第31話 誤解と別れ
湊の文化祭も終わり。
冷え込む日が多くなり冬が目の前にやってきていた。
「神流君、今日は支社長を借りるわよ」
「女子会でしたね。最近は社内とのコミュニケーションも円滑だし良い事じゃないですか」
「鬼が居ない間に飲みに行っちゃ駄目よ」
坂上さんに弄られていると支社長室から支社長が出てきた。
「私は鬼じゃありません。たまには未来君も息抜きしてくればいいわ」
「そんな予定も相手も居る訳ないじゃないですか」
「それじゃ行くわよ」
水神商事東京支社の女子会に珍しく支社長が参加する事になって女子社員が盛り上がっている。
それは良い事だと思うし支社長にも楽しんでもらいたいと思った。
そしてノルンでも長年勤めていた社員が退職するので送別会をすると言っていたが水神商事の方に仕事を完全にシフトしていたので参加しない事を姉に伝えていた。
「それじゃ、お先に失礼します」
「お疲れ様」
いつ以来だろう独りで帰るのは。不思議な感覚の中で夕食は何にしようかと考えていた。
「未来、ママは女子会だっけ。寂しい?」
「あのな俺は子どもじゃなんだぞ」
「未来さんも私と湊の事なんて気にしないで飲みに行けばいいのに」
「機会があればな」
いつもの様にリビングのソファーで他愛ない話をしていると湊の携帯が着信を告げて湊が慌てて携帯を持って立ち上がった。
「林君かな?」
「違うよ、未来のバカ。織姫お姉さんだよ、未来を借りたいって」
「はぁ? ヒメ姉が」
俺の携帯に直接掛けてこないのは湊と渚の事を考えてなのだろう。湊から携帯を受け取り取り敢えず用件を聞く。
「織姫お姉さんなんだって?」
「酔い潰れた社員がいて手に負えないから手伝いに来いって。ちょっと出てくるから先に寝ててくれ」
「うん、大丈夫。留守番の達人だからな。ママが先に帰ってきたら伝えておくから」
「悪いな」
ヒメ姉が指定した場所は普段は行くことがない繁華街の一角だった。
確か最近噂の美味しいもつ鍋のお店があったはずだ。
「ゴメンね、未来」
「何だってこんなになるまで飲ませたんだよ」
「だって知らない間に勝手に酔い潰れていたんだもん」
「もんじゃねえだろうが。先に出てるからな」
ノルンに最近入社したばかりの若い女子社員の体を支えながら先に店を出る。
酔い潰れて眠ってしまっているので姉達では手に負えなかったのだろう。
「未来、タクシーを拾っておいて」
「はいはい」
大の男でも酔い潰れた女の人を連れて歩くのはかなりの重労働で、彼女に声を掛けながら通りでタクシーに手を上げる。
「未来君、あなた……」
「汐さん、何でこんな所に。それに……」
汐さんの声がして驚いて振り返ると汐さんの横にはアフターに汐さんを誘っていたあの男性社員が立っていた。
そして俺は酔い潰れた女性社員を抱きかかえている。誤解を解こうとすると汐さんの顔が険しくなった。
「榊君、行くわよ」
榊と言う男性社員の腕に自分の腕をからませて汐さんが雑居ビルの地下に向かう階段を下りて行ってしまった。
あまりにも自然に見えて追いかける事すら出来なかった。
「未来、今の汐さんじゃないの?」
「会社の飲み会だと言っていたからその流れだろ。帰るぞ」
彼女をタクシーに乗せて後部座席に乗り込むとヒメ姉が助手席に乗って行き先を伝えた。
酔いが覚めてひたすら頭を下げている彼女をマンションの前で降ろし。
そのままタクシーでヒメ姉に送ってもらう。
「未来、ありがとうね」
「あんまり飲み過ぎるなよ。若くないんだから」
「失礼ね。今度は鈴も誘って飲みましょうね」
「気が向いたらな」
部屋に戻るとまだ汐さんは帰っていなかった。
携帯にかけると電源が入っていないか電波が届かないと言うアナウンスが流れている。
女子会だと言ったはずなのに何故彼と一緒だったのだろう。色々な事が頭の中をグルグルとしている。
誤解をしているのなら早く解決しておくべきで、先に寝る訳にもいかずリビングでコーヒーを飲んでいると湊と渚が起きてきてしまった。
「まだ、帰って来ないのか?」
「盛り上がっているんだろ。心配ないから」
「でもさ、未来さんも心配でしょ」
「会社の飲み会だから心配ないよ」
しばらくしても汐さんが帰ってくる気配もなく、また2人が気になるのか起きてしまった。
「そんなに心配そうな顔をするな」
「でも、今までこんなこと一度もなかったから」
「それに携帯も通じないしさ」
「判った、探してくるから先に寝てろ。見つかったらメールするから」
渚と湊に約束をして上着を掴んでマンションを出る。
とりあえず汐さんが入っていた店の前まで来ると看板も階段の電気も消えていた。
探し回り歩けば歩くほど信じている心が揺らいでいく。
目が覚めるとそこは見知らぬ部屋で。
「ここは?」
「支社長、お早う御座います」
「鍵谷さんが何で。ここは鍵谷さんの部屋なの?」
「はい。急いで帰られた方が良いかと」
礼もそこそこにに営業部の鍵谷さんのマンションを飛び出した。
女子会に鍵谷さんは参加していなかったのに何故彼女のマンションに。そんな事より東の空が白み始めている。
タクシーでマンションに帰り静かにドアを開けるとリビングダイニングで湊と渚が朝食を食べていた。
「ゴメンね」
「朝帰りなんて最低。ママなんか大嫌い」
「未来君は?」
「愛想を尽かしたんじゃない。織姫お姉さんから電話があって会社の女の子が酔い潰れたから迎えに来るように言われて出ていって。戻ってきてからずっと待ってたのに」
渚の言葉で全身から力が抜けていく。
勝手に勘違いして焼きもちを焼いて未来君を傷つけて……
そんな事じゃ済まされない。
朝帰りなんて未来君を裏切ったのも当然で、許してくれないかもしれないけれど謝りたかった。
「未来君はどこに居るの?」
「ママを探しに行っては何度も帰って来たけど」
「起きたら何処にも居なかった」
「そう、会社に行ったのかもしれないし」
申し訳なさで胸が押しつぶされそうだった。
不安を洗い流すようにシャワーを浴びて社に向かう。
「おはよう」
「おはよう御座います。珍しいですね神流君と一緒じゃないなんて」
「おはよう御座います。支社長」
「おはよう」
普段と変わらない未来君が秘書課に居てくれて胸をなでおろした。
怒っているのかもしれないけれど未来君はそんな事を会社で表に出す様な事は決してしない。
「そうだ神流君。渚ちゃんと湊ちゃんは元気なの?」
「えっ、何で僕に聞くんですか?」
「もう、未来さんは朝から飛ばし過ぎです」
いつもの秘書課の会話なのに何かが引っ掛かる。それでもここは社内で仕事は待ってくれない。
「未来君、行くわよ」
「はい」
秘書課を出ると営業部の前に鍵谷さんと榊君が居た。
「支社長、昨日は大変だったんですよ。お酒弱いのにあんなに飲んで」
「それじゃ鍵谷さんのマンションに運んだのは」
「流石に俺の部屋じゃまずいですからね」
「そうだったの。迷惑をかけてしまったわね」
未来君を見るのが怖い。
それでも未来君を見ると笑顔だった。
「支社長、先に下に降りていますので。失礼します」
「判ったわ」
「支社長、派遣の神流さんって」
「何でもないわ。それじゃ」
流石に女子社員には未来君との関係を隠しきれないのかもしれない。
でも今の問題はそんな事じゃない違和感が何なのかはっきり判った。あれは未来君だけど未来君じゃない。
午前中は取引き先回りをして昼食を食べ、午後からの営業も滞りなく終わり。
未来君は笑みを絶やさず的確に仕事をしてくれた。
そして支社に戻り事務仕事をして時計を見ると終業時間を過ぎていてドアが開いて未来君が入ってきた。
「支社長、お先に失礼します」
「明日も宜しくね」
「はい」
ドアが閉まり坂上さんや井上さんと談笑する声が聞こえ足音が遠ざかって行くのを感じる。
自分の考えが確定した瞬間に何もかもセピア色になった。
抜け殻の様になってどのくらい時間が過ぎたのだろう坂上さんの姿が視界に入り我に返った。
「支社長、お話があるのですが宜しいでしょうか」
「さ、坂上さん。ごめんなさい。ボーとしてしまって。何かしら」
「プライベートな事なので場所を変えてお話したいのですが」
「判ったわ。娘たちに連絡するから場所を決めておいてもらえるかしら」
携帯を取り出すと坂上さんが一礼して出ていく。
湊に電話すると未来君の事を聞かれ元気よとしか言えなかった。仕事上は問題ないけれど、どう港と渚にどう説明すればいいのだろう。
坂上さんが選んだ店は未来君に教えてもらった『創作居酒屋 陣』だった。
何度となく来た事があるけれどいつも混み合っているのに珍しく暇のようで、いつもの様に座敷に案内される。
「単刀直入にお聞きします。神流君と何があったんですか?」
「どうしてかしら」
席に着くや否や坂上さんが射抜く様な瞳をして聞いてきた。
流石、坂上さんと言うべきか。長年私の秘書をしていれば見抜けない筈もないのだろう。
「ちょっと未来君と行き違いがあっただけよ。心配しないで」
「本当にそれだけですか?」
何もかも見透かれている坂上さんには隠し通す事は無理だし、私の秘書である2人には嘘を付くことなんて出来やしない。
「昨夜、飲み会の後で営業部の榊君から連絡があって湊が通っている文化祭のチケットのお礼をしたいと言われたの。一杯だけの約束で榊君の行きつけのバーに向かうとバーの前で未来君が酔った女の子を介抱していて」
「カチンときた支社長は榊君とバーに入ったと」
「ええ、後で判った事なのだけどノルンの飲み会で酔いつぶれてしまった社員がいて未来君は呼び出されただけだった。そんな事とは知らない私は酔い潰れて気付いたら朝で」
「支社長が朝帰りですか……」
井上さんが唖然としている。
「それで未来さんは早く出社していたんですね」
「井上さんは神流君と話して何も感じなかったの?」
「えっ、坂上さん何をですか? 普通に仕事をしていたし未来さんはプライベートで何があっても仕事は仕事と割り切れる凄い人じゃないですか」
「あれは神流君であって神流君じゃないわ」
坂上さんは未来君と少し話しただけで見抜いていたのだろう。
「私が支社長の娘さんの事を聞いた時の神流君は本当に知らなかった」
「もう、坂上さんそんな筈ないじゃないですか」
「坂上さんは心配し過ぎよ。本当に大丈夫だから」
「神流君は恐らく問題ないと思います。支社長は耐えられるんですか? 神流君は支社長のマンションに帰ったんですか?」
何も言えなくなってしまう。
恐らく未来君は帰っていない。そして何処に帰ったのかも判らない。
「支社長。支社長は何を隠しているんですか? このままでは支社長を秘書としてサポートすることは出来ません」
「坂上さんは何を……」
沈黙が流れ井上さんは初めて聞く坂上さんの激しい口調に気圧されている。
私はこれで2度目だ。
最初は接待を受けた時にトラウマによって失態を晒してしまった後だった。
旦那のDVで男性恐怖症だったのを言い出せなかったときに同じ言葉を言われ力になってくれた。
そして乗り越える為に何度も派遣社員を変えたのに何も言わず、これが最後にしようと思い未来君が来た時にも何も言わないで見守ってくれた。
そんな坂上さんが最終警告を突き付けている。
「解離性障害って知っているかしら」
「ストレス性の障害の事ですね」
「ええ、私の場合はDVが原因なのを坂上さんは知っているわね。未来君も理由は違うけれど同じ様な障害を持っているの」
「未来さんがですか?」
「そう、未来君は幼い頃に目の前で母親が暴漢に襲われ殺されるのを目の当たりにしているの」
沈痛な空気が座敷を包み込む。
私を失えば生きていないと言った未来君の言葉が胸を締め付ける。
何かを閃いたかのように井上さんが顔を上げた。
「もしかして記憶を失っていると言う事ですか。坂上さん」
「井上さんの言うとおりだと思うわ。今日の神流君は東京支社に来たばかりの神流君だった。支社長は気付いていましたよね」
頷くことしか出来ない。
「でもそれじゃ治す方法なんて」
「支社長はどうするおつもりなのですか」
未来君と同じ病なのに未来君に助けられて今の私がある。
そんな未来君を傷つけ裏切る様な事をして記憶を無くしてしまう程追い込んだ私が未来君を助けることは出来ない。
「支社長はどうして克服する事が出来たんですか?」
「それは未来君が」
「神流君だけですか?」
未来君は微力ながらと言っていた。そして織姫さんと美鈴さんが力を貸してくれたと。
坂上さんはいつも背中を押して井上さんはいつも場を和ませてくれる。
私が立ち直れたのは皆が居てくれたから。それなら答えは一つしかない。
「坂上さんに井上さん、力を貸してください。お願いします」
「支社長は強すぎるんです。少しは頼ることも覚えてください」
「不肖ながら私も力をお貸しします」
今の私には頭を下げる事しか出来ない。
未来君が微力なんじゃなくて私が微力なんだと。
渚と湊。坂上さんと井上さん。織姫さんと美鈴さん。皆が居てくれなければ何もできないそして未来君がいてくれないと不安で堪らない。
堪えていたものが涙とともに一気溢れだす。
「織姫さんと。美鈴さんに。連絡を取って。助けを」
「支社長、頭を上げてください。実はこの席を用意したのは神流君お姉様なんです。井上さん、お呼びして」
頭の中が混乱したままでいると織姫さんと美鈴さんが現れた。
「支社長には申し訳ないと思ったのですが神流君の異変に気づいてノルンに一報を入れておいたんです。それでここに席を設けるようにと」
「それじゃお客さんが少ないのは」
「貸し切りにしました。この店は未来が沖縄で知り合った友人のお店ですから」
織姫さんの硬い口調から事の重大さを感じるだけでなく、この店に何かある様な言い方をしているのが気になる。
「皆さんのお力を借りられると言う前提で話させてもらいます。まず知ってい欲しい事は未来の記憶が戻ると言う保証は何処にもありません」
「それは戻るか戻らないか判らないと言う事ですか?」
「坂上さんがおしゃる通りです。今は未来が安心して暮らせる環境を整える事しか出来ません」
「未来君は今どこに居るんですか?」
「結婚前のマンションに居ます」
織姫さんの話だとあの晩、未来君は前に住んでいたマンションに向かい織姫さんに連絡したらしい。
障害が起きた事を瞬時に悟り記憶を補填するとともに誤魔化して自分達のマンションに来るように言い。
会社に送り出しその間に元のマンションを暮らせる状態にしたとの事だった。
話を聞くと行きつく先は一つで思ったことを口にする。
「未来君は今までもこんな事があったのですか?」
「ありましたとしか言えないですね。詳しい事は陣さんと奈央さんから聞いた方が良いかと」
織姫さんがこの店を選んだ理由がはっきりした。
美鈴さんが陣さんと奈央さんを座敷に招き入れると奈央さんの瞳が揺れていて陣さんは伏し目がちに座っている。
「奈央の方が詳しいだろ。奈央が話してくれないか」
「うん、判った。未来さんには島で付き合っていた人がいたんです。その子は私の大親友でした。でも出会いがあれば別れがある訳でボタンのかけ違いから大喧嘩をして酷い別れ方でした。彼女は内地に帰り未来さんはそんな事を気にも留めないで仕事をしていて」
「奈央が未来に喰ってかかると未来は付き合っていた事さえ覚えていないようなそぶりで。周りのスタッフも巻き込んでちょっとした騒動になってしまったんです。困った俺が未来から聞いていたお姉さんの事を思い出して連絡したんです」
「それで織姫さん達が」
「ええ、私達も驚いたけれど未来は私達の事すら避けていたので遠くからサポートするしか出来なかった。上司に未来の事情を話し陣さんと奈央さんに未来の事を託して。それからも何度か同じことを繰り返したけれど数日で記憶は戻ったと連絡を受けました。それでも未来にその時の記憶があるかは本人すら判らないかもしれない」
何かを我慢していた奈央さんが堰を切ったように話し始めた。
「私、未来さんが結婚したって聞いた時、凄く嬉しかったけど同じくらい怖かったんです。恋人と別れただけで記憶を数日だけど失うのに。奥さんを失った時はどうなるんだろうって。こんな事言いたくないけど支社長さんなら大丈夫だと思ったのにどうしてこんな事に」
「奈央、言い過ぎだ」
「だって!」
奈央さんが陣さんにしがみ付いて泣き崩れてしまい後悔しか出来ない。
このまま未来君の記憶が戻らなければ……
「これと言って治療法はありませんし医者に行くのも時期尚早だと思います。落ち着くまで別々の生活になり未来とプライベートで会う事はしないでください。汐さんそれで宜しいですか」
「私に拒否権はありません。こうなった責任は全て私にありますから」
「汐さん悲観しないでください。生活歴の全てを失っている訳でもないんですから」
美鈴さんが慰めてくれるけど完治が難しい事や繰り返し症状が出る事を同じ障害を持つ私自身が一番知っている。
「でも、支社長の事が心配です。未来さんが海外に行ってしまった後、別人の様になってしまいましたから」
「出来る限りサポートしましょう。今は神流君の症状がこれ以上悪化しないようにすることが最善の方法なのだから」
マンションに戻り正直に渚と湊に話をした。
未来君とディズニーシーに遊びに行った帰りに2人に起きた事と同じような事が未来君に起こっている事。
そしてしばらくは一緒に暮らせない事と会えない事を伝えると2人が沈み込んでしまい。
改めて未来君の大きさを思い知らされるが職場では変わらず私に接してくれる。それが堪らなく辛い。
いっその事、全てを忘れてくれた方が…… そんな事を考えてしまう
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