第17話 鬼の霍乱
夢を見た。
忘れ去りたいのに脳裏に焼き付いて消す事の出来ない真実。
母親に遊園地に連れて行ってもらいファミリーレストランでハンバーグを食べて家に帰る途中だった。
「ママ、凄く楽しかったね」
「そうね、今度はいつになるか判らないけどまたね」
「うん、約束だよ」
「じゃあ、指切りね」
幼い俺にとって時々だけどこうして母と一緒に出掛けられることをとても楽しみにしていた。
もう少しでアパートだと思った時に前から手に光るものを持ってフラフラ歩いていた男が走り出して近づいてきた。
すると視界が遮られて気が付くと母が幼い俺を抱きしめていた。
「ママ、どうしたの?」
母の体が崩れ落ちる様に道路に横たわると男の姿は消えていた。
そして母の体からは真っ赤な血が流れだしアスファルトを血の海に変えていく。
「未来、ごめんね……約束したのに……ママ……」
俺の頬に触る母の手も体も震えている。
そしてその手から力が抜け体の震えも徐々に弱くなっていく。
「ママ! ママ!」
幼い俺には成す術も無くただ泣きながら母を呼び続けていた。
「はぁ~何でまた……」
ベッドから起き上がりカーテンを開けると窓の外には何処までも澄んだ青空が広がっている。
清々しいその空も今日は突き刺さる様に凍てつく空に見えた。
水神商事東京支社に出向くとこんな日に限って何故だか社内に落ち着きが無いような気がする。
そして秘書室に向かっていると白髪交じりで壮年のスーツ姿の副支社長が黒っぽいスーツ姿の秘書を従えて前から歩いてきた。
「副支社長。おはよう御座います」
「神流君だったな。今日はフォローを頼むよ」
「はい、畏まりました」
立ち止って挨拶すると副支社長は足早に立ち去った。
初めて副支社長に挨拶した時には早乙女支社長が異例の早さで支社長になったという事を思い知らされたと同時に能力の高さや人望の厚さを知った。
秘書室に入ると坂上さんと井上さんが電話の対応に追われていた。
「おはようございます」
「おはよう。神流さん、そこの資料を」
「はい、これですか」
「そうそれよ」
坂上さんが指さす資料を手渡すと難しそうな顔をしながら資料を見て何かを説明している。
社内といい秘書室といい何があったのだろう。
それに副支社長の言ったフォローの意味が掴みきれない。
「未来さん、これ会議の資料だからコピーして20部まとめて」
「判りました。20部ですね」
「井上さん、何があったんですか?」
「支社長が体調不良で急に休みを取ったから大変なの」
誰にでも体調が悪いことは起きる訳で何が大変なのか良く判らないが、社内の様子や副支社長の言葉から支社長が急に休んでしまった為にそのフォローが大変という意味なのだろう。
電話の取り次ぎや会議の資料をコピーして慌ただしく午前中があっという間に過ぎ去ってしまった。
坂上さんに井上さんと遅めの昼食をとる事になり社食に向かうと社内も平静を取り戻している様だった。
「本当に今日はびっくりしたわ」
「坂上さん、支社長の事ですか?」
「ええ、だって今まで支社長が休んで穴を開けるような事は一度も無かったのよ。それが体調不良だなんて」
坂上さんの話では出勤前に携帯に支社長から連絡があり井上さんに連絡して大急ぎで出勤してきたらしい。
「支社長は風邪か何ですか?」
「良く判らないんだけど力が無い声だったから熱でも出たんじゃないかしら」
「熱発ですか?」
何気なく言った俺の言葉に坂上さんと井上さんが頭の上にクエスチョンマークを生産していた。
「未来さん、ネッパツって何ですか?」
「あ、すいません。沖縄では発熱する事を熱発って言うんです。確か看護用語だった気がします」
「でも、心配よね。未来さん」
「そうですね。でもしっかりした娘さんが2人いますから大丈夫だと思いますよ」
今度は大き目の言葉の爆弾を投げ込んでしまったようだ。
井上さんと坂上さんが忙しかった午前中のストレスを発散する様に喰らい付いてきた。
姉達を引き合いにして逃げ回っているとその姉からメールが来た。
『終わり次第ノルンに』単純明快なメールで返信する必要はないだろう。
午後からの業務も社内と同様に落ち着いてきた。
「神流さん、支社長がお休みなので今日はここまでで良いわよ。後は井上さんと2人で大丈夫だから」
「そうですか。それではお先に失礼します」
「また、明日から宜しくね」
「はい」
水神商事東京支社を出てノルンに今から向かうとヒメ姉にメールを送った。
ノルン人材派遣会社のビルを見上げる。
最近、呼び出しがあってノルンに来ると気が重いのは気のせいではないだろう。
気を取り直して事務所に向かうと水野さんが待ち構えていた。
「あら、未来君じゃな。最近見ないから水神商事に鞍替えしたのかと思ったわ」
「水野さん、勘弁してください」
「そうね、未来君のお蔭でこっちも大忙しだしね。ミィーティングルームでお待ちかねよ」
「ミィーティングルームですか?」
俺の問いに水野さんは両方の掌を上に向けてボディーランゲージで判らないと言っている。
何故、社長室ではないのだろう。
ミィーティングルームは事務所の奥まった場所に有り打ち合わせに使われる小さな部屋だった。
ノックをしてミーティングルームのドアを開けると真っ赤に目を腫らした渚と湊の顔が見える。
するといきなり2人が立ち上がり俺に抱き着いてきた声を上げて泣き始めてしまった。
「どうしたんだ。渚も湊も泣いていたら判らないだろ」
「私達が何を聞いても未来の一点張りで何も話してくれないの」
「俺に話しがあって会いに来たんだろ」
「「う、うん。み、みらい、あ、あの、ね」」
声を詰まらせて2人が何を言いたいのか判らない。
しかたが無いので2人を椅子に座らせて泣き止むのを待つ事にした。
テーブルの上には冷めきったティーカップが2つ置いてあり、どれだけ俺の事を待っていたのかが窺える。
しばらくすると渚と湊が落ち着きを取り戻し事の次第を話してくれた。
「昨日の夜、家でママの帰りを待っていると真っ青な顔をして震えながら帰って来たんだ」
「それでね。何を聞いても答えてくれないから外で何かがあったのかと思ってベランダから外を渚と見たら見た事が無い男の人が見上げてて」
「私と渚も何だか判らないけど凄く怖くなって」
2人の小さな体が舞浜駅の時と同じように震えている。
「大丈夫だよ。汐さんは具合が悪くなっただけだろ」
「違うよ! 何で未来までそんな事を言うんだよ」
「未来さんなら判ってくれると思ったのに」
2人が何を言いたいのか俺には痛いほど良く判る。
でも、判るからこそ余計に俺は無力なのだと散々思い知らされた。
そんな俺でも渚と湊にとっては大きな存在なのだろう。
「判った。改めて聞くけど渚と湊は俺にどうして欲しんだ。2人には酷かもしれないが俺に出来る事は限られている。俺は正義のヒーローでも何でもないんだ」
「ごめんなさい。どうしていいのか判らなくて」
「未来なら何とかしてくれるって思ったんだ」
俺が考え込むとヒメ姉が渚と湊に声を掛けた。
「渚ちゃんと湊ちゃん。未来と2人で話がしたいから少し席を外してもらって良いかしら。決して悪い様にはしないから。鈴、2人をお願い」
「渚ちゃん、湊ちゃん。社長室でお茶でも飲みましょう」
「う、うん」
スズ姉が渚と湊をミィーティングルームから連れ出すと2人が振り返り、不安そうな瞳で見ている視線が胸に突き刺さる。
「未来、酷過ぎるんじゃないの? 可哀想にあんな言い方されたら何も言えなくなるでしょ」
「それじゃ、俺にどうしろって言うんだ」
「そうね。恐らくマンションの外で早乙女さんは元旦那に出会ってしまいマンションに逃げ帰った。そして渚ちゃんと湊ちゃんが見たのが2人の父親ね」
「俺は何も出来ないただの情けない男だよ。ヒメ姉とスズ姉に拾ってもらってノルンで仕事をさせて貰って、マンションまで宛がわれて。まるで独りでは何も出来ない寄生虫みたいだろ」
「馬鹿!」
頬を何かに打ち抜かれて顔を上げるとヒメ姉の目から涙が溢れていた。
そして俺にとって大きな存在で何にも動じないと思っていたヒメ姉の体が小さく見えその体が震えている。
「未来にそんな事を言われたら私や鈴はどうしたら良いの。未来は私達の未来なの希望なの。未来が居てくれたからノルンはここまで大きくなったの」
「俺が居たから?」
「そう、私が鈴とノルンを立ち上げて中々軌道に乗らずに行き詰っていた時に未来が東京に戻って来てくれて私達の仕事を手伝ってくれた。自分の資格を生かしてサービス講習などを売り込んでくれて。その時に沖縄や北海道で知り合った人たちに掛けあってくれたのでしょ。お蔭で派遣先が急増して登録人数も増えてノルンはどうにか軌道に乗る事が出来たの。未来が居てくれなかったら今の私も鈴も無いわ」
ただ、俺は2人の力になりたかっただけだ。
あの家で唯一俺に優しく接してくれたから。
「もっと早くに話せば良かったわね。未来がそんな風に思っていたなんて知らなかった。ごめんなさい」
「泣くな。俺が知っている凛としたヒメ姉で居ろ」
「うん、ありがとう。未来!」
「だからって抱き着くな!」
一頻り泣いたヒメ姉は涙を拭いて俺に向き合っている。
その眼にはもう迷いはない。それに比べて俺は何を迷っているんだ。
「未来、どうするの? これが偶然なら良いけど偶然じゃなく相手に悪意があったらどうするの取り返しのつかない事になるわよ」
「その悪意だけど俺が汐さんの傍に居るからだとしたら。尚更だ」
「引っ越しでもしろとアドバイスするつもりなの? 同じストレス障害を持つ未来なら早乙女さんが置かれている状況を判っているわよね。それともボディーガードでも頼めと突き放すの?」
助けを求めているの見過ごす事なんて出来っこない。
人を助けるのに理由なんてないのだから。あるのは一歩を踏み出せる勇気があるかないかだ。
「何故、渚ちゃんと湊ちゃんは未来の所にあんな怖い思いをしてまで来たのかしら。それにこのままだと早乙女さんも降格か左遷になるわよ」
「判った、判ったからそれ以上言うな。渚と湊を呼んでくれ」
ヒメ姉に呼ばれスズ姉に連れられて渚と湊が不安そうな顔でミィーティングルームに戻って来て俺の前に座った。
「まず、最初にこれだけは言っておく。汐さんに何があったのか、渚と湊が見た男が誰なのか俺には判らない。それでも渚と湊が不安だと言うのなら一晩だけ様子を見てやる」
「未来さん、本当に?」
「ただしこれは派遣の仕事としてだ。渚の授業参観の時の様に2人には契約してもらう。それで良いな」
「「はい、お願いします」」
一晩限定の派遣でと決断すると後は激流下りの様に事が決まっていく。
ヒメ姉とスズ姉は何故か楽しそうに渚に湊と契約を交わしている。
そして昨日からまともに食事をしてないと言う2人と一緒に食材の買い出しに出る事になった。
「未来、一晩なら私の車を使いなさい。あなたの事だから車中泊なんでしょ」
そう言われてスズ姉の派手な車で買い物を済ませて支社長のマンションに向かった。
「凄いマンションだな」
「ええ、未来に言われたくないよな」
「うん、未来さんのマンションだって凄いもんね」
支社長のマンションは俺が住んでいるマンションから車で10分ほどの距離で知らなかったとは言えまた嵌められたような気がする。
「汐さんは部屋に籠ったままなのか?」
「うん、呼んでも出てきてくれないんだ」
「一緒にご飯食べようって言うのに返事が無いの」
3人のマンションは2LDKの間取りでとても広いマンションだった。渚と湊の部屋は10畳以上あるだろうか元々は真ん中に本棚を置いて2つに仕切っていたが今は一部屋として使っていると教えてくれた。
廊下を挟んだの反対側が支社長の部屋になっていて、その奥にリビングとキッチンになっているらしい。
支社長の性格なのだろう、どの部屋もシンプルでとても綺麗だ。
静かに支社長の部屋の前を通りリビングダイニングに向かうと急に視界が開けた。
「オープンキッチンか」
「未来、お腹すいた」
「承知しました」
「家政婦 未来?」
早乙女支社長には聞こえないのか。それとも精神安定剤でも飲んで眠っているのかもしれない。
それでも許可なく部屋に入っているのが心苦しいと言うか本当に良いのだろうか。
キッチンにまで入ってしまって後戻りはできないし最悪の場合も覚悟はしている。
渚と湊に道具の場所を聞きながら夕飯の準備をする。
「渚。玉ねぎ半分を大雑把に切ってミキサーに入れて白ワンビネガーとマスタードにレモン汁を入れて回して」
「未来さん、どのくらいの量を言入れるの?」
「ワインビネガー60・マスタード大匙2・レモン汁少々で玉ねぎの粒が無くなったらオリーブオイル200を少しずつ入れて」
「はーい」
渚がドレッシングを作っている間にドレッシングに入れる野菜を切る。
ケッパーに湯剥きして種を取ったトマトとバジルを適量みじん切りにする。
「未来、私は何をすればいいんだ」
「サラダの野菜を洗って水を切ってくれ」
「ここにある野菜で良いのか?」
「ルッコラとチシャとイタリアンパセリだぞ」
湊に指示を出してパプリカを掃除して千切りにしオニオンスライスも作り水にさらしておく。
そしてミラノ風カツレツの仕込みをする。
豚もも肉の筋切りをして叩いて伸ばし塩こしょうをしてパン粉を付ける。
解いた卵にオリーブオイルにパルメザンチーズと塩を入れよく掻き回しパン粉を付けた豚肉を通して再びパン粉を付けて押さえつけて落ち着かせておく。
大目にお湯を沸かしている間にワタリガニを捌く。
甲羅を剥がしてガニを取り除き足は2本ずつに分ける。
フライパンにオリーブオイルに潰したニンニクと鷹の爪を入れ火にかけてオイルに香りを付ける。
香りが立ってきたらワタリガニを入れてフライパンを煽るとカニの色が変わり香ばしい香りが立ち昇った。
「未来って凄いな」
「良い匂いがする。お腹がさらに減ってきた」
「水を切った野菜とパプリカにオニオンスライスを混ぜて」
「「はーい」」
カニの色が変わったら玉ねぎのみじん切りを入れて少し炒めてからホールトマトを入れてコンソメを入れて煮込み始める。
お湯が湧いたのを確認して塩と少量のオリーブオイルを入れた。
「何でお湯にオリーブオイルなの?」
「オイルを少しだけ入れると吹きこぼれが防げるんだよ」
パスタを投入したら別のフライパンに1センチほどの油を入れカツレツを揚げる。
揚げあがったら油をきり綺麗にしたフライパンにバターを入れてカツレツにバターの風味をつける。
パスタが湯で上がる直前にワタリガニとトマトの入ったフライパンにパスタの茹で汁を入れて、少し硬めに茹で上げたパスタを入れて煽りパスタにソースをからめ塩こしょうで味を調える。
ミラノ風カツレツとサラダを皿に盛りつけ、パスタも皿に盛って揚げたバジルを飾る。
「運んで食べていいぞ」
「えっ、未来は一緒に食べないのか?」
「汐さんに許可を貰っていないんだ。ここに居る訳にはいかないよ。心配しなくても携帯にコールすれば飛んでくるからな」
「じゃ、片付けは私達にさせて」
渚と湊に後は任せて部屋を出てマンションの前に止めてあるスズ姉の86に乗り込んでシートを倒した。
久しぶりの徹夜覚悟になるだろう。
沖縄や北海道に居た時にはよく飲み明かしていたし何度も徹夜して仕事にいっていた。
若い頃の事だろうと言われればそうだが一晩くらいなら何とかなるはずだ。
FMを聞きながら時間を潰す。
しばらくして体を動かす為に近くの自販で缶コーヒーを買ってきて飲んでいると窓を誰かが叩いた。
ウィンドーを下ろすと冷たい空気が車内に流れ込み、それと同時に怒気を孕んだ声も一緒に流れ込んでくる。
「未来君、少し良いかしら」
「構いませんよ。朝まで暇ですから」
車を少し動かして助手席のドアを開けるとワンピースにストールを羽織ったままの支社長が乗り込んできた。
「そんな恰好じゃ風邪をひきますよ」
「未来君に言われたくないわ。もしかして会社を休んだ嫌味かしら。探偵さんはこんな場所で何をしているのかしらね」
「探偵の仕事と言えば身元調査か浮気調査と相場がきまっていますから。たぶん張り込みですね」
「依頼主を聞いても守秘義務で通すのでしょうね」
何を話せばいいのか迷っていると支社長が切り出してきた。
「こんな事をして私が喜ぶとでも思っているの?」
「思いません。支社長の逆鱗に触れる覚悟はしていますけど」
「それじゃ何でこんな事をするの? そんなに私に嫌われたいのかしら?」
「僕はただ渚と湊の泣く顔を見たくないだけです」
依頼主が誰か判り切っている支社長は渚と湊の名前を出すと流石に矛先を下げざる負えなくなった。
「渚と湊が未来君の所に泣きついた事は2人から聞いたわ」
「ここからは僕の主観です。もし今回の様な事が続けば流石に会社だって考えるでしょう。降格か最悪の場合は左遷でしょう。奴からは逃げられるかもしれません。でも渚と湊はそれを望んでいるのですか?」
「そんな事を私は……させないわ」
「何故、絶対と言わないんですか? 本当に大丈夫なんですか?」
同じような障害を持つ俺が言われたら一番嫌な事を支社長に言っている。
フラッシュバックが起これば自分の身すら守れないのに絶対なんて言えるはずが無いのだから。
「きつい事を言うのね未来君は」
「もっときつい事を言います。万が一支社長に何かが起きれば渚と湊は最悪の場合俺と同じになるんですよ」
「未来君は怖くないの?」
「怖いですよ。でもあの時は幼くあまりにも無力で助けを呼ぶこともできませんでした。でも今は違います。助けを呼ぶことが出来ますし助けてくれる人もいます。後悔したくないから自分に出来る事をしたいんです。誰かを守るなんて大層な事は言えませんけどね」
これ以上、俺から言う事は無くシートを倒して身を委ね。
そして後の判断は支社長に委ねる。
「ノルン人材派遣会社の神流未来君に新しい派遣の仕事をお願いしたいのだけど」
「僕に出来る事であれば社長達も契約すると思いますよ」
「未来君にしか出来ない事よ。安全が確認できるまで私達の事を見守って欲しいの」
「それくらいならば改めて言われなくても。汐さん、何を」
いきなり支社長が俺の体に覆いかぶさってきた。
冷え切った体に温もりを感じ支社長の香りが漂ってくる。
「24時間体制でお願いしたいの。もちろん住み込みで」
「出来ないと言ったらどうするんですか?」
「窓を開けて人を呼ぶわよ」
「脅迫ですか」
俺の問いかけに支社長は微笑みで答えたが体が僅かに震えている。
怖さを押し殺す瞳は本気を表していた。
「こんな事をして俺が汐さんに襲い掛かったらどうするんですか?」
「優しい未来君はそんな事をしないと信じているから」
「きつい事を言いますね。俺も一応男なんですけど」
「知っているわよ。私が唯一安心できる男の人だもの」
そこまで言われれば契約は出来ないと言えないし何も出来やしない。
完敗だった。
俺が脱力すると支社長が離れてくれた。
「さぁ、未来君の荷物を取りに行きましょう」
「はぁ? 今からですか? 渚と湊が心配じゃないんですか?」
「大丈夫よ、ほら」
支社長がドアを開けて体を乗り出して手を振っている。
不思議に思って窓を開けて顔を出すと渚と湊がベランダから手を振っていた。
それに支社長が今直ぐにと言ったのも頷ける。何故なら俺は知らなかったけど支社長は俺のマンションが近くだと知っていた筈だ。
仕方なくマンションに荷物を取りに行く。
「車で待たせるなんて契約違反よ」
「はい、承知しました」
「うふふ、渚と湊が言っていた通り家政婦さんみたい」
仕方なくマンションのドアを開けると電気が付いていて思わず支社長の体を庇う様に前に立った。
そして何故か玄関先に俺のスーツケースが置かれていた。
「はぁ、驚かすなよ」
「あら、せっかく荷造りしてあげたのに」
「スズ姉、まるで蟻地獄だな」
恐らく姉チームと妹チームがタッグを組んでいるのだろう。俺が到底敵う相手じゃない。
そうそうと白旗を上げるのが利口者のする事だろう。
足掻けば足掻くほど痛い目を見るのは結局俺だ。
「ママ、本当に未来さんはここに居るの?」
「あなた達が未来君に無茶な事を頼んだ所為よ。それとママが良いと言うまでよ」
「それでも未来といつも一緒に居られるのは嬉しいな」
「家族ごっこみたいだね」
楽しそうにしている渚と湊を見ていると家族ごっこも頷ける。
それでもこれは家族ごっこじゃない。
「未来君、プライベートなんだから肩ひじ張らないの。本当に真面目なんだから。少しは笑いなさい」
「すいませんでした」
「もう、ママが仕事モードだからでしょ」
「ま、ママだってどうしていいのか判らないんだもん。仕方がないでしょ」
思わず吹き出してしまった。
恐らく汐さんは恋愛経験が希薄なのだろう。
そして俺は親子関係に希薄で姉弟関係しか知らない。
「未来君はそんなに笑う事ないでしょ。私だってこれでも努力しているの」
「いや、親子って良いなと思って。俺には母親との思い出があまりないから」
「ええ、未来のママとパパはどうしたんだ」
「渚と湊が気にするから言わなかったけど。父親は俺が生まれてすぐに母親は俺が小学生の時に亡くなったからね。でも。俺にはヒメ姉とスズ姉が居るから寂しくはなかった」
ここまで来たら隠しておく必要も無いだろう。
それにしても気が抜けたら腹が減ってきた。
「キッチンを借りますね」
「未来君、もしかして何も食べてないんじゃないの?」
「食べましたよ。缶コーヒーにアンパンは張り込みの基本ですから」
「馬鹿、自由にキッチンを使って良いから何でも食べなさい」
俺がキッチンに行くと渚と湊が付いてきた。
冷蔵庫を開けて何があるかチェックする。
「冷凍ご飯にとろけるチーズか」
ニンニクと玉ねぎをみじん切りにしてオリーブオイルで炒め、玉ねぎの色が変わったら適当に水を注ぎ冷凍ご飯を投入した。
木べらでご飯を解しながらコンソメを入れるて煮ていく。
ご飯が柔らかくなり水分が減って来たらとろけるチーズを入れて焦げないように注意しながら煮詰めていく。
全体がもったりして来たらパルミザンチーズとバターを入れて合わせるとチーズの香りが際立ってくる。
皿に盛ってパルメザンチーズを振ればなんちゃってチーズリゾートの出来上がりだ。
「わぁ、美味しそう」
「未来、食べたい」
「こんな時間に食べたら太るぞ」
「「食べたい!」」
もの凄い目で渚と湊に睨まれてしまった。そしてもう一つの視線を感じた。
「それじゃ、スプーン4本用意」
「はい」
「未来さん、運ぶのを手伝います」
「こうすれば大丈夫」
左手に皿を3枚持って右手で1枚持つと渚と湊の目が輝いている。
「凄い、レストランの人みたい」
「あのな、これが俺の本当の仕事なの。無茶なお願いをしない様に」
「「はーい」」
テーブルに皿を運ぶと湊が4人分の氷水とスプーンを用意しておいてくれた。
そして一応聞いてみる。
「汐さんも食べますか?」
「未来君がそう言うなら食べてあげるわよ。あくまで味見よ」
「ああ、ママって素直じゃないんだ」
「未来が作ったワタリガニのトマトパスタもミラノ風カツレツも美味しいって食べたくせに」
汐さんが真っ赤になっている。こんな状況にならなければ汐さんのそんな姿を見る事は無かっただろう。
リゾットもどきを食べ終わると汐さんに片付けはするから風呂に入れと言われ。
風呂から出てくると渚と湊は部屋で寝ていた。
「汐さん、毛布をお借りできますか?」
「未来君は何処で寝るつもりなの?」
「何処ってソファーで十分ですよ」
「私が無茶なお願いをしたのだからこっちにいらっしゃい」
俺が連れて行かれたのはとてもシンプルな汐さんの寝室だった。
大き目のローベッドの脇に布団が敷かれているのを見てため息が漏れ汐さんの覚悟の重さを感じる。
「ここで寝なさい。ソファーじゃ疲れは取れないわ。私が実証済みよ」
「拒否権はなさそうですね」
「別に良いわよ。渚と湊に嫌われたいのなら」
「それは遠慮しておきます」
俺が布団に潜りこむと汐さんは電気を落としてベッドに潜り込んだ。
渚と湊の事を引き合いに出したのは照れ隠しだろうと思う。汐さんの気持ちを素直に受け取っておこう。
「未来君、聞いても良いかしら。あなたのお母さんってどんな人だったのかしら?」
「はっきり覚えてないと言うのが本当の所です。でもとても優しかったのは覚えていますよ。父が居なかったので母と出掛ける事も殆どなかったですけど」
「そう、ごめんなさいね。こんな事をお願いしておいてこんな事を言うのは恥ずかしいのだけど私男の人に対しての免疫が無いの。だから仕事以外ではどう接していいのか判らないの」
どうやら俺の予想も満更じゃなさそうだった。
「ねぇ、聞いているの?」
「聞こえていますよ」
「初めて付き合ったのがあいつだった。そしてあいつは全てのはけ口を私にぶつけたわ。愛情の欠片も持ち合わさないあいつはキスさえしなかった。だから、恥ずかしい話だけどはじめてだったの」
衝撃的発言だった。
蛇淵の話は聞いていたのでそこまで酷かったとは思わなかったが、まさかあれが初めてだったなんて……
「あれは事故です。忘れてください。俺も忘れますから」
「馬鹿、忘れられるわけがないでしょ」
これ以上は明日の仕事に差し支えるので寝たふりをしよう。
「聞いているの? もう、馬鹿」
案の定、翌日は駄目出しのオンパレードだった。
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