第29話 サービス講習
久しぶりにサービス講習が飛び込みで入ってきたとメールが来て、メールの件を支社長に伝えるとすんなり了承してもらえた。
「どうしたんですか? 神流さん浮かない顔をして」
「いや、久しぶりの講習会がすんなり了承されたなと」
「そんな事は前からじゃないですか」
「派遣なのをすっかり忘れていました」
坂上さんと井上さんが呆れた顔をしている。本当に久しぶりなので失念していたと言うか。
「未来さんも支社長に頼んで水神商事の社員になれば良いんですよ」
「今更よね、神流君。本社の意向を蹴ったのに。それに社員になっても支社長の秘書になれるか判らないものね」
「まぁ、そうですけど。また辞めるなんて言われたら困りますからね」
「そうよね。支社長なら言いかねないわね」
咳ばらいが聞こえ振り返ると仁王様が顔を引き攣らせ立っていた。
「支社長、外回りに」
「私はそんなに我が儘じゃありません」
「それじゃ、支社長は神流君が辞めても大丈夫なんですね」
「……大丈夫です」
微妙な返事をして弄られたのが面白くないのか汐さんが苦虫を噛み潰したような顔をしている。
外回りに行くために車に乗り込んでも表情が硬い。
この雰囲気で外回りをしてたとしても営業スマイルで乗り越える事は出来るだろうが、このままで良い訳ではない。
「支社長、硬いですよ」
「どうせ私は我が儘です」
「本社に呼び出された時の事を言っていただけです。済んだ事を掘り返したのは誤ります。すいませんでした」
「皆は本当にそんな風に思っているのかしら」
そんな事は考えていないだろう。秘書課の仲間は支社長と俺の事を知っているのだから。
それでも数秒先に何が起こるかさえ人には判らない事を俺自身が身を以て知っている。
「誰もそんな風には思っていないですよ。ただ今は今しかないんです。その時にならないと判らないと言うのが本当の所だと思いますよ」
「そうね。一寸先は闇と言うものね」
「僕はそこに在るものは闇ではなく光だと信じたいです」
その後に付け足そうとした言葉を飲み込んだ。危うくONとOFFを取り違いそうになってしまうと鼻で笑われてしまう。
照れ臭いと言うか職場恋愛の難しさを…… 職場恋愛は今までもあったような気がするが何故か思い出せなかった。
ヒメ姉に渡された資料を持って向かったのは都内の高校だった。
今までも就職希望者にホテルでの仕事についての話をしに来た事はあるがサービスの講習で来た事はあまりない。
そして文化祭の準備でもしているのだろうか生徒が右往左往している。
汐さんの接客のレクチャーをしてもらえばと言う言葉が蘇るとともに、あまりにもすんなり事が運んでいる事に一抹の不安を感じる。
「都立星城高校ね。湊の高校くらい知っておくべきだったかな」
制服姿は毎日の様に見るのだが共学に通っている事くらいしか知らなかった。
どの程度の話をすれば良いのか考えながら事務所に向かう。
「すいません。ノルン派遣株式会社から参りました神流と申します」
「あっ、はい。神流さんですね」
空きの教室に案内されて着替えをする。ホテルやレストランで接客の講習をする時はスーツ姿が多いが学校などでは着替えをして講習を行う事が多い。
黒いスラックスに履き替え白のスタンドカラーのシャツを着て蝶タイを付けサロンエプロンを巻く。
髪の毛をセットし直して上着の黒いジャケットを羽織る。
教室を出ると小柄な女性のが待っていた。
「神流さんですね。講習会の担当させていただきます桐野と申します」
「桐野先生ですか。こちらこそ宜しくお願い致します。早速ですが今日はどの程度の講習をすれば宜しいのでしょうか?」
「授業の一環になっていますので」
「判りましたホテルやレストランの語源などを含めて行いたいと思います」
学校での講習ではホテルやレストランでどんな仕事をしているのか話して概要を知ってもらうのが目的で接客については興味を持ってもらうのが目的になってくる。
ホテルでサービスをしていた時の服に着替えるのも興味を持って貰う為だ。
桐野先生が先に教室に入り説明を始めると一瞬だけざわついて直ぐに静かになった。
「神流さん、お願い致します」
呼ばれて教室に入るといつもの講習とは違う雰囲気を感じた。
それは色々な学年の生徒が混じっている所為だろう。普通なら2年生か3年生だが今日は1年生まで居るようだ。
そしてその中に見慣れた制服姿の顔が、どうやらまんまと嵌められたらしい。
「初めまして。ノルン派遣会社から参りました神流と申します。今日は接客のサービス講習に伺いました。最初にホテルとレストランの話から始めたいと思います」
ホテルの語源から説明を始める。
旅人・客・宿主を意味するホスペスが語源で手厚いもてなしを意味するホスピタリティから。
怪我や病気をした人を治療し癒すホスピタルつまり病院になり。旅人をもてなすホテルとなった事。
そしてレストランは回復すると言うフランス語が語源で後に回復する食事を意味し、栄養に富み強く風味付られたされたスープでパンと共に提供されたのがレストランの始まりだと言われている事などを説明する。
生徒の中の数人が必死にメモを取っているのが見える。
「これが今までの説明が書かれているプリントです。まぁ、インターネットで調べれば大半の事は書いてありますけどね」
「ええ!」
生徒達のどよめきが上がり中には笑っている生徒もいる。緊張がほぐれてきたところでサービスの種類について話していく。
フレンチスタイルはワゴンサービスと呼ばれ。
お客様のそばでワゴンのコンロで温めながら肉をカットし皿に盛りつけてソースをかけるウエイターと料理を運ぶウエイターの2人で行う。
ロシアンスタイルはプラッターサービスと呼ばれ。
調理場で完全に調理された料理をウエイターがプラッターでお客様に見せ左側からお皿に盛り付けるサービスを言い結婚披露宴などで行われている。
最後がアメリカンスタイルでプレートサービスと呼ばれ調理場でお皿に盛られた料理を運ぶスタイルで多くのホテルがアメリカンスタイルを取り入れているだろう。
利点は熟練の技を必要とせずスピーディーに配膳できることにある。
料理によってはワゴンサービスを行うと演出として効果的だ。
「では次にお辞儀について説明します。立礼には3種類あります。会釈は15度程度で敬礼が30度から45度。最敬礼が45度以上の角度になります。注意しなければいけないのはお尻を突き出さず腰から折り曲げる事と背筋はピンと伸ばすことです」
「あの、挨拶をする時は喋りながらするものなのでしょうか?」
「相手をきちんと見て挨拶の言葉を言ってから頭を下げる方が綺麗に見えます」
先生からタイムリーな質問があり答えると生徒達がお互いに挨拶している。
数回ずつ会釈・敬礼・最敬礼をやって見せる。
「サービス業では笑顔で挨拶をすることが大切です。笑顔ではっきりと明るく」
身だしなみや化粧に髪型などの話をして接客の仕方に入っていく。
「トレーの持ち方ですが手のひらをトレーに密着させて持つ方法が一番安定します。そして背の高いグラスや瓶を手前に置き倒れそうになった場合は必ず自分の方に倒します。脚付きのグラスなどは指を添えて倒れないようにするといいでしょう」
机をテーブルに見立てて生徒をお客様役にしてロールプレイング形式でサービスしながら基本をレクチャーする。
「サービスする時は左からなら左からと決めた方が綺麗に見えます。そしてグラス一つを置くにしてもトン置くよりはグラスの下の方を必ず持って小指を少し離し、小指を使ってテーブルまでの距離感を計ると静かに置くことが出来ます」
「ナイフとフォークは外側から使うものなのですか?」
「基本はそうですね。プリントにある様にフルコースで言えばオードブル・スープ・魚料理・口直しのソルベ・肉料理・サラダ・デザート・コーヒーの順ですのでナイフとフォークもその順番で並んでいるのが普通です」
実際にお皿を使い。持ち方などを教え生徒達にやってもらい体で体験してもらう。
しばらくすると生徒から質問があった。
「あの、お皿を何枚も持つときはどうしたら良いですか?」
「慣れないうちは3枚が良いですね。持ち方としては一枚目を親指と小指を上にして残りの指で落ちないように挟み親指と小指そして手首に2枚目を置き左手で3枚目を持ちます。この持ち方が一番安定していると思います。3枚以上持つ持ち方もあるのですがコツが必要ですしソースなどが流れてしまうので3枚持ちが良いと思います」
持って見せると歓声が上がり。実務ではありえない数の皿を持つと拍手されてしまった。
これも興味を持って貰う一つだと思っている。
質問を受けながら答えていくとバーテンダーについての質問が出てきた。見た目が華やかだからだろう。
「神流さんはカクテルなんかも作れるのですか?」
「作れますよ。実際にバーラウンンジで仕事をしたこともありますので。時間があまりないので簡単に説明しましょう」
黒板にシェーカーやステアーグラスとストレーナーなどの絵をかいて説明していく。
「シェーカーはボトムに材料を入れ、氷を加えストレーナーを被せてからトップを被せます。この順番を間違える外すのが困難になります。そしてトップの頭に右手の親指を当て残りの指でボディーに添えます。左手の中指と薬指をそこに当て基本はくの字を描く様に振ります。この時シェーカーの中で動く氷をイメージすると振りやすいかもしれません」
他に8の字やストレートで振るやり方などをゼスチャーで見せる。
質問に答えていると先生が時計を気にしてこちらに目配せをしてきた。
「それでは最後になりますが。サービスの語源はラテン語の奴隷から来ています。お客様が主人でサービスをするのが召使と言う主従関係がはっきりしています。お客様からは対価としてお金を頂くのですから当然かもしれませんがそれが目的になってはいけないと思っています。相手の立場に立ちよく考えて動くことで報酬はたんなる結果なのです。おもてなしと言う言葉を忘れないでください。これはどんな仕事にも共通しているです。そして相手の立場になり考えることが出来るようになればイジメなんかも無くなると信じています。拙い講習ではありましたが皆さんにお会いできて私も学ぶ事が出来ました。本日は有難うございました」
「それでは神流さんにお礼を言いましょう」
有難う御座いましたの声に見送られて片づけをして教室を後にする。
着替えを終わらせ荷物をまとめているとドアをノックする音がした。
「はい。どうぞ」
「失礼します」
現れたのは小柄な桐野先生だった。何か忘れ物でもしたのだろうかと思いチェックするが特に無いようだった。
「桐野先生、何かまだ?」
「この後、少しだけお時間宜しいでしょうか?」
少し困ったような顔をしているので不思議に思っているとドアの陰から湊が顔を出した。
「もしかして桐野先生は湊の担任だったんですね。申し訳ございませんでした。学校の事は妻に任せきりで担任の先生の名前を知らなかったなんてお恥ずかしい話です」
「いえ、お父様が知らないない事は多いですから」
「もしかして文化祭の件ですか」
「はい、沖縄の事に疎いものですから実行委員の湊さんに任せきりで。お礼と少しだけアドバイスを頂けたらと思いまして」
今日は講習と言う事で来ているし学校と言う事があって湊が先生に相談したのだろう。
この後はノルンに戻り報告書を出すだけで、姉達もこの件に噛んでいるで今日中に出さなくても問題は無く快く了承した。
担任の桐野先生の案内で教室に向かう。何故か湊は両手を後ろに回しおすまし顔で歩いている。
家に居る時と180度違う態度なのでなんだかおかしい。
「桐野先生、学校での湊はどんな感じなんですか?」
「男女問わず人気があってクラスを盛り上げてくれてとても助かっています」
「そうですか」
湊の顔を見るとツンとしてそっぽを向いた。
教室に入ると何故だか歓声とどよめきが上がる。どんな話を湊はクラスメイトにしているのだろう。
「こんにちは。僕は湊さんと実行委員をしている林と言います。文化祭の沖縄カフェの事で困っている事があるので教えて頂きたいのですが」
「何を知りたいのかな」
「これなんですけど」
聡明な林君が要点をまとめたレポート用紙を見せてくれた。判らない事や行き詰っている案件が綺麗に箇条書きにされている。
実行委員の林君と湊が問題点を解決するために俺と話をしているとクラスメイトはこちらを気にしながらも持ち場の準備を始めた。
「これはネットでまとめて発注した方が良いと思う」
「塩せんべいはどうしたら良いですか?」
「妥協したく無ないのなら石垣島の知り合いに頼むことが出来るけど」
「宜しくお願いします」
林君の並々ならぬ文化祭にかける情熱が伝わってくる。そして自分達で連絡できて取引出来そうなところには連絡先を教えると直ぐに林君が動き出す。
湊はと言うと聞いているだけに見えるがメニューなどを考えていたので分担が出来ているのだろう。
一通り疑問点などに受け答えをして判らない事があれば湊に伝えるように言うと林君が深々と頭を下げてくれた。
「本当に我が儘を言いまして申し訳ありません。今日は有難うございました」
「こちらこそ湊の事を宜しくお願い致します」
桐野先生に見送られ教室を出た途端に教室の中から歓声が上がっている。
恐らく湊がからかわれているのだろう。
ノルンに戻り報告書を提出して帰宅し。姉達にも捕まらず早めに帰れたので夕飯の準備を始める。
千切りにしたベーコンを炒め玉ねぎとじゃがいもを加えひたひたに水を入れコンソメを加えてジャガイモが柔らかくなるまで煮込む。
煮込んだものに送られてきた紅イモフレークを入れて綺麗な色を付けミキサーに入れて豆乳を加えてミキシングする。
ミキシングしたら裏ごしして鍋に戻しひと煮立ちさせ塩コショウで味を調えればスープの出来上がり。
合挽き肉に細かく刻んだ黒毛和牛の牛脂・おから・豆乳・炒めたみじん切りの玉ねぎに卵を入れて塩・胡椒・ナツメグで味付けし粘りが出るまで捏ねる。
中にチーズを入れて成型してフライパンで両面に焦げ色を付ける。
ハンバーグを取り出して玉ねぎ・人参・セロリの千切りを炒めてホールトマトとローリエを加え煮込んでいく。
塩・胡椒で味を調えたらハンバーグを入れて煮込む。
「ただいま。未来君、居るの? いい匂いね」
「お疲れ様です。もう少しで夕飯が出来るんで」
「ありがとう。久しぶりの講習は大変だったでしょ」
「まぁ、楽しかったですよ」
汐さんが帰ってきてキッチンを覗いてから着替えに行ったようだ。あえて講習の事を汐さんに聞くこともないだろう。
しばらくすると湊と渚が帰ってきたようだ。
「ただいま」
「今日は疲れた」
2人の声がして部屋に入る気配がし着替えをしてリビングに現れた。
「お帰りなさい。夕飯の手伝いをお願いね」
「「はーい」」
直ぐに湊と渚が手伝いに来てくれてお皿などを運んでいる。
南瓜やニンジンの焼き野菜とブロッコリーやインゲンの温野菜を皿に盛り付けその上に煮込みハンバーグを載せてトマトソースをかけイタリアンパセリを飾る。
スープはカップに入れて生クリームを少し入れて出来上がり。
「いただきます」
「うわ、紫色のスープだ」
「紅イモのフレークで色づけしただけだよ」
「渚、このハンバーグ凄いぞ。中にチーズが入ってて凄い肉汁だぞ」
湊と渚はハンバーグを切って大喜びしているが汐さんの雲行きが怪しいと言うか。
多分、カロリーの事を気にしているんだと思う。
「小さめにしたんですけど」
「大丈夫よ。未来君は私が太っても気にならないんでしょ」
汐さんの反応を見て湊が笑っている。
「湊は何が可笑しいのかしら?」
「ママは馬鹿だなと思ってさ。未来がママの事を考えてない訳ないだろ。な、渚」
「そうだよね。このサラダだってクルトンが入っているけどドレッシングだってノンオイルだし。私達の事も考えてくれてるんだと思うけどな」
「それにさ。ね、未来」
何か言いたげに湊が俺の顔を見ていると汐さんが面白くなさそうに湊に突っ込んだ。
「湊は何が言いたいのかしら。はっきりしなさい」
「学校の事は妻にまかせっきりにって。未来が先生に言ってた」
式は挙げていないが結婚しているのは事実であって外で妻と言う事は普通だと思う。
同じ職場で同僚ならまだしも支社長と派遣の秘書と言う立場で妻なんて言う状況はまずなく。汐さんの顔がほんのり赤くなっている。
「スープは豆乳を使ってますしハンバーグにも豆乳とおからを加えているんで」
「もう、未来君まで。美味し物は美味しく頂きます」
「湊は学校ではあんな風なのか? おすましで」
「湊がおすましなんて信じられない」
食卓には笑顔が何よりの調味料なのだろう。
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