サエ 十月中旬

第62話 エピローグ 一

 エイコちゃんは、以前と少し変わっていた。

 肩まで伸びていた髪の毛を切り、以前よりもさらに元気な子というイメージを持たせる容姿になったにも関わらず、シャツとハーフパンツという今までの服装をしていない。マッドな色彩のカーディガンに、マッドな色彩の多少長いスカートという、大人びたものとなっている。

 しかし不思議とそこに違和感は無く、短くなった髪型にとても似合っていて、なんだかとても、落ち着いて、そして大きく、見えた。

 待ち合わせしていたエイコちゃん自身の家の前で彼女はしゃがんでおり、短い木の棒を手に持ちながら、土のある地面に何かを書いている。一体、何を書いているのだろうと思い、私は足音を立てないように、エイコちゃんへとソッと近づく。

「おっ? サエちゃん来たんだねー」

 どうやら私の気配かわずかな物音に気が付いたエイコちゃんは器用に足を動かし、しゃがんだ状態のまま私のほうへと振り向いた。それと同時に、書いていた文字を足で消してしまっていた。

 私の姿を見つめたエイコちゃんの表情は、とても朗らか。今までのパァと明るい太陽のような笑顔とは違い、その表情の中には、太陽とは別の、新しいものが含まれているような。そんな気がする。

「うん。エイコちゃん、何書いてたの?」

「え? んー」

 エイコちゃんは立ち上がり、木の棒をポイと地面に捨てて、スカートの形を整える。

「大事な事」

「大事な事を、足で消したの?」

 私がそう言うと、エイコちゃんは右手を頭の後ろに持っていき、ポンポンと二度叩いて「あはは」と、いつもの明るい笑い声をあげた。

 そして下唇を口の中へと入れ軽く噛み、私の目をチラリと見つめる。

「だってなんか、見られるの恥ずかしい」

 エイコちゃんは自分の右手を、私の左手に優しく触れさせて、優しく手を取り、引っ張った。

「さぁ、いこうっ!」

 元気よく声を上げ、左肩に下げているトートバッグをカチャカチャ鳴らしながら、エイコちゃんはまるでスキップをするように、歩きだす。私もそれに習うように、エイコちゃんの満面の笑みを見つめながら、スキップをした。

 空が薄く青く高くに、見える。日差しも弱く、風も涼しい。私が苦手とする虫も、あまり見なくなった。

 もう本当に、秋なんだなぁと思い、平和な今という時間を、堪能した。


 電話で「人が怖い」と打ち明けてくれたいつだかの夜、私はとても不安になり「私も怖い?」と、聞き返してしまった。するとエイコちゃんは「僕の中で、怖くない特別な人が四人居る」と、答えてくれた。

 その中に、私が入っていた。その時の嬉しさたるや、物凄かった。天にも登る気持ちとは、あの事を言うのだと思う。

 そして今日は、私以外の三人の人達に会いに行こうと、約束していた。台風が近づいているので多少不安はあったのだが、空気の湿りも感じず、いい天気に恵まれた。

「いい天気だね」

 私が何の気なしにそう言うと、エイコちゃんは私の目を見て「いい天気で助かったよ」と、胸を撫で下ろすようなジェスチャーをする。

「いい天気じゃないとね、最初の人に会えないから」

「……そうなの?」

「うん。多分ね。詳しくは分からないけど」

 そうなのか……なんだか、謎な感じだ。

「それは、どうして?」

「んー……説明するのもアレだし、到着すれば分かるよ。というか……到着したし」

 エイコちゃんは少し視線をキョロキョロとさせ、唇をギュッと結んでいる。

 心なしか、頬を赤らめているようにも、見えるのだが……。

「僕ね」

「ん?」

 エイコちゃんは立ち止まり、左手の人差し指を立てて、公園の近くにある、空き地を指差した。

 どうやら今、工事をしているらしい。ダンプ車やコンクリートをかき混ぜるような大きな車が所狭しと、停まっている。

 どうやらエイコちゃんは、その空き地の中に居る、頭に白いタオルを巻いた、汚いタンクトップを着ている、やたらと筋肉がムキムキな若い男性を、指差しているようだ。

「あの人が、好きなんだ」

「……えっ!」

 好きと……言ったのか?

 今、エイコちゃんは、好きと……?

 私は思わずエイコちゃんとムキムキ男の顔を、見比べる。

 ……確かに、身長は低いが男前ではある。目が大きく幼い顔をしており、格好いいというより、可愛いという印象を受けるし、毒気が無い。表情に人の良さがにじみ出ている。幼いのに大人……といった感じだろうか。

 しかし、これみよがしなほどに、ムキムキ。ギャップが凄い。凄いというか、酷い。

 そうか……ああいったタイプが、エイコちゃんの好きなタイプなのか。クラスにはああいう感じの人は、居ない。先生の中にも、ちょっと居ない。

 というか、居る訳が無い。

「ほぁー……そっか……いいね」

 私が言葉に困り果てた末にそう言うと、エイコちゃんは一瞬にしてパァと明るい表情を作った。今までのエイコちゃんそのものといった、笑顔。太陽に見える。

「あっ! 分かるっ? わかるんだーっ! いひひーあの人、すっごく可愛いんだよっ! 一回話した事あるんだよっ! んもぉーすぅーっごくキュートだった! 落ち着いてるフリするんだけど、動揺してるのがバレバレでねっ! 挙動不審になるのっ! チョーキュート! チョーラブリー! ラブリーケイジ!」

 とても嬉しそうにピョンピョンと飛び跳ねて、もの凄い量の言葉を浴びせてくるエイコちゃんの印象は、水を得た魚……いや、水揚げされた魚だろうか。凄く、元気がいい。

 本当に、好きなんだろうな……だから今日はこんなに綺麗で大人びた格好を、しているのだろうな。

 今まで男の人を弄ぶかのようにからかっていて、本気で好きになるなんて事が全く無かったエイコちゃんが、これほどの好意を寄せているという事に、なんだか安心にも似た感情が湧いてくるのだが……それでもちょっと、歪んでいるように、思えなくもない。

「はは……動揺して挙動不審になっているのを、まるで楽しんでいたかのように語るのは、どうかなって思うけど」

「うっ……また言われてしまったっ……いやぁー、悪い癖だっていうのは、分かってるんだけどね」

 エイコちゃんは自身の頭をポンポンと二度、叩く。

 その行動は、一体何なのだろうな。以前のエイコちゃんにはそのようなクセ、無かった筈だ。

「サエちゃんには嘘、付きたくないし、何でも話したいって、思っちゃって。ごめんごめん、からかうのはダメ! 絶対! ね?」

「うん、そうだね」

「うんうん、分かってる分かってる。分かってるんだけど……オドオドしてる時のお兄さん、チョー可愛いんだよなぁーっ! 見たいなーっ!」

「エイコちゃんはドエスだね」

「ドエスかもー!」

 エイコちゃんはとてもテンションが上がっていて、笑顔と言葉が絶えない。一向に落ち着く気配を見せず、ついには体をクネクネと動かし始めた。

 そんなエイコちゃんを見ていると、なんだか私も嬉しくなってしまい、元気が湧いてくる。そして元々私は、皆を照らし出す太陽のようなエイコちゃんに憧れていたという事を、思い出す。

 エイコちゃんに気がある多数の男子がこの話を聞いたら、むしろ元気を無くすだろうが、幸い私は女であり、エイコちゃんは憧れの存在というだけの事。驚きはしたが、落ち込んでいない。

「でねでねーっ! 今日僕、ケイジお兄さんに彼女がいるかどうか聞いちゃおうかなって思ってるっ!」

「えっ。居なかったら、どうするの? あ、居たら、どうするの? どっちにしろ、どうするつもりなの?」

「えーっ? そんなのわかんないよっ。だけど、どーしても知りたいんだ。どーしても」

 エイコちゃんはそう言いながら、私の手を引っ張りながらトコトコと歩きだし、工事現場へと近づいていく。

 人が怖いとか言ってたくせに、物怖じとか、しないのだろうか……エイコちゃんは目をキラキラと輝かせながら、空いているほうの手をヒラヒラと振った。

 するとどうやら、ケイジお兄さんと呼ばれたムキムキマンはエイコちゃんに気付いたらしく、少し驚いた表情を一瞬作るも、直ぐに軽く微笑みを浮かべて、エイコちゃんに向けて軽く手を振り返す。

 やっぱり、人は良いように見える。手を振りつつも作業の手は決して止めず、あくせくと動き回っていた。

「覚えててくれてたみたい。嬉しいな」

「そうみたい、だね。良かったね」

「うん。本当に良かった……最後に会ってから結構日が経ってるし、僕、最後にね……ケイジお兄さんに、ちょっと嫌な事を言っちゃったんだ。吐き捨てるようにさ……だから笑顔を見せてくれて、嬉しかった」

 エイコちゃんは瞼を半分だけ閉じて、目を細めるようにしてムキムキマンを見つめている。

 その表情は完ぺき、恋する乙女のものだった。サッカーの試合をしている片思いの彼が、格好良くゴールを決めた時に向けるような、そんな熱烈な視線を、送り続けている。

 相手は小汚い格好を更にドロドロにさせながら、働いている社会人だと言うのに。エイコちゃんはやっぱり、普通じゃない。少し変わっている。

「まぁとりあえず今はこれくらいにして、秘密基地跡地に行こっか。チャキマルのお墓に、お供え物したいんだ」

「あ……うん。行こう」

 エイコちゃんは再び私の手を引っ張り、歩き出した。

 私はチラリと、ムキムキマンのほうを見つめる。彼の動きは、テキパキしているけれど、どこかぎこちなく、私の目には映った。


 森林の中へと入ると、飛び交う虫が少なくなったのはいい事なのだが、生い茂る木々が太陽の光を遮り、流石に肌寒いと感じる。

 つい先日まで真夏のように暑かったのが嘘のように、この間降った大雨が夏を一気に奪い取っていったかのよう。

「サエちゃんはさ」

 秘密基地跡地にたどり着く手前で、エイコちゃんが口を開いた。

「あんまりあの場所、好きじゃないと思うんだよ。トラウマのようなものを、植え付けちゃったかなって、思ってる」

 エイコちゃんの声には、先程までの元気が無い。

 暗いという訳では無いのだが、なんだろう……感情を押し殺しているような、そんな声を、している。

「あっ……そんな事は、無いよ」

「サエちゃんならそう言うだろうと思ってた。だけどさ、実際どうだったのかを、僕は知りたい。虫の沢山の死骸と、腐りかけの猫の死体がある、秘密基地に案内された時、どう思った?」

 エイコちゃんの声が、とても張りつめたものに、なっている。心なしか歩くスピードも落ちてきているように感じ、エイコちゃんは今、勇気を出してこの話を切り出したんだと、思わされた。

 正直に、言おう。

「……気味、悪かった。エイコちゃんが、怖かった」

「だよね。そりゃそうだよね」

「あの臭い秘密基地の中で、猫ちゃんの死体を横に赤ちゃん抱いてるエイコちゃんが、本当に嬉しそうに見えて……不気味で……これが夢なら、どんなにいいかって、本気で思ってた」

「だよねぇだよねぇっ」

「猫ちゃんの説明、してくれたけど、その時は頭に、入ってこなかった。赤ちゃんが捨てられてたっていう説明は、全然信じてなかった」

「うんっ……仕方ないねっ気持ち悪いもんねっ」

「もう、どうしていいか分からなくて、直ぐに親に、打ち明けたんだ……次の日はショックで、学校行けなかった」

「そうだよっ……そりゃそうだよっ。僕が悪いっ」

「それは違うよ」

「僕が悪いよっ!」

 ……エイコちゃんが、大声を上げた。

 突然の事で、私は驚いてしまい、思わずエイコちゃんの手を離してしまう。

 私は立ち止まり、エイコちゃんも、立ち止まる。

 ……エイコちゃんは、私より数歩先に居て、背中を丸めながらプルプルと、震えていた。

「えっ……エイコちゃん?」

「……ごめんっ、僕、なんかっ……頭おかしくなってきてるっ、なんかっ……サエちゃんと仲良くなりたいのに……サエちゃんの優しさが、なんか辛いのっ」

 エイコちゃんは私のほうへと振り向いて、私の顔を見つめた。

 エイコちゃんの目は真っ赤になっており、そこから沢山の、涙が流れ出ている。

「サエちゃんのその、違うっていう言葉に、凄く、傷つくよぉっ。僕を思ってそう言ってくれてるんだって分かってるけどっ……なんか嘘つかれてるみたいに、思っちゃうんだよぉっ……だからむしろ、僕をもっと責めてくれたほうが、安心するのっ……ごめんねっ僕っ……本当に頭がおかしくなってるっ……僕っもう本当に、普通じゃないっ……」

 エイコちゃんは頭を抱え、その場にしゃがみこんでしまった。

 そしてそのまま地面を見つめ、ブルブルと、大きく体を震わせている。

 ……たしかに、普通じゃない。エイコちゃんは、おかしい。おかしくなっている。

 でも、それも、無理の無い事なんだろう……私なんかでは想像も出来ないような事を、小六という幼い年齢で、それも短期間のうちに体験してきてしまったのだ。

 心療内科に通っていると、電話で言っていた。これでも回復してきていると、言っていた。

 きっと、エイコちゃんが完全に立ち直るまでには、まだ時間がかかるのだろうな……そんな風に、思う。

「それは、エイコちゃんが、優しいから……そう思うんじゃないかなって、私、思うけど」

 私はエイコちゃんに近づき、隣でしゃがみ込む。

「確かにエイコちゃん、おかしいけど。でもきっと今、エイコちゃん私に、気を使ってるんだよ。私に与えたって思ってるトラウマというか、嫌な感情というか……それを全部私から抜き出して、私をクリーンな状態にしたいって思ってると、思うっていうか……なんて言えばいいか、分からないけど……私はなんか、そんな気がしたよ」

 私は俯いているエイコちゃんの背中に、手を置いた。

「だから、本当の本当の事を言うけど、今の私は別に、あの時の事は、気にしてないよ」

「んうぅっ……」

「嘘なんかついてないからね。本当の本当の本当に、気にしてない。気にしてたら、こうして一緒に、ここに来てないよ」

「……サエちゃんは、変わったねっ」

 エイコちゃんの、流れを完全に無視した突然の言葉に、私は少し、混乱する。

 変わった……? 何を言っているのかが、良く分からない。

「……いー女に、なったもんだぜっ」

 エイコちゃんは顔を上げ、無理やり作っているのがバレバレの笑顔を、私に見せてくれた。

 涙がキラキラと木漏れ日を反射させて、綺麗に綺麗に、地面へと落ちていく。

 エイコちゃんは、泣き顔も、笑顔も、綺麗だ。儚げ……とでも言えばいいのだろうか。まるで触ったら壊れてしまいそうな飴細工のように繊細で、ピカピカしている。

 そして、冗談なのか本気なのかは分からないが、エイコちゃんの言葉に、私は、心から喜んでいた。

 遠慮がちだと思っていた私の心は、エイコちゃんの言葉を、そのまま素直に、受け入れていた。


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