第16話 もうだめだ

 僕が何度も何度も便器に向かって胃液を吐き、もう水分なんて一滴も出ないというのに吐き続けていると、僕が入っている個室をドンドンと、乱暴に乱暴に叩く音が聞こえてきた。

 僕の体はビクンと跳ね、反射的に個室の扉とは反対方向に身を寄せる。

「はっ! はっ!」

 僕の息は、乱れている。今までの人生で一番、乱れている。

 マラソン大会の女子の部で一位を獲った時も、百メートル走で一位を獲った時も、これほど息が乱れる事は無かった。

「宮田、いるんだろ? 開けて出てきなさい」

 担任の先生の声が聞こえてきた。男だと言うのに、何故女子トイレなんかに入ってきているんだ?

「なんで先生がっ! なんでっ!」

 僕は訳も分からず、興奮している。無意味に声が大きくなり、まるで怒鳴っているかのよう。

「クラスの皆が先生を職員室まで呼びに来たんだ。皆心配してるから、早く出てこい」

 心配?

 皆、心配?

 違う。分かってる。僕がいつまでもトイレで気持ち悪い事をしているから、早く出て行って欲しいだけなんだ。僕が邪魔なんだ。気持ち悪いから。

「出てってどうすればいいの!」

「いつも通り授業を受けろ。そのために学校に来てるんだろ」

「いつも通りじゃなくなったらどうすればいいの!」

「……いつも通りだよ。いつも通りじゃないのは、宮田だろ? 皆、心配してるって」

「嘘嘘っ! 嘘ばっかり! 皆僕が嫌いなんでしょ! 皆僕の事気持ち悪いって思ってる! 僕だって僕の事気持ち悪いって思ってるっ!」

「……一日無視されたくらいで、何言ってんだ」

 

 先生の言葉を受けて、視界が狭まり、音が遠くなり、ついには目の前から色が消える。


「宮田はクラスの中心人物だろ? すぐに信頼回復出来るって」

「……嘘なんでしょ? 皆、心配してるって……」

 僕の言葉に、先生は返事をしない。

 その変わりに先生はまた、扉をドンドンと、力強く叩いた。苛ついているのが分かる。

「だって……先生以外の声、聞こえないもん。心配してるなら、そこに居る筈でしょ? 心配する声、聞こえる筈だもん……何も聞こえないもん……聞こえないんだもん、嘘だって、バレバレだよ、先生……」

「……少しくらい無視されたって、また仲良くなっていけばいいだろ。宮田なら出来るよ。な?」

 無責任な事を、言うな。

 お前は今、僕をこの場所から引きずり出したいだけなんだろ。

 一日にして問題児になった僕が、更に問題を起こす事を恐れているだけだろ。

 教頭にでも怒られるのか? 減給されるのか? その両方か?

 お前は、僕を助けるつもりなんて無い。お前がしている心配は、自分の事だけだ。

 だって、さっきから、僕を元気付けるような言葉、言わないじゃないか。僕が感じている事を、理解しようとしないじゃないか。

 透けて見えてるよ、先生。

「あは」

 僕は笑いながら、立ち上がった。

 そしてドンドンと叩かれている扉の鍵を開ける。

 何か言っている先生の横をすり抜け、僕は手を洗い、顔を洗い、トイレを出た。

 トイレの中にも外にも、クラスの人間は誰一人、居なかった。

 やっぱりな。と、思った。


 教室の扉を開くと、一斉に全員が僕を見つめた。

 僕は自分の席へと向かい、歩き出す。

 机の後ろに立ち、椅子を引き出した。

 するとそこには、小さな赤ちゃんの人形が置かれていた。

 僕の体は、地面に横たわった

 僕の視界は真っ黒になった。

 僕はきっと、もうだめだ。

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