第20話 別れ


最近では珍しくなくなってきた雪が東京の真っ暗な空に舞っている。

「寒いな、やっぱり東京は」

吐く息が白くなり磯臭い匂いが鼻に付く。ここが横浜の赤レンガ倉庫ならムードもあるのだろう。

だが無表情の鉄筋コンクリートでできた湾岸倉庫が物も言わずに横たわっている。

そしてその先で黒いスーツ姿の男が一人倉庫の前で立っていた。

「未来様ですね。手配は済んでおります」

「判った。ありがとう」

錆びついた大きな扉の脇にあるドアから倉庫の中に入る。

まるで裏取引している現場に潜入する昔の刑事ドラマみたいだ。

所々蛍光灯が切れている薄暗い倉庫の中にはパレットに積まれた荷物が高く積み上げられていてフォークリフトが停めてある。

奥まで続く通路を覗き込みながら汐さんの姿を探す。

すると通路の奥にセメント袋の様な物がうず高く積まれた前にスーツ姿の男が立っていた。

男に向かい歩きだすと倉庫に男の声が響き渡った。

「正義のヒーローのご到着か。ようこそ悪の巣窟へ」

無視したまま歩みを止めない。


近づいて行くと薄汚れったボロボロの毛布の上で怯えて蹲っている汐さんの姿があった。

拉致られた時のままのスーツ姿で汐さんはどうやら無事の様だ。

「貴様は何者なんだ」

「あんただって調べたんだろ。ノルン人材派遣会社の神流未来。ただの派遣社員だよ」

「ふざけるな! ただの派遣が俺から何もかも奪う事が出来るはずが無いだろ」

「蛇淵さん、自業自得でしょ。人を1人拉致したんだ。そんな事が会社にばれれば即首だ」

ぶち切れた蛇淵が近くに有った角材を掴んで殴りかかってきた。

避けた角材が床やパレットに当たり大きな音が響く度に支社長の体が痙攣している。

隙を見て蛇淵にタックルして積んである荷物に蛇淵の体を押し当てると背中に角材の端が振り下ろされ激痛が走った。

堪らずに蛇淵の体を横に払い飛ばす。

「くっ、痛っ」

「どうしたヒーローさんよ」

「ヒーローなんかじゃねえよ。ただの派遣だって言ってるだろう」

角材が音を立てて振り下ろされなんとかかわす。間髪入れず振り上げざまに蛇淵が薙ぎ払った角材が脇腹に突き刺さった。

「うげぇ!」

息が出来ずに脇腹を抱えて崩れ落ちそうになる。

それを見逃すはずもなく蛇淵が襲い掛かってきた。

床を転がり何とかかわすが反撃の糸口すらつかめない。

こんな事になるならもっと体を鍛えておけば良かった。

自分の荒い息遣いだけが倉庫にこだまする。

何とか立ち上がると蛇淵に髪の毛を掴み上げられ喉元に角材を押し当てられて積み上げられた荷物に押し付けられた。

「ヒーローさん形無しだな。まだ派遣だと言い張る気か?」

「派遣だよ」

「ざけんな!」

蛇淵がフラフラの俺を突き飛ばし背中に衝撃を受けて座り込むと横に怯えて震えている汐さんの姿があった。

俺のボロボロの姿を見たらまた怒られるだろうか。

そんな事が頭に浮かぶ。

何とか体を動かして汐さんに声を掛ける。

「汐さん、大丈夫ですか。俺です。未来です」

「馬鹿か、この女が答える訳ないだろ。こいつは俺の奴隷なんだ」

汐さんの頬に手を当てて汐さんの頭を胸に押し当てる。

「汐さん、怖いですよね。すいませんでした。俺が責任を持って契約はきちんと履行しますから」

酷かもしれないがどうしても自分の力で乗り越えて欲しかった。

伝わっているか判らないが汐さんが俺のスーツを力強く握りしめてくれた。


「お別れの挨拶は済んだかな」

「そうだな。お前の送別会の始まりだ」

振動している携帯を胸ポケットから取り出して通話ボタンを押す。

「馬鹿か、警察でも呼ぶ気か?」

「ヘルヘイムの使者を呼んだんだ」

全身に痛みが走るが構わずに低い姿勢から蛇淵にタックルする。

バランスを崩して蛇淵の体が倒れてマウントポジションを取ろうとすると頭を角材で薙ぎ払われた。

意識が吹き飛びそうになると腹部に蹴りを叩き込まれ。

髪の毛を掴まれ頭を持ち上げられると蛇淵から不気味な笑みが毀れている。

「汐を俺のおもちゃにしようと思ったが止めだ。こっちのおもちゃの方がおもしれえ。もう少し付き合えや。これが何だか判るか? これを打てば痛みが消えて気持ち良くなれるぞ」

「ふざけるな」

俺の目の前には細身の注射器の針先から透明の液体が零れ落ちている。

そんな物まで用意していたなんて予想すらしていなかった。

蛇淵が腐り切った裏世界の使者なのか良く判ったが手遅れだ。

もう抗う力は殆ど残っていない。

蛇淵が俺の腕を掴み上げると蛇淵の体が弾き飛ばされた。

「未来君、しっかりしなさい。馬鹿! 目を覚ましなさい」

「支社長、無事ですか」

目の前には涙をポロポロ流している汐さんの顔があった。

何故だか笑いが込み上げてきた。

「何を笑ってるの」

「支社長が無事で良かったなと思いまして」

「馬鹿!」


「どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって。ぶっ殺す!」

蛇淵がもの凄い形相で角材を振り上げ、汐さんが俺を庇う前に汐さんの体を組み伏せて衝撃に耐える。

「どきなさい、未来君。これは命令よ」

「駄目です。くっ!」

背中に角材が振り下ろされる度に痛みが全身に走り息が止まる。

汐さんの体を抑え込むと手に何かが当たり汐さんの瞳が揺れている。

「何をする気なの。止めなさい」

「もう、手遅れです。魂を売ってきましたから」

「止めて!」

汐さんの制止を振り切って手に当たった注射器を掴み左腕に突き刺した。

直ぐに汐さんの顔が歪みだし汐さんの声にエコーが掛かって聞こえてくる。

そして体中の痛みが鈍くなっていく。

「馬鹿が、テメエで打ちやがった」

目に映る全ての物がスローモーションの様になり周りの動きが遅く感じる。

振り下ろされる角材を腕で受けると角材が折れ蛇淵の顔が歪んだ。

汐さんの制止する声が頭の中で爆音の様に反響している。

それでも俺は抑えきれない感情が止めども無く溢れだし止める事が出来なかった。

自分でも何をしているのか判らな状態になり周りの景色が高速回転し、どす黒い衝動に飲み込まれそうになる。


「「未来! 止めなさい!」」

ヒメ姉とスズ姉の声が俺の頭を打ちぬいて角材が床に落ちる音がした。

下を見ると蛇淵が床に倒れていて、怯える様な目で汐さんが俺を見上げていた。

積んである荷物に体を預けると全身から力が抜けていく。

静かに目を閉じると温かい物が俺を包み込んだ。

「もう、無茶な事は止めて。お願いだから」

「すいません。帰りましょう」

汐さんの肩を借り何とか立ち上がると通路の先にヒメ姉とスズ姉が立っているのが見え。

足を引き摺る様に歩きだすとヒメ姉とスズ姉もこちらに向かって歩きだした。

終わったと思ったのに後ろで何かが動いた気が……

「未来、後ろ!」

ヒメ姉の叫び声で汐さんと共に振り向くと光る物を手にした蛇淵の体が目の前にあった。

汐さんに母親の姿がオーバーラップする。

咄嗟に汐さんの体を突き飛ばすと真っ赤に焼けた鉄を腹の中にぶち込まれた様な感覚が全身を貫いた。

脇に積んであったパレットに蛇淵の髪を掴んで顔面を叩きつけると白目を剥いて蛇淵が崩れ落ち。

脇腹に手をやると何かが脇腹に突き刺さっている。

汐さんやヒメ姉とスズ姉の悲鳴が聞こえ視界が白くなっていき意識が途切れた。


誰かに名を呼ばれているような気がして目を開けると体に痛みも感じず全身に不思議な浮遊感がある。

ここは何処だ、トリップして幻覚をみているのか?

何処までも真っ白な世界で光が溢れているのに物音一つしない静寂の世界だった。

俺の名を呼ぶ声だけが遠くから幽かに聞こえる。

誰なんだ俺を呼んでいるのは。

ヒメ姉か、スズ姉か、それとも……

見上げると何かが舞い降りてきて少しずつ大きくなっていく。

それは柔らかそうな薄い衣を纏った女の人だった。天使なのか?

それとも……

意識気が途切れそうになると誰かが俺を呼んだ。

「神流未来」

「誰なんだ」

少し離れた場所に天女の様な女の人が3人立っていて、風も吹いていないのに3人が纏っている薄い布が揺れている様に見え。

何処かで会った事がある様な顔なのに思い出せず顔を顰める。

「神流未来。帰りなさい」

「ここはあなたが居ていい場所じゃない」

「本来の世界に戻りなさい」

不思議な声が頭の中から声が聞こえてくる。

「何処に帰ればいいんだ。俺には此処がどこなのかすら分からない」

「呼んでいるでしょ」

「誰がだ」

「あなたを求める人が」

立ち上がると3人の姿がいつの間にか消えていた。

周りを見渡しても地平線なのか空なのか区別が付かない真っ白な世界で、凄く曖昧で、酷く感覚的だけど。

右手にぬくもりを感じる気がして右手の指を動かすと名を呼ばれた気がする。

何処から聞こえるんだ?

もう一度右手の指を動かすとはっきり聞こえ声がする方に足を踏み出した。


薄らと目を開けると浮遊感は残っているけれが感覚が少しずつ戻って来た。

夢だったのか?

目の前には真っ白な世界は無く、白っぽい天井がはっきり見える。

右手の指を僅かに動かすと温かい手が俺の右手を掴んだ。

「未来君? 私が誰だか判る」

「支社長、そんな顔をしてどうしたんですか?」

「馬鹿、本当に馬鹿なんだから」

心電図の音や呼吸器の音が聞こえ自分の置かれている状況が飲み込めた。

蛇淵と対峙してナイフで刺されて病院に担ぎ込まれたのだと。

「未来、大丈夫なの?」

「ヒメ姉、死神にまでフラれた」

「馬鹿!」

直ぐに医者と看護師が現れて名前や年齢などを質問しながら俺に確認している。

「意識が戻ったので大丈夫でしょう」

「有難う御座いました」

「それじゃ、何かありましたら直ぐに呼んでくださいね」

医者と看護師が出ていくと汐さんが俺の右手を掴んだまま声を上げて泣き出した。

泣いている汐さんに声を掛ける事が出来ない。

「未来君、お願いだからもう何処にも行かないで」

「汐さん、これで契約終了です。もう大丈夫ですよね」

「な、何を言っているの?」

「派遣の契約が終わったと言っているんです。汐さんは汐さんの道を歩いてください。俺には俺が進むべき道があるんです」

一切の感情を切り捨てて言うと俺の手を掴んでいる汐さんの手から力が抜け落ち、見なくても汐さんがどんな顔をしているのかが容易に想像がつく。

「それはもう会えないという事なの?」

「そうです。僕は別の会社との契約を既に結んでいますからこれでお別れです」

「理由は教えてくれないのね」

俺が答えずに天井を見つめているとヒメ姉が重い口を開いた。

「今回の件に警察は一切介入してきません。早乙女さんは今まで通りの生活を送る事になります。安心してください蛇淵は二度と表の世界に現れる事はありませんから」

「どう言う事ですか織姫さん。未来君は生死を彷徨う目に遭ったんですよ」

「私達の父親が裏で手を回し蛇淵は一生塀の中で暮らす事になりました。だから安心してください」

「私が納得いくように説明をしてください」

汐さんらしいと言うか。それが普通の感覚で当然の事なのだと思う。

「汐さん、知らない方が良いと思います。知れば辛いのは汐さんですよ」

「私は自分の気持ちに嘘を付きたくないの。今回の事ではっきり判ったわ。未来君がとても大切な人なんだと」

「汐さんの気持ちは嬉しいですけど俺は答える事が出来ません」

「どうしてなの?」

汐さんの気持ちを知ったからにははっきりさせるべきだろう。

すると俺より早くヒメ姉が悪役を買って出てくれた。

「未来は今回の件を表沙汰にせずにあなたと娘さん達を守る事を交換条件に私達の父親の跡を継ぐ事を決めたのよ。諦めなさい」

「そんな。それじゃ未来君は」

「ワールドツリーグループ次期総帥、あなたに構っている暇はないわ」

「なんでそんな世界的企業の……確か今の代表はイツキ・ウォーデンで、イツキって、まさか」

「イツキ・ウォーデンは日本では私達の母の姓である神流を名乗っているわ。これがどう言う意味なのか早乙女さんなら判らない筈ないわよね」

取り乱す事も無く話を聞いていた汐さんは諦めきれずに何とかならないのかと言っていた。

しかし、どうする事も出来ず俺が頑として首を縦に振らなかったので力なくヒメ姉から連絡を受けて病室にやってきたスズ姉に付き添われ病院を後にした。

「未来、本当にこれで良かったの? 彼女は殆ど寝ないであなたの傍に居たのよ。未来だって彼女の気持ちを知っていたのでしょ」

「俺には彼女の気持ちに答える資格はないよ」

「クソ真面目なんだから。未来の責任じゃないでしょうに。誰もが一人じゃ生きていけないのよ。未来も彼女も私と美鈴だって」

そんな事は俺が一番知っている。

それに偶然か神様の悪戯か蛇淵は神流樹の末端の会社で裏の仕事をしていた。

だからこそ彼女を救えたのも事実だが彼女を傷つけた代償は払わなければならない。




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