第37話 焼肉
家に帰ると、何故かリビングに父親が居て、雑巾を片手にリビングの掃除をしている。少し驚いた僕に対して、父親はとても小さな声で「おかえり」と、呟いた。
今までの事、そして今朝の事もあり、僕はなんだか居心地の悪さを感じ、父親の挨拶を無視する形で、そそくさと自室へと入る。
部屋の時計へと視線を向けると、時間はまだ夜の七時を回っていない。父親はどんなに早くても、午後八時より遅くに帰ってきていた。
何かあったのだろうか……なんて事を考えてしまう。そしてあの親に対して思考を巡らせている自分に気付き、僕は自身の頬をペシンと叩いた。
別にもう、構わないんじゃなかったのか? と、自分を戒める。
机に座り、ノートに今日の出来事を書き記していたその時、僕の部屋の扉がコンコンとノックされる。ほんの少し驚いたものの、僕は扉のほうへと振り返り、とても冷たい声で「何?」という声を発した。
「飯……食いに行くぞ」
父親の、ちょっとした騒音にも掻き消されてしまいそうなほどの小さな声が、聞こえてきた。
何故、母親では無く、父親がそんな事を言いに来るのか? 今まで一度だって、僕を晩ご飯に誘った事など無い。
「お母さんは? 晩ご飯作ってないの?」
「……出てった」
父親のその言葉を聞いた瞬間、僕の心臓はガッと冷たい手で掴まれてしまったかのような感覚に、陥った。
出ていった……という事は、今この家に、僕と父親しか居ない……という事か?
父親がまた、我を失い、僕に対して暴力を振るってきたとしたら、そしてそれが万が一、打ち所が悪かったとしたら。僕を死から守る人は、誰もいない。
傷付くのも、苦しいのも、ケイジお兄さんやカヨネェの事を思えば、いくらでも我慢出来ると思っていた。今書いていた日記のようなものにも、そのように書いていた所。それくらいに、僕の心境は良かったのだ。
それなのに……死んでしまっては、駄目だ。死んでしまうという事は、全てを失うという事。
「なっ……なんでっ!」
僕は思わず、大声を上げた。
すると父親は、またしても小さな声で「その事で、話がある」と、僕の部屋の扉を開けようとしているのか、ドアノブがカチャという音を立てた。
凄く嫌だ。この部屋にあの男が入ってくるのが、すごく嫌。
思えばこの部屋でしか、あの男は僕に暴力を振るっていない。きっとこの部屋にはあの男をおかしくする、何かがある。
いや、そんなモノが無いとしても、逃げ場が無く、狭いこの部屋であの男と二人っきりというものは、耐えられない。
僕は弾かれるように立ち上がり、そのままの勢いで扉を抑える。そして「入らないで!」と、大きな声で叫んだ。
「あっ。あぁ、すまないっ……すまないというか、ごめんな、エイコ」
なんだ? 一体、何があったんだ? この男の態度の変貌ぶりは、本当に一体、何だ?
どうにも分からない事だらけだ……話を聞いてみても、いいかも知れない。
「……何があったの? なんでお母さん、出ていったの?」
僕のその声を受けて、父親は「あぁ……」という声を漏らす。
「腹、減らないか? ご飯、食べに行こう。周りに人が居たほうが、お前……エイコも、安心するだろ。その時に、話す」
……人は未だに苦手だが、父親の暴力に比べると、いくらかマシだろうか。
「わかった。ご飯行く」
「何、食べたい? 何でもいいぞ」
「……焼肉」
「あぁ……行こう」
僕はそっとドアノブを回し、部屋の扉を開いく。するとそこには、情けない表情で僕の顔を見つめている、父親が立っていた。
情けない……あぁ、情けない……のだが、その瞳に、敵意も殺意も、含まれていない事だけは、分かった。
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