんな目立つ所に貼る事ないじゃんか」

「いいのいいの。これは自慢してるの」

「自慢て?」

「メチャ可愛い子の髪型をメチャ似合うように、私が切りました! ってね」

「メチャ可愛い子ではないよ」

「じゃあ、メチャクチャ可愛い子だね」

 そう言いながらカヨネェはエイコちゃんの頭に手を置き、二度ほど髪の毛の間に指を通すように、撫でた。それを受けてエイコちゃんは目を細め、嬉しそうな笑顔をカヨネェへと向けている。

 二人の外見が美しいという共通点から、その姿は本物の姉妹のように見えてしまう。まるで絵画のよう。

「それはそうと、この子が電話で言ってたサエちゃんだね?」

 エイコちゃんの頭を撫でていた手を止め、カヨネェは私のほうへと振り向き、笑顔を向けてくれる。

 その表情に毒気は無く、ケイジさん以上に人の良さそうな顔に、私は見とれてしまった。

「あ、うん、そうだよ。良い子そうでしょ?」

「うんうん、良い子そうだけど、髪の毛を切ったらもっと可愛くなりそう」

 カヨネェさんは両手の指をチョキの形にして、私の髪の毛に当て「ちょきちょきーん」という可愛らしい声を上げた。

「あっ……私、今日は髪の毛切るつもりじゃあ……」

「あははっ。分かってるよ。それにエイコの友達なら、プライベートで切ってあげるからさ。もちろん無料で」

 カヨネェは私の頭にも手を乗せて、優しい力で私の髪の毛をかき分けた。そしてたったそれだけの行動で、私の中にある人見知りな部分を掻い潜り、警戒心を取り払ってしまった。私は今、もう嬉しい気分に、なっている。

 ……凄い人だ。距離の縮め方が見事過ぎる。私自身、既にカヨネェの事が好きになってしまった。

「サエちゃんほっぺた赤くなってる。惚れたでしょ?」

 エイコちゃんは嫌らしい声を上げ、私の肩に自身の肘を押し付け、ニヤニヤと笑っている。

 なんだか図星を付かれた気分になってしまい、私の心臓はドキンと跳ね上がった。

「えっ! ほ……惚れたっていうか……き……綺麗で優しい人だなぁって」

「そうなんだよー! 凄くいい人でさ、僕のお姉さんに任命したんだよ!」

「おぉっ? エイコは本当に上からモノ言うなー。最初話した時はあんなにガチガチになってたのに」

 カヨネェは「ふははは」と笑い、エイコちゃんの頭をペチペチと叩いた。

 それを受けたエイコちゃんも「ふははは」と笑い、自身の後頭部を二回、ポンポンと叩く。


 確かにこの底なしに人の良さそうな人なら、エイコちゃんの支えになってくれていたのも頷ける。

 だってエイコちゃんとこんなに仲の良いカヨネェは、エイコちゃんの色々な事情を、知らない筈が無い。電話で聞かされているに決まっている。

 父親と血が繋がっていないだとか、母親が帰ってこないだとか、イジメを受けていただとか、セイヤくんに刺されただとか……絶対に知っている筈だ。

 しかしその事には一切触れず、ただエイコちゃんと私を、笑顔にしてくれた。凄く凄く、気を使っているのだと、私は思う。

 なんだか天女のように、見えてきた。そして私も、そうなりたいと、思ってしまった。

 カヨネェのようになれば、エイコちゃんの力になれるのかも知れない。カヨネェを目指したい。そう強く、強く、思う。

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